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第三話 錺簪師
⑫辰次の仕事は捗々しくなかった
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辰次の仕事は捗々しくなかった。
細々と途切れることは無かったが、相変わらず細かい小さな仕事ばかりで、是と言う仕事は何処からも貰えなかった。病と頑張って闘っているゆきの為にも、独り立ちでやって行ける目鼻を早くつけたかった。しっかり打ち込める仕事がしたかった。
辰次は考えていた。
今までと同じように亀次郎親方と同じ土俵で仕事をしていても駄目だ。普通の町娘が買ってくれる、持てば楽しくなるような、癒されて和むような新しい何かを創らなければ道は拓け無い。歌舞伎役者の髷や浄瑠璃の人形が着けるような高価で格式ばったものは必要無い。誰もが気軽に手にしてくれるようなもので良い。辰次は簪だけでなく根付けや帯留めなどの小物も工房の棚に並べてみよう、それに、誂え簪を作るだけでなく修理や修復も試ってみたらどうだろう、辰次は工房を、創る為だけの場所ではなく客と相対で簪を売る店にすることを想い着いた。
ネタは幾つも在った。
吉祥紋様のかたばみ簪、末広がりの銀杏簪、華やかな立花簪、浴衣や普段着に合うとんぼ簪、高島田の髪に着ける鼓簪、小振りで小粋な桜簪、髷の左右に挿す両天簪、鎖びら下がりの梅簪、茶釜石を使った瓢箪のひさご簪、蝶が飛んでいる揚羽蝶簪などなど次から次へと簪の新しい趣向が湧いて来たし、吉祥根付けの桐箱入り帯留め、扇面菊水や流水鯉、左馬、千鳥、犬張り子、蝙蝠などをあしらった帯留めや着ける人の名を切り抜いた江戸文字根付けなどの小物も考え出した。品物を並べる棚にガラスの戸を付けて見栄えを良くすることにも思い至った。
だが、金が無かった。
誂え簪は前金を貰ったり材料を掛買いにしたり出来たが、出来合いの簪を創るには先に自分で材料を揃えねばならなかったし、売れるまでは金の入って来る見込みは無かった。然も、仕事の金は思うように稼げず、医者の要り用も薬代もめっぽう高かった。あれよあれよと言う間に世帯の金もゆきの蓄えも底を着いた。親父や兄貴を初め借りられるところは皆、無心したし、もう金を借りられる宛は無かった。ましてや、新しい思い着きややってみたい試みに使える金など無かった。そんな金が有ればゆきの医者代と薬代に回さなければならなかった。
ゆきは腹の痛みだけでなく首や腰の痛みも強く訴えるようになっていた。医者は痛み止めを薬湯に入れてそれを抑えようとした。
ゆきはまた、哀しみに打ち沈んだ。死の恐怖に慄いて打ちひしがれもした。
然し、ゆきはやがて、痛みに苦しみながらも、何がどうであれ、世の中、人生、成るようにしか成らないわ、と開き直った。腹を括って度胸を据えたようだった。
少しでも身体の調子の良い日には、襖や食台に寄りかかりながらも何とか起き上がって家事をやり始めた。
残り少ない日数の中で、いつ死んでも自分の中で悔いを残さぬよう、毎日、自分が今出来ることを精一杯最大限に、あの人の為にやってあげよう・・・ゆきはそう決心した。辰次が幾ら引き止めてもゆきは聞かなかった。
「大丈夫よ。やれる時にはあたしの好きにさせて、ね、お願い」
辰次はそんなゆきの心模様を察してもう何も言えなかった。唯ただゆきの健気さが愛しかった。
ゆきは吐き気をもよおしては嘔吐し、貧血や出血もしょっちゅう起こしたし、髪の毛が脱ける症状も現れた。
やがて、ゆきは腸の管や尿の管が塞がれて糞尿が出なくなり、耐え難い痛みを訴えるようになった。そして、食べ物や水が喉を通らなくなって起き上がることも出来なくなったゆきは、間も無く死を迎えるであろうことを覚悟した。辰次はどうすることも出来ず、唯ただ己の無力に臍を噛むだけだった。
「かなり金高が張るのじゃが、南蛮渡来の痛み止めなら少しは楽になるかも知れぬが・・・」
医者が躊躇いがちにそう言った。
辰次に否応の選択は無かった。その金を何とか工面しなければ、と辰次は焦った。
細々と途切れることは無かったが、相変わらず細かい小さな仕事ばかりで、是と言う仕事は何処からも貰えなかった。病と頑張って闘っているゆきの為にも、独り立ちでやって行ける目鼻を早くつけたかった。しっかり打ち込める仕事がしたかった。
辰次は考えていた。
今までと同じように亀次郎親方と同じ土俵で仕事をしていても駄目だ。普通の町娘が買ってくれる、持てば楽しくなるような、癒されて和むような新しい何かを創らなければ道は拓け無い。歌舞伎役者の髷や浄瑠璃の人形が着けるような高価で格式ばったものは必要無い。誰もが気軽に手にしてくれるようなもので良い。辰次は簪だけでなく根付けや帯留めなどの小物も工房の棚に並べてみよう、それに、誂え簪を作るだけでなく修理や修復も試ってみたらどうだろう、辰次は工房を、創る為だけの場所ではなく客と相対で簪を売る店にすることを想い着いた。
ネタは幾つも在った。
吉祥紋様のかたばみ簪、末広がりの銀杏簪、華やかな立花簪、浴衣や普段着に合うとんぼ簪、高島田の髪に着ける鼓簪、小振りで小粋な桜簪、髷の左右に挿す両天簪、鎖びら下がりの梅簪、茶釜石を使った瓢箪のひさご簪、蝶が飛んでいる揚羽蝶簪などなど次から次へと簪の新しい趣向が湧いて来たし、吉祥根付けの桐箱入り帯留め、扇面菊水や流水鯉、左馬、千鳥、犬張り子、蝙蝠などをあしらった帯留めや着ける人の名を切り抜いた江戸文字根付けなどの小物も考え出した。品物を並べる棚にガラスの戸を付けて見栄えを良くすることにも思い至った。
だが、金が無かった。
誂え簪は前金を貰ったり材料を掛買いにしたり出来たが、出来合いの簪を創るには先に自分で材料を揃えねばならなかったし、売れるまでは金の入って来る見込みは無かった。然も、仕事の金は思うように稼げず、医者の要り用も薬代もめっぽう高かった。あれよあれよと言う間に世帯の金もゆきの蓄えも底を着いた。親父や兄貴を初め借りられるところは皆、無心したし、もう金を借りられる宛は無かった。ましてや、新しい思い着きややってみたい試みに使える金など無かった。そんな金が有ればゆきの医者代と薬代に回さなければならなかった。
ゆきは腹の痛みだけでなく首や腰の痛みも強く訴えるようになっていた。医者は痛み止めを薬湯に入れてそれを抑えようとした。
ゆきはまた、哀しみに打ち沈んだ。死の恐怖に慄いて打ちひしがれもした。
然し、ゆきはやがて、痛みに苦しみながらも、何がどうであれ、世の中、人生、成るようにしか成らないわ、と開き直った。腹を括って度胸を据えたようだった。
少しでも身体の調子の良い日には、襖や食台に寄りかかりながらも何とか起き上がって家事をやり始めた。
残り少ない日数の中で、いつ死んでも自分の中で悔いを残さぬよう、毎日、自分が今出来ることを精一杯最大限に、あの人の為にやってあげよう・・・ゆきはそう決心した。辰次が幾ら引き止めてもゆきは聞かなかった。
「大丈夫よ。やれる時にはあたしの好きにさせて、ね、お願い」
辰次はそんなゆきの心模様を察してもう何も言えなかった。唯ただゆきの健気さが愛しかった。
ゆきは吐き気をもよおしては嘔吐し、貧血や出血もしょっちゅう起こしたし、髪の毛が脱ける症状も現れた。
やがて、ゆきは腸の管や尿の管が塞がれて糞尿が出なくなり、耐え難い痛みを訴えるようになった。そして、食べ物や水が喉を通らなくなって起き上がることも出来なくなったゆきは、間も無く死を迎えるであろうことを覚悟した。辰次はどうすることも出来ず、唯ただ己の無力に臍を噛むだけだった。
「かなり金高が張るのじゃが、南蛮渡来の痛み止めなら少しは楽になるかも知れぬが・・・」
医者が躊躇いがちにそう言った。
辰次に否応の選択は無かった。その金を何とか工面しなければ、と辰次は焦った。
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