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第7話 希望の相棒

⑲希望の相棒(3)

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 退院二週間後に初めての検診があった。検査結果は概ね良好だった。
心臓の大きさは肥大の様子も無く入院時に比べて普通サイズに戻りつつあったし、心電図も安定、心臓の健康状態をチェックするBNP値も大幅に低下、糖尿の数値も許容内、悪玉コレステロールの値も規定値以下に押さえられていた。降圧利尿剤の効き目もあって腎機能の働きも安定しており、服薬の種類と量も変わらなかった。投薬は六カ月後に行う心エコーとカテーテル検査の結果が良ければ見直しを行うとのことだった。沢木はホッと胸をなでおろした。
 数日後、沢木は本社ビルに大田常務を訪ねた。
エレベーターで十一階の役員室に赴いた沢木は、其処で二十分ほど待たされた。
「やあ、待たせたな」
飛び込んで来た常務は、然し、見るからに不機嫌で疲れてもいる様子だった。
「沢木、君は何日復帰出来る?」
バインダーに挟まれた書類に眼を通しながら、常務は気忙しく訊いた。
「はい、恐らく後一ヶ月、長くても二ヶ月、というところでしょうか」
常務は、ふむと呟きつつも何事かを思案した。
「身体はどの程度回復している?」
「はい。概ね九十パーセント程度は大丈夫です」
沢木は、十五%壊死した心臓の半分は元に戻らず、後の半分も今後の回復状況による、ということは話さなかった。
大田常務がもう一度訊いて来た。
「何日だって?」
「一ヶ月、いえ、二十日も有れば十分だと思います」
「そうか、なら、君は当分本社勤務だ、本社人事部預けということだ。営業部長のような激務は退いて貰って、健康回復に努めて貰おう。回復すればまた次のチャンスも有る。そういうことだ」
実に常務らしい即断即決だった。余人の干渉を排し、孤独な立場で判断することを繰り返して来た権力者の凄みだった。
沢木は、ああ、終わったな、と思った。否、既に終わっていたことに気付いた気がした。
 沢木が大田常務から本社の人事部勤務を言い渡されて数日が経った日曜日に、恵子が、それまで気に掛かっていたことを聞くかのように、沢木に訊ねた。
「ねえ、何かしたいことが有るんじゃないの?」
「散歩」
「後は?」
「手が震えない、階段で振らつかない、吐き気が無い、乗物で酔わない、意識が透明になった、詰まらないことで悩まなくなった、食欲が出て来た、ひょっとしたら性欲も回復したかも、だから・・・」
「馬鹿ねぇ」
「はっはっはっ・・・」
 然し、沢木は思っていた。
兎に角、体力を回復することが最優先だ、体力と共に気力が戻れば真実に自分がやりたいこと、したいと望むことが具体的な像として見えて来るだろう。挑戦したいと激しく闘志を掻き立てられること、壁があってもそれを何が何でも乗り越えたいと切望すること、それがスタートだ、今は養生に専念することが第一だ・・・
「人生には上り坂も在れば下り坂も有るわ。上り坂は、なんだ坂、こんな坂、と一気に駆け上がっても良いけれど、下り坂はゆっくり緩やかに歩かないと滑り転げる危険がある。更に、下り坂は支えが無いと歩き切れないことがあるかも知れない。私たちも今が峠なのかも、ね」 
「人生幾星霜、人の一生と空行く雲は風の吹き様で西東、山在り河在りだが、然し、確かに希望は在るものだな、と俺は思っているよ」
「希望って?」
「苦楽に満ちた人生を一緒に歩く相棒が居ることだよ。俺はお前の希望で有り続けたいと思うし、お前も俺の希望で有り続けて欲しいと思うよ」
「お互いがお互いの希望で有り続けたいと願い合える相棒が居るということは素晴らしいことなのね」
暫く静かな温かい時間が流れた。
青く晴れ上がった空には今日も白い鳥が二羽、番が舞うように飛翔していた。
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