時代小説の愉しみ

相良武有

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第四話 お庭番と酌女

②「あんた、まさか、八丁堀の旦那じゃないでしょうね?」

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 十日ほどの間、恒一郎は何かと繁多で「ゆめ半」へはご無沙汰だった。
その夜、一雨ごとに春になると言うような細かい雨が宵から降り出していたが、恒一郎は久方振りに傘を片手に店へ出かけて行った。
雨も降っており、時刻も未だ早し、で、客は少なかった。
恒一郎が入って行くと、わいわいはやし立てている若衆の中で、おみねが一升桝に口をつけて半分ほど飲んだところだった。
足音で振り向いて、入って来たのが恒一郎だと解ると、おみねはそのまま残りを一気に飲み干して、それほど振らつきもせずに恒一郎の傍へ寄って来た。
「相変わらず無茶な飲み方をする奴だな・・・病み上がりの時くらいおとなしく出来ねえのか?」
「旦那は・・・そんな小言が言いたくて・・・あたしに金を呉れたんですか?」
呂律の回らなくなった舌とトロンとした目でいきなり食って掛かって来た。
「金?」
「この間お見えになっとき、病気見舞いだって、此処の主に金を言伝たでしょう?」
「ああ、そのことか・・・」
恒一郎は苦笑した。
「普段、風邪ひとつ引かねえお前ぇが病気で休んだと聞いたから、大方、鬼の霍乱だろう、攪乱には金が一番効くんじゃねえか、そう思って、馴染み甲斐にお見舞い申し上げたって訳だ、気にするほどの事じゃねえよ」
「気にしますよ!」
 おみねは恒一郎を階下に一つだけ在る小座敷へ誘った。土間から一段高く、畳敷きになっていて、衝立で二つに区切ってあった。衝立の向こうに客は居なかった。
小女が運んできた酒を恒一郎は手酌で飲んだ。一升酒で酔いの回ったおみねに酌をさせるのは覚束無かった。
「変な人ね、酌女を前にして、手酌で飲むなんて・・・」
恒一郎を睨みつけるようにしておみねは言った。
「あんた・・・一体、此処へ何しに来ているのよ?」
「ご覧の通り、酒を飲んで居る・・・」
恒一郎が盃を上げると、いきなり、おみねがそれを引っ手繰った。
「嘘つき!・・・」
酔った眼がきらきら光っていた。
「あたし、まどろっこしいのは嫌いなんだ。ね、そうでしょう?二階へ行くんでしょう?あんた・・・」
恒一郎はおみねを見詰め、手を伸ばして盃を拾った。
「あんた・・・」
「そうじゃねえよ。俺は二階へなんぞ用は無えさ」
おみねの顔に朱が射した。
「じゃ、何故、あんなお金を?」
「ありゃ、病気見舞いだ、って言っただろうが・・・」
おみねは黙りこくり、土間では若い衆が陽気に藤八拳をうち出した。
「ねえ、あんた・・・何故、此処に来るの?」
ぽつんとおみねが醒めた声で訊いた。
「どう見たって、あんたはちゃんとしたお侍だわ。こんな所へ来る人じゃないし、あたしみたいな女を相手にする人じゃない。ねえ、何故来るの?」
おみねの声が急に脅えた。
「あんた、まさか、八丁堀の旦那じゃないでしょうね?」
恒一郎はおみねを見た。
「ねえ、あんた・・・」
「俺は奉行所の人間じゃ無ぇよ・・・」
その後の言葉を恒一郎は呑み込んだ。
おみねの顔にほっとしたものが浮いて出た。
「真実ね?」
「ああ・・・」
「よかった・・・」
肩を少し落としておみねは襟を弄った。
「あたし、あんたがこの店に入って来た時、てっきり八丁堀の旦那が身形を変えて何か探りに来たのかと思ったの。けど・・・店の主も違うって言ったし・・・こういういかがわしい商売をしていると、八丁堀の旦那や岡っ引きの親分にはしょっちゅう付け届けをしなきゃならないんだけど、その代わり、顔馴染みになっているから・・・此処の主が、店に出入りしている岡っ引きにあんたの顔を見て貰ったのよ、そしたら、八丁堀の旦那じゃないって・・・」
「なるほど、そんなことがあったのか・・・」
笑ってはいたが、恒一郎は内心で舌を巻いていた。
「あたし、あんたって男が解からない・・・」
顔を背けておみねが呟いた。酔っていない本性がその淋し気な横顔に浮かんでいた。
腕を組んだまま、恒一郎はおみねの髪に挿して在る大粒の錺簪を見詰めていた。
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