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第二話 独立
⑧「お腹が痛いのよ、鳩尾の辺りが」
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「どうした?もう食べないのか?」
「ちょっと・・・」
不意に由紀は箸を置いて立ち上がるとトイレに駆け込んだ。直ぐに吐く音がした。
「どうした?由紀」
返事は無く、そのまま静かになって、由紀が出て来る気配も無かった。
「おい、どうしたんだ?」
菅原は慌ててトイレを覗きに行った。
「一寸、これ、見て」
由紀の声は弱々しかった。菅原が今までに聞いたことも無いか細い声音だった。菅原は直感的に胸が騒いだ。
「吐いたのか?腹の具合が悪いんだな」
その時、菅原は血の臭いを嗅いだ気がした、が、紅い血の色は何処にも見当たらなかった。
「お腹が痛いのよ、鳩尾の辺りが」
菅原に顔を向けた由紀は、子供のように訴える口調で言った。
菅原が便器に顔を近づけてもう一度臭いを嗅いでみると、先程より強い血の臭いが生臭かった。菅原は頭から血の気が引く思いがした。
「どうだ?病院へ行くか?」
「今吐いたところだから、少し様子を見てみる」
「そうか、じゃ、ベッドで横になって居ろ、な」
抱えるようにしてベッドの脇へ連れて行き、衣服を脱がせようとすると、由紀は、自分でするから大丈夫、と言った。布団をかけてやった後、枕元のベッドライトを点けたが、そうしている間も、菅原の胸は動機を打ち続けた。先程嗅いだ血の臭いが何か悪夢の前触れのように感じられた。
「痛みはどうだ?」
「少し楽になったけど・・・。吃驚した」
由紀の顔からは血の気が失せていた。
「急に吐き気をもよおしたのか?」
由紀は顔を振った。
「何日からだ?」
「一週間ほど前からか、な」
ぎょっとして菅原は思わず強い口調になった。
「何故早く言わなかったんだ!」
「だって、直ぐに治ると思ったんだもの」
由紀は甘えるように言った。菅原は布団の中に手を差し入れて腹を探った。由紀の腹は豊かで温かった。
「痛いのはこの辺か?」
「もう少し上みたい」
くすぐったいわ、由紀はまた甘えた声を出した。滑らかな肌は菅原の手の下で柔らかく凹んだが、結局、何処が痛いのか、はっきりとは解からなかった。
「大分楽になったわ。あなた食べてよ、冷めてしまうから」
由紀はそう言って布団の中で身繕いをした。安堵の気持が少し菅原の胸に戻って来た。
菅原はリビングに戻るとクローゼットを開いて薬箱を取り出した。風邪薬や目薬、便秘薬、傷テープ、水虫の薬、下痢止め薬、鎮痛剤などが出て来た。市販の売薬だが無いよりは良いだろうと胃腸薬を探したが、それは無かった。由紀が既に飲んでしまったようだった。
菅原は何か大事なものを見忘れていた気がした。自分の独り立ちとその仕事のことにしか考えが及ばず、その間に、かけがえの無い大事なものを見忘れていたように思った。菅原はクローゼットの前で肩を落として自分を悔いた。そして、その萎える気持ちを掻き立てるようにベッドの由紀に声をかけた。
「腹が痛くなったのは、本当は何日からなんだ?」
「・・・・・」
「ずうっと前からなんだな」
答が無かった。
菅原がベッドルームに入ると、由紀は眼を閉じて仰向けに寝ていた。その目尻からうっすらと涙が滴っていた。その涙は菅原の胸を締め付けた。
「いつ頃からだ?」
由紀は記憶を手繰るように眼を開けて視線を動かした。
幾日か前の明け方、未だ日が昇る前であった。はっきりとは目覚めていないが、そうかと言って深く眠っている訳でもない由紀が、急に腹の上部に圧迫感を覚えた。痛みは無いが耐え難いほどの圧力を感じた。二、三度身体に震えが走り、それから胸が圧迫された。由紀は額に汗を滲ませ、吐き気を堪え、身体の震えが止るのを待った。五分か、十分か、やがて、潮が引くように収まって行った。
「一月ほど前から、ずうっと苦しかったの」
由紀が菅原に眼を向けて詫びるように言った。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ?うん?」
「直ぐに治まるだろうと思っていたのよ、でも一向に癒らなくて、怖くなって来ちゃって、言えなくなったの。あなたは独立したばかりで忙しそうだし、私の身体のことぐらいで心配掛けたくなかったし・・・」
「ま、余り心配するな。明日一緒に病院へ行こう、な」
菅原は自分の心に広がる不安を打ち消すように明るい声で言った。
「暫く仕事は休んで、早く治すことだ」
そう言って菅原は、余り食欲も無い夕食を摂る為に、ダイニングキッチンへ入って行った。
冷めて不味い食事を噛み締めていると、由紀が声をかけて来た。
「何だか楽になって来た。あなたに介抱して貰ったら、急に利いて来たわ」
「何言っているんだ、馬鹿」
「ご免ね、あなた。心配掛けて、本当にご免ね」
「謝ることはないよ、お前は心配しないで寝て居れば良いんだよ」
由紀は元々丈夫なたちで冬でも滅多に風邪など引かなかったし、昼間働いた後も家の中をきちんと切り回して、疲れた風も見せなかった。食事の献立から買物、炊事、洗濯、掃除、家計の遣り繰り、マンションの寄り合いや葬祭・・・あいつは休み無く働き通しだった、と菅原は思った。医者に診て貰ってゆっくり養生させれば、またこれまでのように元気になるだろう。
「ちょっと・・・」
不意に由紀は箸を置いて立ち上がるとトイレに駆け込んだ。直ぐに吐く音がした。
「どうした?由紀」
返事は無く、そのまま静かになって、由紀が出て来る気配も無かった。
「おい、どうしたんだ?」
菅原は慌ててトイレを覗きに行った。
「一寸、これ、見て」
由紀の声は弱々しかった。菅原が今までに聞いたことも無いか細い声音だった。菅原は直感的に胸が騒いだ。
「吐いたのか?腹の具合が悪いんだな」
その時、菅原は血の臭いを嗅いだ気がした、が、紅い血の色は何処にも見当たらなかった。
「お腹が痛いのよ、鳩尾の辺りが」
菅原に顔を向けた由紀は、子供のように訴える口調で言った。
菅原が便器に顔を近づけてもう一度臭いを嗅いでみると、先程より強い血の臭いが生臭かった。菅原は頭から血の気が引く思いがした。
「どうだ?病院へ行くか?」
「今吐いたところだから、少し様子を見てみる」
「そうか、じゃ、ベッドで横になって居ろ、な」
抱えるようにしてベッドの脇へ連れて行き、衣服を脱がせようとすると、由紀は、自分でするから大丈夫、と言った。布団をかけてやった後、枕元のベッドライトを点けたが、そうしている間も、菅原の胸は動機を打ち続けた。先程嗅いだ血の臭いが何か悪夢の前触れのように感じられた。
「痛みはどうだ?」
「少し楽になったけど・・・。吃驚した」
由紀の顔からは血の気が失せていた。
「急に吐き気をもよおしたのか?」
由紀は顔を振った。
「何日からだ?」
「一週間ほど前からか、な」
ぎょっとして菅原は思わず強い口調になった。
「何故早く言わなかったんだ!」
「だって、直ぐに治ると思ったんだもの」
由紀は甘えるように言った。菅原は布団の中に手を差し入れて腹を探った。由紀の腹は豊かで温かった。
「痛いのはこの辺か?」
「もう少し上みたい」
くすぐったいわ、由紀はまた甘えた声を出した。滑らかな肌は菅原の手の下で柔らかく凹んだが、結局、何処が痛いのか、はっきりとは解からなかった。
「大分楽になったわ。あなた食べてよ、冷めてしまうから」
由紀はそう言って布団の中で身繕いをした。安堵の気持が少し菅原の胸に戻って来た。
菅原はリビングに戻るとクローゼットを開いて薬箱を取り出した。風邪薬や目薬、便秘薬、傷テープ、水虫の薬、下痢止め薬、鎮痛剤などが出て来た。市販の売薬だが無いよりは良いだろうと胃腸薬を探したが、それは無かった。由紀が既に飲んでしまったようだった。
菅原は何か大事なものを見忘れていた気がした。自分の独り立ちとその仕事のことにしか考えが及ばず、その間に、かけがえの無い大事なものを見忘れていたように思った。菅原はクローゼットの前で肩を落として自分を悔いた。そして、その萎える気持ちを掻き立てるようにベッドの由紀に声をかけた。
「腹が痛くなったのは、本当は何日からなんだ?」
「・・・・・」
「ずうっと前からなんだな」
答が無かった。
菅原がベッドルームに入ると、由紀は眼を閉じて仰向けに寝ていた。その目尻からうっすらと涙が滴っていた。その涙は菅原の胸を締め付けた。
「いつ頃からだ?」
由紀は記憶を手繰るように眼を開けて視線を動かした。
幾日か前の明け方、未だ日が昇る前であった。はっきりとは目覚めていないが、そうかと言って深く眠っている訳でもない由紀が、急に腹の上部に圧迫感を覚えた。痛みは無いが耐え難いほどの圧力を感じた。二、三度身体に震えが走り、それから胸が圧迫された。由紀は額に汗を滲ませ、吐き気を堪え、身体の震えが止るのを待った。五分か、十分か、やがて、潮が引くように収まって行った。
「一月ほど前から、ずうっと苦しかったの」
由紀が菅原に眼を向けて詫びるように言った。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ?うん?」
「直ぐに治まるだろうと思っていたのよ、でも一向に癒らなくて、怖くなって来ちゃって、言えなくなったの。あなたは独立したばかりで忙しそうだし、私の身体のことぐらいで心配掛けたくなかったし・・・」
「ま、余り心配するな。明日一緒に病院へ行こう、な」
菅原は自分の心に広がる不安を打ち消すように明るい声で言った。
「暫く仕事は休んで、早く治すことだ」
そう言って菅原は、余り食欲も無い夕食を摂る為に、ダイニングキッチンへ入って行った。
冷めて不味い食事を噛み締めていると、由紀が声をかけて来た。
「何だか楽になって来た。あなたに介抱して貰ったら、急に利いて来たわ」
「何言っているんだ、馬鹿」
「ご免ね、あなた。心配掛けて、本当にご免ね」
「謝ることはないよ、お前は心配しないで寝て居れば良いんだよ」
由紀は元々丈夫なたちで冬でも滅多に風邪など引かなかったし、昼間働いた後も家の中をきちんと切り回して、疲れた風も見せなかった。食事の献立から買物、炊事、洗濯、掃除、家計の遣り繰り、マンションの寄り合いや葬祭・・・あいつは休み無く働き通しだった、と菅原は思った。医者に診て貰ってゆっくり養生させれば、またこれまでのように元気になるだろう。
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