ルビコンを渡る

相良武有

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第一話 転身

⑥俊介の店は美香が思っていたより立派だった 

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 二日後、美香は繁華街の本通りを東に歩いてメインストリートに出た。そして、コンビニの角を曲がってその先の小川に懸かる橋に向かった。夜の勤めをしていた時には、偶に、店から近くのスーパーや豆腐店などへ足らない物の買い足しに出ることはあったが、日盛りの昼前の街を歩くことは滅多に無かった。美香は降り注ぐ陽光をまぶしく感じながら歩いた。
 メインストリートには多くの人が行き来していたのに、一歩曲がった脇の通りは閑散としていて、美香が歩いて行く道の前方には、二人ばかりの小さな人影が動いているだけであった。建売りの戸建住宅や小さなマンションが立ち並ぶ街の何処かに豆腐屋が居るらしく、トーフ、トーフのラッパが微かに聞こえて来た。
 俊介の店は美香が思っていたより遥かに立派だった。建物は四階建てのビルだったし、玄関入口には「有限会社後藤造園」の看板が架かっていた。俊介が美香に語った言葉とは違って、事業は工事から維持管理までかなり手広く展開しているようであった。
 約束の定刻に店にやって来た美香を俊介が大きく手を挙げて事務所に迎え入れた。
簡単な説明と打合せの後、百聞は一見に如かず、と早速に専門学校への入学手続きを執ってくれた。
俊介が美香を励まして言った。
「明日から学校が始まるまでの間は、毎日店に出て来て資料に眼を通して呉れれば良いよ」
こうして、これまでの同級生の間柄ではなく、「小泉君」「社長」の関係が始まり、美香は初めて堅気の仕事をする普通の人生を生きるスタートを切ることになった。
 
 専門学校は毎日朝九時から夕方四時まで六ヶ月間、座学と実技の授業があった。
生徒は十代後半の若い子から五十五歳くらいの中高年まで多様だったし、女性も数は少ないものの何人かは居た。高校を卒業してからかなりの歳月が経っていたし、夜の勤めしかして来なかった美香にとっては、毎日朝九時からの通学と受講は当初はきついものとなった。授業の内容も美香が今まで殆ど興味を持ったことの無い事柄ばかりで理解するのが大変であった。
木や草花の種類とその特性、樹木の育て方、害虫の種類や駆除の方法、西洋庭園と日本庭園の材料や技法、造園の歴史、庭石や造園資材の種類と特徴等々の講義を受け、剪定等の実技も習った。
 六ヶ月間の専門学校を修了した美香を、俊介は更に一年間、より高度の知識と技能を習得させる為に造園高等職業訓練校に通わせた。
職業訓練校では週に二日間、美香は朝九時から夕方五時まで、庭作りの仕事の内容や使用道具或いは使用材料等についてより詳細に習得した。
住宅や店舗の周りに庭等の身近な緑空間を造る仕事、工場に木を植えて緑化する仕事、道路沿いの街路樹を植えたり維持管理したりする仕事、公園を造る仕事、住宅の周りの外観を引き立てる門・塀・車庫等を造るエクステリアの仕事、都市のヒートアイランド現象を抑える為に屋上や壁面を緑化する仕事、地域らしさや故郷の原風景を守り活かす仕事、害虫駆除や伸び過ぎた枝を切る剪定の仕事、台風等に備えて風通しを良くする為の剪定や冬に樹形を作る為の剪定の仕事等々、実に多伎多様に亘る庭師の仕事を知って、漸く美香にも興味と面白みが少しずつ湧き上がって来た。
 使用する道具も、剪定鋏やスコップ等の手で持つ道具から、大きな木や庭の石組等を工事する時に使うパワーショベル・クレーン付トラックまで多種多様であったし、使う材料も特性や大きさに応じて、常緑樹、落葉樹、針葉樹、高木、中木、低木、地被植物、芝等々数多くあった。
灯篭、石積み、平板、レンガ積み等、庭園や公園で普段よく見かける物もその殆どが造園の貴重な素材として使用されることを知って、次第に美香にもやる気が育って行った。
 週に二日間職業訓練校へ通うその合間を縫って、美香は俊介の店での技能習得の為の実習に励んだ。俊介や職人たちと一緒に造園の現場に出て、主に仕事の手順と実技を学び実践した。
先ずお客様と話をして要望や予算を聞く、次に庭を造る場所の測定をして図面を書く。図面と見積りが出来たらお客様と打合せをして契約をし、それから工事に入る。
工事の手順は、最初に庭の外周や塀や通路・車庫等を造る、それが終わると庭石や庭木を大きな物から順番に配置して植える。最後に化粧砂利等を敷き、後片付けと掃除をして完成する。
庭の規模に応じて工事にかかる日数は様々だが、手掛けることが多い仕事は二週間から三週間単位の仕事となる。公園や道路の街路樹などを維持管理する仕事では、長い仕事になって、一年かけて季節ごとに必要な剪定や除草等を行う。
 現場の大きさに応じて作業の仕方は変わるが、大体一斑三人ずつ、三班に分かれて作業を行っていた。
仕事は屋外ですることが殆どで、しかも、石も樹木も道具も重いし現場では身体を使うので肉体的にはきつかった。が、美香は、他の職人達と同じように重い石や土の入った袋を抱えて何度も階段を昇り降りしつつ、歯を食い縛って頑張った。此れしきのことに耐えられなければ女庭師として独り立ちすることなど覚束無いだろうし、普通の人の堅気の人生を生きることなど到底出来はしないだろうと腹を括っていた。
 雨が降れば外の仕事は出来なかった。雨の日には、終わった仕事の請求書を発行したり、材料を買いに出かけたり、道具を磨いたりして過ごした。雨が続くと仕事のスケジュールが厳しくなって、長雨の後には何日も働き続けなければならなかった。
然し、俊介は言った。
「この仕事はな、出来上がりが気に入らなかったり、何か失敗したりしても、とことん気が済むまでやり直すことが出来る。お客さんも自分も満足出来る庭を造ることが最上の喜びなんだ。想像していた以上の良い庭が出来たと、お客さんが喜びの声を上げてくれた時が至福の瞬間だ。この仕事は、自分も楽しみながら其処に住んでいる人にも喜んで貰える素晴しい仕事だ。そして、その関係は毎年続いて行くから他の物造りとは違った喜びだと思うぞ」
 美香は、俊介の指示で世話になった造園設計事務所でも深い教えを受けた。
主に公園や民間の大規模庭園等の設計監理をする事務所であったが、その設計士は独創的な石組や造園手法を探求していた。作品への拘りと仕事への思い入れは厳しかった。夜遅くまで図面を書き、翌朝一番に役所へ持参して打合せをする、そんな毎日が続いていた。
設計士は美香に言い聞かせた。
「図面一枚でも疎かにしてはいけない。書くことは造ることと同じだ。君の書いた図面を基に工事をする人間は仕事をするのだからね。そして、個性を大切して、拘りを持ち続けること、良いものを造る熱意が全ての根幹だ」
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