ルビコンを渡る

相良武有

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第二話 独立

⑨由紀、救急車で総合病院へ担ぎ込まれる

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 だが、由紀は一眠りした深夜にまた吐いた。
トイレに駆け込もうとした由紀は、然し、間に合わずに廊下で噴き出してしまった。異常を感じて飛び起きた菅原がその様子を凝視した。
やっぱり血だわね、と由紀が間抜けな質問をし、菅原は洗面器と雑巾を用意しながら、そうだな、と呟いた。それから由紀は、発作が起こったようにごぼごぼと洗面器二杯分くらいのどす黒い血を吐いた。その黒い血をじっと凝視している由紀が妙に落ち着いているように菅原には見えた。
 
 由紀は吐血した後、菅原に命じられて口を漱ぎ、それから救急車に乗って市立総合病院へ担ぎ込まれた。
直ぐに緊急処置室に運び込まれ、白衣の医師や看護師が由紀を取り囲んだ。救急患者は此処で一定の処置を施され、その上で手術室や病室に移送される。部屋は見るからにひんやりとしていて、灰褐色の診療器具以外には何も無い。ひどく殺風景で人の心を不安にさせる所だな、と菅原は思った。
三十七、八歳の健康そうな医師が由紀に質問した。
「どんな具合でした?」
「血を吐きました」
由紀はしっかりとした口調で返答した。
「いつ?どれくらい?」
「一度目は夕食の時、今度は多量でした」
「もっと具体的に言って下さい。洗面器一杯程度?それとももっと多く?」
「洗面器二杯ちかくです」
「以前に何か異常はありましたか?」
由紀は思い出していた。朝、歯を磨くだけで胃液が込み上げて来たし、通勤途中の駅で戻したこともあった。地下鉄の階段を下りる時に足がふら付いて手摺りに掴まったことも何度かあった。一月ほど前のことである。
聴いていた医師が、なるほど、と言って頷いた。
でも、その程度のことは誰にだって有るわ、と由紀は思った。
 暗灰色の移動式レントゲン機械で何枚も写真を撮った後、由紀の鼻にチューブが差し込まれ、それはずるずると押し込まれて直ぐに胃に達した。由紀は強い吐き気に襲われ、透明なチューブの中を血液が逆流した。
次に医師は、ボクシングのマウスのようなものを由紀に銜えさせ、ゴム状の管を口に入れた。
「内視鏡ですよ、飲み込んで下さい」
そう言って、四、五十センチの棒を操ってそれを押し込もうとした。
由紀は咳き込み、むせた。身を捩り、悶え、胃の底に残っていた黒い血の塊を断続的に吐き出した。
「止めましょう」
数分後に医師が断念して看護師に告げた。
「止めよう、これ以上は危ない」
由紀は血と胃液の混じったものを吐き出し、眼に涙を浮べて身を震わせた。看護師が背中を擦り、肩を抱いた。
 
 それから由紀は、エレベーターで六階に在る外科病棟の集中治療室へ移された。ナースステーションの直ぐ横に在る、普通の病室とは違う部屋だった。
 最初に、手の甲に点滴針が刺されて、三つ、四つの点滴瓶に接続された。次いで、空気マスクが着けられ、鼻から入れたチューブと合わせると、由紀の身体には三本の管が取り付けられたことになる。
やがて、由紀は眠りに落ちたようだった。点滴瓶の中に混ぜられた睡眠薬の所為だったろう。ひと時でもまどろむことが出来れば、溜まりに溜まった疲労を溶かし、心も休まるだろう、菅原は痛々しい思いでじっと由紀を見守った。
思えば、由紀は絶えず何かに追い捲られて、心と身体の為にじっくりと休んだことなど一度も無かっただろう、出来るだけ安息すれば良い。菅原は胸を湿らせた。
「ねえ、今日は何曜日?」
目覚めた由紀が不意に聞いて来た。
「昨日が火曜日だったから、今は水曜日になったばかりだ。そんなことを気にかけずにゆっくり休めよ、な」
「あなた、会社に連絡して欲しいのだけど・・・」
「ああ、今し方、電話を入れておいたよ。当分の間、休ませて頂きます、って課長に言っておいた。面会謝絶だから暫くお見舞いはご遠慮します、とも言っておいたし、な」
「面会謝絶はちょっとオーバーね」
そう言って由紀は笑ったようだったが、空気マスクとチューブの所為で菅原にはその表情はよく見取れなかった。
 由紀の身体につけた管の具合を点検し、点滴瓶の分量を確認する為に、定時的に看護師が見回りにやって来た。が、その度に由紀は彼女に訴えかけた。
「お願い、家に帰りたいわ。早く帰らせて、ね、お願い」
「良いですよ」と看護師は微笑う。
「もうちょっと休んで、元気になったら帰りましょう、ね」
 菅原がちょっとでも集中治療室を出ようとすると、由紀は離れるのを嫌がった。
菅原は内心激しく後悔していた。由紀は未だ内視鏡すら飲み込めない。疑われるのは、真っ先に、胃癌、それから静脈瘤の破裂、あとは・・・。
あれだけ大量に吐血するまで俺はずうっと由紀の異変に気付かなかった。結婚してからずうっと俺は由紀に寄り添ったことがあっただろうか?
自分のことだけにかまけて、ちゃんと向き合うどころか放ったらかしにして来た。結婚して様変わりした生活への対応、好き合って一緒になったとは言え、生まれも育ちも違う他人同士が四六時中同じ屋根の下で暮らす気詰まりや気遣わしさ、あいつの仕事の上のストレス、そんなことに何一つ思いを至らせなかった。菅原は自分を責めた。
 
 漸く内視鏡が飲み込めるようになって、検査が終わった日の夕方、由紀は集中治療室を出て、普通の病室に移った。酸素チューブが外された。
一歩進んだかな、と菅原は思った。
だが、次の日の午後の回診時に、由紀がふと漏らした一言を医師が咎めた。
「水が一口飲みたいわ、あなた」
「何を言っているんですか、お腹が破裂するかどうかという状況なのに。未だ胃に出血が有ります。近々輸血します。水を飲むどころじゃないですよ」
「・・・・・」
「内視鏡をあと数回やってOKが出るまでは絶対に駄目ですからね」
付き添って来た看護師も念を押した。
「もう少しの、ほんの一寸の我慢ですからね」
医師が出て行った後、菅原は由紀を労った。
「気分はどうだ?少しは落ち着いたか?」
「うん、悪くはないわ。良くはないけど、決して悪くはないわ」
由紀が覚悟を決め、腹を据えたように菅原には思われた。
 
 入院五日目に二回目の内視鏡検査があった。
検査の前に、胃に入れる白い液体と喉を麻痺させるとろりとした薬を飲まされ、喉の奥に二種類の薬を塗られた由紀は、肩に注射を打たれる時に、看護師に問い掛けた。
「この前と同じことをするのですか?」
そうよ、と看護師が力強い声で答えた。
医師は手際良く由紀にマウスピースのようなものを銜えさせ、ゴム状のファイバー・スコープの先端を口の中へ入れた。先端はゆっくり食道を進んで胃に達した。
「あ、これだな」
医師はファイバー・スコープを一定方向に保って何かを見極めようとした。
数秒、経過した。
彼は傍で顕微鏡を覗いていた年長の医師に声をかけた。
「先生、これ・・・でしょうか?」
英語かドイツ語の単語を口にした。
スコープを覗き込んだ医師が答えた。
「・・・ああ、そうだね」
菅原にも由紀にも、背中に悪寒が走った。決定的な何かが発見されたのだ、伊達や酔狂で五日間も飲まず食わずにする訳がない。余程の事態なのだろう。二人の頭に、癌という言葉が思い浮かんだ。
が然し、医師は意外な言葉を口にした。
「菅原さん、血はきれいに止っていますよ。この分だと比較的早く治るかも知れませんよ」
医師はファイバー・スコープを抜き、ベッドから起き上がった由紀にそう語りかけた。
 だが、由紀の快癒は思ったほど捗々しくは進まなかった。下痢をしたり発熱したり、血圧が下がったり貧血症状に陥ったりして、医師の診察を受け看護師の助けを得なければならなかった。
 そして、由紀は、再び嘔吐した。
直ぐに内視鏡検査が行われ、医師が怒ったように言った。
「駄目だ。出血している、やり直しだ。食事を摂るのが早かったようだ」
菅原は、何を言っている、あんたに全て委ねて、あんたの指示でやっているんじゃないか、そう言いたかったが、その言葉は飲み込んだ。医師の機嫌を損ねてはならなかった。
 由紀はショックを受けた。つい先日までの明るい光が消えて、一度に闇の底へ突き落とされたようだった。また最初の絶飲絶食、点滴だけの療養に逆戻りした。一からやり直しだった。
菅原も由紀も癌を疑った。医師が告知しないだけではないのか?真実は胃癌じゃないのか?二人は不安と疑心の中で苦しんだ。
 菅原の頭の中を由紀の不在が掠めた。そして、初めて由紀と出逢った日のことが鮮明に蘇えった。
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