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第8話 帰れる幸せな場所

㉑帰れる幸せな場所(2)

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 克彦は有希に結婚を無理強いはしなかった。福岡へ赴任してからも、頻繁に、電話で話したりメールを送ったりして、彼女の心が熟すのを待った。
 有希への電話は毎日欠かさなかった。二人の間には東京から福岡と言う遠い距離が横たわっている。電話だけが二人の間を繋いでいるのだった。
 スマホの受話器に返って来たのは有希の屈託無い声だった。彼女は、意識して、明るく弾んだ調子をたっぷりと声に籠めて応答した。言葉がメロディを奏でるように明るく生き生きと早口で話した。明るく話す有希は、待って居ました、と言わんばかりに饒舌だった。克彦にも彼女の思いは十分に伝わって来た。何もかもを温かく包んでやりたい、と彼は思った。
 だが、やがて、有希の声の調子が変わり、急に、しゅんと花が萎んだようになった。
「あなたが居なくて寂しい・・・」
少しの間、沈黙が流れて、二人の間に横たわる距離の大きさが克彦の胸に拡がった。
有希の声は悲しみを帯び、メランコリックな調子になった。
「それで、この頃、思うんだけど、わたし、間違ったのかしら、って・・・わたしがあなたに寄り添って、あなたの元に引っ越して、結婚したら・・・」
会話が途切れた。
「わたし、もう滅茶苦茶に淋しくなることがあるの。やっぱり、あなたが恋しい」
克彦の胸も有希の居ない寂寥感に締めつけられた。克彦が宥めるように言った。
「どうだ、今度の盆休みに、一度、此方へ来ないか?」
「えっ?行っても良いの、真実に?」
有希の声が弾んだ。
「解ったわ、必ず行くわ、きっとよ!」

 盆休みを挟んだ夏季休暇の二日目に、有希は福岡へ旅立った。
台風が九州に接近していると言うニュースを見て、彼女は空港に早めに着き搭乗時間の来るのを待った。羽田の空は風も無く穏やかに晴れていた。空港の電光掲示板で確かめると、搭乗便はどうやら予定通り飛び立つようだった。有希はホッと一息ついた。
 乗った飛行機が福岡へ近づくに連れて有希は不安になって来た。
こんなにも激しく強い台風は何年振りだろうか?・・・強風を受けて機体が揺れた。
地震の時よりも揺れは強いわ・・・雨の音も風の音も機内で聞こえた訳ではなかったが、途轍もなく不気味な音を立てているように有希には思えた。
 搭乗機は福岡空港の上空まで来たにも拘らず、いつまでも一向に着陸しなかった。
暫くして、機内アナウンスが言った。
「着陸出来ないので、羽田へ引き返します」
機内は騒然となった。
何度かトライしたものの台風の強風で降りられず、飛行機はそのまま羽田へ向かった。
もう、窓の下には、福岡の風景が広がっているのに・・・彼が空港まで迎えに来てくれているのに・・・やっと会えると、ワクワクしていたのに・・・会える時間は限られているのに・・・
心折れたまま、有希は羽田に帰着した。そして、航空会社が全員に配布した一律の交通費を握りしめて、彼女は独り、タクシーで自分の家に帰った。
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