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第9話 女ひとり
㉓女ひとり(1)
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「それじゃ、週末の忙しい時に申し訳ありませんが、今夜は休ませて頂きます」
美香は祇園花見小路の歓楽街に在るクラブのホステスである。
今夜は、親代わりになって育てた六歳年下の弟が、婚約者を美香に引き逢わせに連れて来ることになっていた。
三人で食べる夕食の食材を買い整えた美香が川に架かる橋の袂まで来た時、目の前をすいと掠め過ぎたものがあった。
あっ、つばめだわ・・・今年初めて見るつばめだった。
初つばめは縁起が良いんだわ・・・美香は心を軽くして家路を急いだ。
マンションへ帰り着いた美香は食材を冷蔵庫に収めた後、客を迎えるリビングの掃除を始めた。掃除機の音も心なしか今日は静かに聞こえた。
弟と相手の娘は、午後六時前、陽が落ちる少し前にやって来た。
弟は濃紺のスーツに薄いブルーの無地ネクタイを締め、胸には白いハンカチが覗いている。見違えるほど大人になっていた。そして、弟の後ろから身を竦めるようにして、遠慮がちに部屋へ入って来た相手の娘を見て、美香は眼を見張った。着ているものはブランド品の流行もので、いかにも高価そうである。無造作に手にしているバッグも舶来の高級品であった。
その上、肌は滑らかに白く、身体もほっそりしている。艶のある長い黒髪は肩まで垂れ下がり、切れ長の細い眼は知的であった。弟の嫁になる人と言うから、てっきり会社勤めのОLだと思っていた美香は、虚を衝かれた思いだった。
この娘は・・・何処かのお嬢さんだわ・・・
美香は気を取り直して声をかけた。
「さあさあ、狭いところですが、どうぞお掛けになって下さい。今、お茶を入れますから」キッチンへ立った美香は柱に隠れて手で髪を直したが、髪を直したくらいでは追いつかないだろう、と思った。夜の商売につきものの寝不足と酒とで浮腫んだ顔は、明るい蛍光灯の下では隠しようも無かった。
美香は急に弟に腹が立って来た。相手があんなお嬢さんなら、それならそうと事前に話しておいてくれたら良かったのに、いきなりじゃ、面食らうじゃないか、と思った。別にお嬢さんだからと言ってどうということは無いが、勇一の姉でございます、と名乗るには、少し気が引ける思いがした。そのことが腹立たしかったのである。
「わざわざこんなむさ苦しい狭いところへ来て頂いて・・・」
美香はお茶を出しながら、そう言った。気持が卑屈になっているのが自分でも解った。
弟が娘に「姉だよ、俺の親代わりなんだ」と言った。
「姉さん、この人が福本智恵さんだ」
それまで、やや俯き加減にしていた娘が顔を上げてはっきりと美香を見た。
色白のほっそりした顔だった。未だあどけなさが残る可愛い顔であるが、切れ長の眼だけが瞬きもせずに自分を見たのを美香は感じた。見定められたような、値踏みされたような感触が残った。が、直ぐに気を取り直して挨拶を返した。
「勇一の姉です、宜しく、ね」
娘は丁寧に頭を下げて応えた。
「さあ、兎に角、初めて来られたんだから、先ずはちょっと気分を解すのに、ワインでも開けようか」
美香はそう言って冷蔵庫の方へ立とうとした。すると、弟が手を振った。
「いや、酒はいいよ。この人は酒が駄目なんだ」
「でも、形だけでも」
「いいと言ったら、いいんだよ」
弟は素っ気なく言った。
「そうかい、でも何だか恰好が付かないわね」
美香が言うと、智恵がまた顔を上げて美香を見た。細長の眼に笑いが見えたような気がした。が、智恵は笑った訳でもないようであった。おや、この眼は何だろう、と美香が思ったとき、智恵はもう顔を伏せていた。
「それじゃ、お酒は止めにして、ご飯にしようか」
美香が言うと、弟と智恵が顔を見合わせている。智恵が弟の背広の袖を引っ張ったのが目に入ったが、美香は見なかった振りをした。
「本当はワインぐらい軽く飲みながら、色々と話を聞かせて貰おうと思ったんだけど、まっ、良いか。食べながらでも話は出来るわよね」
「姉さん」
「何だい、怖い顔をして」
「姉さん、ご飯は要らないよ」
美香はキッチンへ行こうとして立ち上がっていた身体を、ゆっくりと椅子に沈め直して、二人を見た。
「ふ~ん。お酒も飲まずご飯も食べないで、どうするのよ?」
「用意してくれて悪いんだけど・・・」
弟は、名前を聞けば誰もが知っている高級料理店の名前を言った。繁華街の名店であった。
「今夜は二人で其処へ行くことになっているんだ」
「へ~え。豪勢なもんだね」
美香は頬の辺りから血の気が引き、顔色が変わるのを自分でも意識した。
「それだったら、こんな狭いむさ苦しい処で、ご飯なんか食べていられないわね」
「嫌味は止めてくれよ、姉さん」
弟は笑おうとしたが、顔が少し引き攣った。
「いや、悪いとは思ったんだけど、この人のお父さんに、飯でも食って来い、ってお金を貰ったものだから」
「別に引き止めはしないよ、安心して行っておいで」
美香は二人の前から湯飲み茶碗をお盆に移して、立ち上がった。
「それじゃ、少し話を聞かせて貰おうか。先方さんの名前も碌に知らないんじゃ、姉として話にならないからね」
「当たり前だよ、それを話しに来たんじゃないか」
そう言う弟の声を聞き流して、美香はポットのお湯を急須に注ぎ足した。そして、キッチンの隅でコップに冷酒を注いで一息で飲み干した。一寸思案してから、美香はもう一杯酒を注いだ。それを、顔を仰向けて一気に呷ると、口を拭ってリビングの方へ引き返した。短いカーテンだけで仕切られたキッチンであるが、上手く柱の陰に隠れて飲んだので、二人の座っている場所からは見えなかった筈である。
美香は祇園花見小路の歓楽街に在るクラブのホステスである。
今夜は、親代わりになって育てた六歳年下の弟が、婚約者を美香に引き逢わせに連れて来ることになっていた。
三人で食べる夕食の食材を買い整えた美香が川に架かる橋の袂まで来た時、目の前をすいと掠め過ぎたものがあった。
あっ、つばめだわ・・・今年初めて見るつばめだった。
初つばめは縁起が良いんだわ・・・美香は心を軽くして家路を急いだ。
マンションへ帰り着いた美香は食材を冷蔵庫に収めた後、客を迎えるリビングの掃除を始めた。掃除機の音も心なしか今日は静かに聞こえた。
弟と相手の娘は、午後六時前、陽が落ちる少し前にやって来た。
弟は濃紺のスーツに薄いブルーの無地ネクタイを締め、胸には白いハンカチが覗いている。見違えるほど大人になっていた。そして、弟の後ろから身を竦めるようにして、遠慮がちに部屋へ入って来た相手の娘を見て、美香は眼を見張った。着ているものはブランド品の流行もので、いかにも高価そうである。無造作に手にしているバッグも舶来の高級品であった。
その上、肌は滑らかに白く、身体もほっそりしている。艶のある長い黒髪は肩まで垂れ下がり、切れ長の細い眼は知的であった。弟の嫁になる人と言うから、てっきり会社勤めのОLだと思っていた美香は、虚を衝かれた思いだった。
この娘は・・・何処かのお嬢さんだわ・・・
美香は気を取り直して声をかけた。
「さあさあ、狭いところですが、どうぞお掛けになって下さい。今、お茶を入れますから」キッチンへ立った美香は柱に隠れて手で髪を直したが、髪を直したくらいでは追いつかないだろう、と思った。夜の商売につきものの寝不足と酒とで浮腫んだ顔は、明るい蛍光灯の下では隠しようも無かった。
美香は急に弟に腹が立って来た。相手があんなお嬢さんなら、それならそうと事前に話しておいてくれたら良かったのに、いきなりじゃ、面食らうじゃないか、と思った。別にお嬢さんだからと言ってどうということは無いが、勇一の姉でございます、と名乗るには、少し気が引ける思いがした。そのことが腹立たしかったのである。
「わざわざこんなむさ苦しい狭いところへ来て頂いて・・・」
美香はお茶を出しながら、そう言った。気持が卑屈になっているのが自分でも解った。
弟が娘に「姉だよ、俺の親代わりなんだ」と言った。
「姉さん、この人が福本智恵さんだ」
それまで、やや俯き加減にしていた娘が顔を上げてはっきりと美香を見た。
色白のほっそりした顔だった。未だあどけなさが残る可愛い顔であるが、切れ長の眼だけが瞬きもせずに自分を見たのを美香は感じた。見定められたような、値踏みされたような感触が残った。が、直ぐに気を取り直して挨拶を返した。
「勇一の姉です、宜しく、ね」
娘は丁寧に頭を下げて応えた。
「さあ、兎に角、初めて来られたんだから、先ずはちょっと気分を解すのに、ワインでも開けようか」
美香はそう言って冷蔵庫の方へ立とうとした。すると、弟が手を振った。
「いや、酒はいいよ。この人は酒が駄目なんだ」
「でも、形だけでも」
「いいと言ったら、いいんだよ」
弟は素っ気なく言った。
「そうかい、でも何だか恰好が付かないわね」
美香が言うと、智恵がまた顔を上げて美香を見た。細長の眼に笑いが見えたような気がした。が、智恵は笑った訳でもないようであった。おや、この眼は何だろう、と美香が思ったとき、智恵はもう顔を伏せていた。
「それじゃ、お酒は止めにして、ご飯にしようか」
美香が言うと、弟と智恵が顔を見合わせている。智恵が弟の背広の袖を引っ張ったのが目に入ったが、美香は見なかった振りをした。
「本当はワインぐらい軽く飲みながら、色々と話を聞かせて貰おうと思ったんだけど、まっ、良いか。食べながらでも話は出来るわよね」
「姉さん」
「何だい、怖い顔をして」
「姉さん、ご飯は要らないよ」
美香はキッチンへ行こうとして立ち上がっていた身体を、ゆっくりと椅子に沈め直して、二人を見た。
「ふ~ん。お酒も飲まずご飯も食べないで、どうするのよ?」
「用意してくれて悪いんだけど・・・」
弟は、名前を聞けば誰もが知っている高級料理店の名前を言った。繁華街の名店であった。
「今夜は二人で其処へ行くことになっているんだ」
「へ~え。豪勢なもんだね」
美香は頬の辺りから血の気が引き、顔色が変わるのを自分でも意識した。
「それだったら、こんな狭いむさ苦しい処で、ご飯なんか食べていられないわね」
「嫌味は止めてくれよ、姉さん」
弟は笑おうとしたが、顔が少し引き攣った。
「いや、悪いとは思ったんだけど、この人のお父さんに、飯でも食って来い、ってお金を貰ったものだから」
「別に引き止めはしないよ、安心して行っておいで」
美香は二人の前から湯飲み茶碗をお盆に移して、立ち上がった。
「それじゃ、少し話を聞かせて貰おうか。先方さんの名前も碌に知らないんじゃ、姉として話にならないからね」
「当たり前だよ、それを話しに来たんじゃないか」
そう言う弟の声を聞き流して、美香はポットのお湯を急須に注ぎ足した。そして、キッチンの隅でコップに冷酒を注いで一息で飲み干した。一寸思案してから、美香はもう一杯酒を注いだ。それを、顔を仰向けて一気に呷ると、口を拭ってリビングの方へ引き返した。短いカーテンだけで仕切られたキッチンであるが、上手く柱の陰に隠れて飲んだので、二人の座っている場所からは見えなかった筈である。
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