上 下
28 / 51
第9話 女ひとり

㉔女ひとり(2)

しおりを挟む
 席に戻った美香に弟が言った。
「この人のお父さんは会社の社長さんなんだ。和装小物を中心に呉服も帯も扱う、着物に関する総合商社のオーナー社長で、うちの会社の上得意先なんだ」
 弟は営業係長として、得意先である智恵の父親の会社へ商売で出入りする内に、何時とは無しに智恵と知り合った。呉服の業界では今も、大きな商社であっても、畳敷きの広い日本間で正座して、着物や反物を拡げて商談するところが多い。スーツ姿で礼儀正しくきちんと正座し、爽やかな物言いで商談を進める弟と、偶に店に姿を現わす智恵が何度か顔を合わせているうちに、互いに好意を持ったのだと言う。
「そんな訳で、今度の話も先様から切り出されたんだ」
「ふ~ん、お前も見込まれたもんだね」
智恵がふっふっと笑った。美香はそれを無視して聞いた。
「社長さんのお名前は何と仰るんだい?」
「あ、福本剛と言うんだ。会社は㈱福乃本美装苑だよ」
「そう、社長令嬢か。我々とは住んでいる世界が違うんだね」
キッチンで飲んだ酒が一気に効いて来る気配を美香は感じた。
「でもね、社長さんだからと言って恐縮することは無いよ。私をホテルに誘うのは、大抵、どこぞの会社の社長さんだからね。金で女を買おうという根性がさもしいよね」
「姉さん、変なこと言うなよ」
弟が智恵と美香に忙しく眼を配りながら言った。
「そんな言い方は、この人に失礼だろう」
「別に失礼じゃないよ。金持ちの社長と言ったって、どうってこと無いよ、と言っているだけよ」
「参ったな、もう。姉はさ、仕事が仕事だからズバズバものを言うんだ。気にしないでくれよな」
「何を謝っているんだよ。この人がお前を見染めたんだろう、結構なことじゃないの」 
美香は抑えていた酔いが一気に噴き出して来たのを感じた。
「何だ、姉さん、酒飲んでいるのか?いつの間に飲んだんだ!」
やっと気づいた弟が声を荒げた。
「酒ぐらい飲んだって良いだろう、祝い酒よ」
美香は、細い眼を据えて薄い笑いを浮かべた表情で此方を見ている智恵を見返した。
「勇一、何もへいこらすることは無いんだよ。お前の結婚費用は全部私が面倒見てやるからね。先方に遠慮することは無いんだよ。その為に一生懸命働いて貯金して来たんだから」
「金は要らないよ。結婚費用ぐらいは俺も貯めているよ」
持て余し気味に弟が言った。
「結婚したら、家と車を買って貰って、仕事もこの人のお父さんの会社へ移るんだ。下に妹さんが一人居るだけだから、いずれ俺が社長に就任するんだよ」
へ~え、と言って、美香は二人を見比べた。
「それじゃ丸抱えじゃないの」
「丸抱えって言うことはないだろう」
「だってそうじゃないの。なんだ、呉服屋に婿入りするのか。がっかりしちゃうなあ」
美香はふらりと立ち上がった。キッチンからウイスキーとグラスと氷を持って来て、テーブルの上でオンザロックを作った。
 智恵の顔に不安の色が浮かんだ。酒が入ると美香の心は鋭く冴えわたって、どんなことも見逃さない。怯えた智恵が手を伸ばして弟の袖を引っ張ったのも、目敏く見ていた。グラスのウイスキーをグッと呷った。
「じゃ俺、そろそろ・・・」
智恵に袖を引っ張られて、弟がそう言った時、未だよ!と美香が鋭く言った。
「未だ肝心の話が済んでないでしょうが」
「肝心の話?」
「結婚式は何日になるのよ」
「ああ、それ・・・」
弟は智恵と顔を見合わせた。
「未だ決まってないけど、決まったら連絡するよ」
「決まったら連絡する、だって?」
美香はグラスのウイスキーを一息に飲み干した。
「私はね、痩せても枯れても、お前のたった一人の身内だよ。大事な弟の結婚の日取りを姉の私に相談するのが世の中の筋ってもんでしょう。何日、先方の社長に会いに行きゃ良いのか、それを聞いているのよ」
若い二人はまた顔を見合わせた。そして、同時に美香を見た。智恵は少し青ざめて、弟は口の辺りに薄い笑いを浮かべていた。二人の眼には同じものが現れていた。それは先程まで、智恵の眼の中に在ったものである。堅気の者が水商売の女を無意識に蔑む眼の色であった。
「それは、まあ、明日にでもこの人のお父さんと話してみるけど・・・」
「もういいよ!」
美香はウイスキーを瓶ごと口に運んで、ごくりと一口飲んだ。
若い二人はたじろいで立ち上がった。弟は庇うように智恵の肩を抱いてやっている。
「もうお帰りよ!二度と来るんじゃないよ!堅気の伝統ある呉服屋さんじゃ、水商売の女は、商売の相手としちゃ結構なお客であっても、身内となりゃお呼びじゃないんだ。解っているよ!」
「・・・・・」
「ぐずぐずしてないで早くお帰りよ。勇一、お前だって、こういう姉が居ることが今じゃ迷惑なんだろう。本心言い当てられて怒るのか?」
「無茶苦茶言っているよ。手が着けられないや。じゃ、俺たち帰るからね。いいな」
「さっきから帰れと言っているだろう!立派なお店で旨いご馳走をたっぷり食べて来りゃ良いじゃないか!」
 二人がほうほうの態で出て行くと、美香はキッチンから塩を持ち出して、自室のドアの外に威勢良く撒いた。それから改めてグラスにウイスキーを注ぐと、ストレートで飲み始めた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

私の夫が未亡人に懸想しているので、離婚してあげようと思います

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:41,452pt お気に入り:702

王妃となったアンゼリカ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:134,267pt お気に入り:8,526

妹に全てを奪われた伯爵令嬢は遠い国で愛を知る

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,989pt お気に入り:55

私が消えた後のこと

恋愛 / 完結 24h.ポイント:30,637pt お気に入り:162

最後にひとついいかな?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7,406pt お気に入り:4

乙女ゲームのヒロインに転生してしまった様なので

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:2,201pt お気に入り:9

貴方のために涙は流しません

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:38,323pt お気に入り:2,622

処理中です...