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第3話 プレイおやじの愛の眼覚め

⑧プレイオヤジの愛の眼覚め(2)

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 それから若原は、週に一、二度は彼女と会うようになった。
仕事の関係で休日が合わず、会うのはいつも夜であった。食事をし、映画を観、コンサートに出かけ、書店で本を買う。
音楽は壮大で神々しく人間臭くて、それでいて恰好良いですね、と彼女は言った。
「メロディーが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽でしょう。メロディーは自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものでしょうね」
或る時、突然、彼女が直截に聞いて来た。
「あなたは何か特別な趣味をお持ちになっていらっしゃるの?」
若原は不意打ちを喰ったようで狼狽えた。まさか、女性が趣味だ、とも答えられない。
答を探すように視線を宙に泳がせていると、彼女が言った。
「私は世界遺産がとても好きなの」
「世界遺産?」
「ええ。とても嬉しくてハッピーな時とか、逆に、物凄く辛くて苦しくてきつい時とかには、思い切ってさっと観に行っちゃうの。あの壮大で荘厳な実物を見て神秘と謎の世界に浸っていると、日頃の喜怒哀楽や人生の悲喜こもごもなんて何時の間にか何処かへ吹っ飛んでしまう。人間って凄いなあ、ってつくづく感じ入ってしまうわ」
「然し、そういう石の遺跡や世界遺産に関心や興味を持つ契機は何だったの?」
「ええ、それはね。十数年前に書籍の編纂で世界遺産のシリーズ物を刊行することになったの。その時に石の遺跡の特集を組んだのね、で、実際に現場へ観に出かけて、その余りの凄さに圧倒されてしまったの。古代の人達がどうやってあの巨大な石を切ったり運んだり積み上げたりしたのか、何人の人間がどれくらいの時間をかけて作り上げたのか、現代の我々にはもう想像を遥かに超えた世界だと思った。時の司祭者や為政者の絶大な権力による使役で夥しい数の犠牲者を出しただろうけど、兎も角も創り上げたその偉業に、言葉も出ない程に圧倒されたの。それが最初の契機だったと思うわ」
話を聞きながら若原は、彼女は一本筋の通った背骨をしっかり持った大人の女性だ、とその教養の深さと聡明さに愈々魅せられた。
「でも世界遺産って真実に良いわよ。心も身体も癒されるし、それだけで無く、明日を生きる活力も勇気も貰える。観ていると何かとてつもなく大きなものに包まれて精気が蘇える、自分が新たに生き返る気がするのね」
そう言って彼女は照れたように、はにかむように、小さな微笑いを頬に刻んだ。それは若原にとってこの上なく愛おしかった。

 何を聴いても、何をしても、彼女と居ると若原の心はときめいた。
それまでの大勢の女性達との出会いとは似ても似つかぬ感情が胸に溢れた。それは敬愛の情だった。それまで若原は女性に対して尊んだり敬ったりという思いを抱いたことは無かった。女性は若原にとって情事の対象として熱意を傾ける存在でしかなかったのである。だが、彼女は違っていた。女というよりも一人の人間としての存在、何か自分よりも気高い崇高なものが彼女の中に存在するように感じられて、畏敬の念すら抱いた。こんな気持は初めて味わう感情だった。
そうだ、これが愛というものだ! ・・・
 だが、若原は次第に、自分が彼女から愛されるに相応しい存在かどうかという不安につきまとわれるようになった。彼女を愛し始めた途端に、色んな不安に付きまとわれることになってしまった。先ず、自分が歳をとり過ぎていることが心配になった。それから、彼女が彼のことを身の程知らずの浮気男と思っているのではないかと心配になったし、教養や知性の乏しい軽薄な人間と内心軽蔑しているのではないかと心配になった。彼はまさしく疑心暗鬼の心理状態に陥ったのである。
 そして、彼女の誕生日の夜が決定的となった。
若原は、彼女の誕生日の夜に、二人が始めて食事を共にしたあの想い出の高級ホテルのフレンチディナーへ彼女を誘った。
彼女は伸びやかなベア天竺ジャージーにプリント生地をドッキングしたトリックワンピースを着ていた。さらりと纏うだけで美しい、一工夫された心弾む春に相応しい大人の装いだった。その女らしさと爽やかさに若原は視線を釘付けにした。
芳醇なワインを味わい、コース料理を賞味し、新鮮な魚介類と瑞々しい野菜のハーモニーを楽しんで、若原の胸は心地良く弾んだ。
それから若原は小さな包みを取り出して彼女に手渡した。誕生日プレゼントだった。
彼女は輝く笑顔で「ありがとう」と言い、まるで少女のように歓んだ。若原はその表情を見て、彼女も自分を愛してくれているのではないかと半ば期待し、半ば念じた。
 食事の楽しい語らいの後、二人して地下のクラブへ降りて行った。
彼女の手を取り、肩を抱いて、音楽に合わせて身体を揺する若原とリードに委ねてナチュラルに動く彼女の組み合わせは似合いのカップルだった。
一曲踊った後、席に戻った二人はシャンパンカクテルを飲み、エンターテイナーの奏でるバラードを聞きながら、仄暗いロマンティックな雰囲気の中で、若原が彼女にプロポーズした。
彼女はとても優しかった。彼の手を握って、とても嬉しい、ありがとう、と言った。だが、彼女は肝心の返事はしなかった。応諾は留保したのである。
 その晩、帰宅の途中で若原は、とんでもないヘマをやらかしたことを覚った。
もっと冷静になるべきだった、あんなことは口にすべきじゃなかったんだ・・・後悔が若原の胸を覆った。
彼女が電話に出なくなったのは、その翌日からである。

 そこまで考えた時、若原の携帯電話がプルプルと鳴った。
電話に出た若原の顔が一瞬にして、陽の出のように明るくなった。電話は彼女からだった。
「気持の整理をつける為に、トルコから中近東へ友達と旅行に行って、大好きな世界遺産を見て廻って来たの。今帰って来たばかりだけど、これから直ぐに会いたいの、駄目かしら?」
心弾ませて一も二も無く応諾した若原は、直ぐに、そそくさと外出の支度を始め、夕闇に包まれてネオンが明るく煌めく街へ踏み出して行った。その足取りは、初めて真実の愛に目覚めたプレイボーイ、否、プレイオヤジの浮き立つ心と重なるように、とても軽やかだった。
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