時代小説の愉しみ

相良武有

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第四話 お庭番と酌女

④おみね、十五歳で春を鬻ぐ

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 おみねは相変わらず大酒を飲んでは恒一郎に悪態をついていたが、その悪態も酔い振りも以前ほどの威勢は無くなっていた。
時々、思い出したように恒一郎に酌をして、ぼんやり考え事をしていることが多くなった。おみねが何かを話したがっているのだと恒一郎は気づいていたが、その契機を掴ませないように注意した。彼は彼でおみねを見ていると、胸の奥にきゅんと痛むものが有ってやり切れなかった。
 おみねはいつも銀杏返しやつぶし島田に結っている髪に大粒の錺簪を挿していたが、緑色の滴るような濃い簪はこうした場所で働く女の髪飾りにしては不似合いであった。
一度、恒一郎はその簪を褒めたことがあった。おみねは嬉しそうにそれを抜き、長い簪の柄を長襦袢の袖口で丁寧に拭いて、言った。
「おっ母さんの形見なんです。これ一つ切り・・・」
恒一郎はそれ以上訊ねなかったが、おみねは自分から話し出した。
「おっ母さんが生まれたのは深川の大きな材木問屋だったそうですが、火事を出してからお店が潰れちゃって・・・おっ母さん、芸者になって、散々苦労した挙句に死んじまって・・・あたしだけは水商売はするまいと思って、堅気のお店へ女中奉公に入ったんですけど・・・或る時、お店のお金が無くなったんです。親無し子で身元引受人の居ないあたしが疑われて・・・」
朱色の長襦袢の袖の中で緑色の玉がくるくると動いた。
「番頭さんが言ったんです、その玉簪を売ってお金をお店へ返せば疑いも晴れるし、お店に置いてやるって・・・でも、あたし、売りませんでした。お金、あたしが盗んだんじゃないし・・・でも、店を追い出されたんです・・・」
「誰か、お前ぇの味方になって、お前ぇを庇ってくれる奴は居なかったのか?」
「居るもんですか・・・手代の一人は、庇って欲しかったら言うことを聞けって、蔵の中へ連れ込んで・・・あたし、十五だったんです、未だ・・・」
「酷い!」
恒一郎は思わず声を出した。
「その後はもう十五の小娘が夜の泥水にどっぷり浸かって、独りで足掻きながら必死に生きて来たんです。その挙句が今のあたしですよ」
おみねは投げやりにそう言ったが、その言葉には心の憤怒が籠っているようだった。

 最初に奉公した堅気の店を追い出されたおみねは、夜の水商売に入って身過ぎ世過ぎを生きて行くより他に道は無かった。盗みの疑いで追い出された宿無しの親無し子を雇う堅気の固い店は何処にも無かった。おみねは仕方無くふらりと眼についた薄汚い小料理屋へ住み込んで働いた。
雇い入れた店の主が言った。
「お前ももう一人前だ。辛抱して、頑張って働くのだぞ」
だが、働き始めた店で仕事にも慣れ、客とも馴染んだ頃に、主の女房から中年の常連客と寝ることを強いられた。驚いたおみねは早々に逃げ出したが、次に勤めた店でも同じであった。
「後生だから堪忍して!お願い・・・」
おみねは大きな男の躰の下で哀訴したが、その声は男の強い力で空しく掻き消された。十五の春のあの暗い土蔵の中が蘇った。
 初めは嘆き哀しみ憤ったが、やがて心が麻痺して、何とも思わなくなって行った。何時までも泣いてはいられなかったし、そんなことでは生きても行けないと、おみねは自分自身に居直った。その頃には、あの店の主が言った「辛抱しろ」という言葉には、こういうことも含まれていたのだと解っていた。おみねは波に流されるように、浮世の仕組みの中を無感情に流れて行った。

 その後、おみねの方から惚れて入れ揚げた男もあった。二十五、六の指物師でちょっとした男前であった。店へ呑みに来た貫太郎と言うその男におみねは一目惚れした。男の為なら女郎に身売りしても構わないと思うほど一途に惚れ込んだ男だったが、二年もすると貫太郎はおみねに飽きて、結局は、おみねを裏切って別の女へ逃げて行った。
「別れないで・・・」
おみねが取り乱した息遣いで啜り泣きながら叫んだ。
「あたしを捨てないで!後生一生のお願いよ・・・あんたの為なら何だってする。だから、お願い、捨てないで・・・」
貫太郎がびしっと冷たいほどの音を立てて帯を締め直した。
「嫌やよ、あたしは別れるのは嫌や・・・」
泣きながらおみねは武者ぶり付いた。
「あんたに捨てられたら、あたしは死んでしまうから・・・」
「馬鹿なことを言うんじゃねえ!」
おみねの真剣さとは裏腹に、貫太郎が慌てた調子で言った。
「このままじゃ、お互い、にっちもさっちも行かねえから、当分様子を見ようって言っているんだ!」
おみねが啜り泣き、貫太郎が宥めた。
貫太郎が一足先に舟宿を出た。如何にも江戸の職人らしい身形の、役者にしてもいい程の男前だが、何処か小才が利いて、自分勝手なところが剥き出しになっている眼をしていた。おみねが後を追ったが、男は振り向きもせずに辻駕籠を呼んで一人で乗って行った。
去り行く貫太郎を見送ったおみねはそろそろと歩き出した。情事の後の潤んだ眼をし、躰にも締まりが無かった。身も心も男に捧げ尽くした感じだった。とぼとぼと肩を落として歩く姿は物悲しく哀れだった。
 程無くして、男が同じ店の若い女に乗り換えたことを知ったおみねは頭に血が上って逆上した。
おみねは店の厠の前の手水場で、あきえと言う若い酌女を掴まえた。
あきえは、歳は十八で、胸が大きく腰の括れた素晴しい躰を持った今が旬の酌女だった。
「ちょっと、あんた!」
おみねの眼は憤怒の炎で燃え上がっていた。
「妙な真似はしないでよ!」
「何のこと?」
あきえはしらばっくれた。
「何よ、解かっているくせに。他人の大事な男に色眼を使って、ちょっかいなんか出さないでよ。まったく油断も隙も有りゃしない」
「あたいはちょっと遊んだだけよ、そんなこと、別にあたいの勝手でしょ」
あきえはふてぶてしく嘯いた。
「そんなに大事な男なら、一日中、首に縄つけて引っ張っとくと良いのよ!」
おみねは新米の若い酌女の物言いに腹が立った。
「何だって、この泥棒猫が!」
おみねはいきなりあきえの頬を引っ叩いた。そして、腕を掴んで喧嘩腰にかかって来たあきえの手を外すと、その髪の毛を掴んで引き摺り回した。
「こらっ、お前ら、其処で何やっている!」
店の主が慌てて此方へ跳んで来た。
 おみねは淫女という張札が自分に貼り付けられたような気がした。それからおみねは深酒をするようになった。正体も無く飲み続けて、身体を壊し、長く寝込んだこともあった。
おみねの心は居直った。
どうせ男と言うのはあんなもんだ・・・世の中だって大して変わりは無いだろう・・・男にどんどん金を貢がせて、面白おかしく生きてやれ・・・
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