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第三話 錺簪師
⑩ゆきは、再び嘔吐した
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かかりつけの医者は、辰次の切迫した懇願に、夜中にも拘らず直ぐに駆けつけてくれた。
四十前後の元気そうな医者がゆきに尋ねた。
「どんな具合じゃったな?」
「血を吐きました」
ゆきはしっかりとした口調で返答した。
「いつ?どれくらい?」
「一度目は夕飯の時、今度は多量でした」
「もっと詳しく。金盥一杯くらい?それとももっと多く?」
「金盥二杯ちかくです」
「以前に何か異常はあったかね?」
ゆきは思い出していた。
起きて口を漱ぐだけで胃液が込み上げて来たし、店への途中の道で戻したこともあった。食欲が落ちて体重が減った気もしたし、便が出なかったり下痢をしたりもした。腹痛と一緒に腰や背中に痛みを感じたことも幾度かあった。身体が浮腫んで怠く、橋を上り下りする時に足がふら付いて欄干に掴まったことも何度かあった。二月ほど前のことである。
聴いていた医者が、なるほど、と言って頷いた。
でも、その程度のことは誰にだって有るわ、とゆきは思った。
医者が聴診器をゆきの腹に宛がいゆっくりと三カ所、五カ所と動かした。それから今度は二本の指で鳩尾の上辺りを強く押した。途端にゆきが仰け反った。そして、ゆきは咳き込み、むせ、身を捩り、悶え、腹の底に残っていた黒い血の塊を断続的に吐き出した。ゆきは眼に涙を浮べて身を震わせた。直ぐに辰次が背中を擦り、肩を抱いた。
やがて、ゆきは眠りに落ちたようだった。残っていた最後の汚物を吐き出して楽になったのもかも知れなかった。
ひと時でもまどろむことが出来れば、溜まりに溜まった疲れを溶かし、心も休まるだろう、辰次は痛々しい思いでじっとゆきを見守った。
思えば、ゆきは絶えず何かに追い捲られて、心と身体の為にじっくりと休んだことなど一度も無かっただろう、出来るだけ安息すれば良い、辰次は胸を湿らせた。
「鳩尾の上辺りに少ししこりが有るようじゃから、暫く様子を見よう。食べ物も水も当分は駄目だから、絶対に与えてはならんぞ。明日また診に来るから」
そう言って、首を傾げたような浮かぬ表情を見せながら、医者は帰って行った。
辰次は内心激しく後悔していた。
あれだけ大量に血を吐くまで俺はずうっとゆきの異変に気付かなかった。所帯を持ってからずうっと俺はゆきに寄り添ったことがあっただろうか?
自分のことだけにかまけて、ちゃんと向き合うどころか放ったらかしにして来た。所帯を持って様変わりした生活への対応、好き合って一緒になったとは言え、生まれも育ちも違う他人同士が昼も夜も同じ屋根の下で暮らす気詰まりや気遣わしさ、あいつの仕事の上の気苦労、そんなことに何一つ思いを至らせなかった。辰次は自分を責めた。
次の日、ゆきがふと漏らした一言を医者が咎めた。
「水が一口飲みたいのよ、あんた」
「何を言っておる!腹が破裂するかどうかという状態なのだぞ。水を飲むどころじゃない!」
「・・・・・」
医者が帰った後、辰次はゆきを労った。
「気分はどうでぇ?少しは落ち着いたか?」
「うん、悪くはないわ。良くはないけど、悪くもないわ」
ゆきが覚悟を決め、腹を据えたように辰次には思われた。
三日間の飲まず食わずの後、医者が薬湯を処方してゆきにゆっくり呑ませた。噎せることも咳き込むことも無く腹に入って行くようだった。そして、ゆきは翌日から重湯を食することを許された。
だが、ゆきの快癒は思ったほど捗々しくは進まなかった。下痢をしたり発熱したり血の気が失せたりして、辰次が付きっ切りで看病し、医者にも来て貰わなければならなかった。
そして、ゆきは、再び嘔吐した。
「駄目だ、やり直しだ。食事を摂るのが早かったようだ」
ゆきは衝撃を受けた。差し込みかけた光が消えて、一度に闇の底へ突き落とされたようだった。また最初の飲まず食わずの療養に逆戻りした。一からやり直しだった。
辰次もゆきものっぴきならない大病を疑った。医者にも解らないのではないか?或は、余りの大病に医者が告げないだけではないのか?真実はもう治る見込みが無いのではないか?二人は不安と疑心の中で苦しんだ。
辰次の頭の中をゆきの不在が掠めた。ゆきの居ない生涯など考えられなかった。それがどういうものなのか想像もつかなかった。ゆきと知り合ってからというもの、特に所帯を持ってからは、二人の行く手には希みの光が溢れていた。辰次は独り立ちして自分の工房を持ち、やがて弟子を雇って親方となる。ゆきはいずれ近いうちに子の母となり、家を切り盛りして、錺簪師の辰次を内助する。そんな夢と希みが確かにあったのだ。辰次は、ゆきに万一のことが有ればそれこそ酷く残酷なことだ、と思った。胸が塞がれた。
ゆきはひと時、哀しみ打ち沈んだ。
あの人ともう一緒には暮らせないのではないか、別れ別れになるんじゃないか、あの人の為にもう何もしてあげられなくなるんじゃないか、一緒になって間も無いというのに・・・
然し、ゆきはやがて、何がどうであれ、ひたすら養生に専念するしか無い、と開き直った。自分のこと以上に私のことを心配してくれているあの人への、それがせめてもの償いだわ、と思った。少し落ち着きを取り戻したようだった。
四十前後の元気そうな医者がゆきに尋ねた。
「どんな具合じゃったな?」
「血を吐きました」
ゆきはしっかりとした口調で返答した。
「いつ?どれくらい?」
「一度目は夕飯の時、今度は多量でした」
「もっと詳しく。金盥一杯くらい?それとももっと多く?」
「金盥二杯ちかくです」
「以前に何か異常はあったかね?」
ゆきは思い出していた。
起きて口を漱ぐだけで胃液が込み上げて来たし、店への途中の道で戻したこともあった。食欲が落ちて体重が減った気もしたし、便が出なかったり下痢をしたりもした。腹痛と一緒に腰や背中に痛みを感じたことも幾度かあった。身体が浮腫んで怠く、橋を上り下りする時に足がふら付いて欄干に掴まったことも何度かあった。二月ほど前のことである。
聴いていた医者が、なるほど、と言って頷いた。
でも、その程度のことは誰にだって有るわ、とゆきは思った。
医者が聴診器をゆきの腹に宛がいゆっくりと三カ所、五カ所と動かした。それから今度は二本の指で鳩尾の上辺りを強く押した。途端にゆきが仰け反った。そして、ゆきは咳き込み、むせ、身を捩り、悶え、腹の底に残っていた黒い血の塊を断続的に吐き出した。ゆきは眼に涙を浮べて身を震わせた。直ぐに辰次が背中を擦り、肩を抱いた。
やがて、ゆきは眠りに落ちたようだった。残っていた最後の汚物を吐き出して楽になったのもかも知れなかった。
ひと時でもまどろむことが出来れば、溜まりに溜まった疲れを溶かし、心も休まるだろう、辰次は痛々しい思いでじっとゆきを見守った。
思えば、ゆきは絶えず何かに追い捲られて、心と身体の為にじっくりと休んだことなど一度も無かっただろう、出来るだけ安息すれば良い、辰次は胸を湿らせた。
「鳩尾の上辺りに少ししこりが有るようじゃから、暫く様子を見よう。食べ物も水も当分は駄目だから、絶対に与えてはならんぞ。明日また診に来るから」
そう言って、首を傾げたような浮かぬ表情を見せながら、医者は帰って行った。
辰次は内心激しく後悔していた。
あれだけ大量に血を吐くまで俺はずうっとゆきの異変に気付かなかった。所帯を持ってからずうっと俺はゆきに寄り添ったことがあっただろうか?
自分のことだけにかまけて、ちゃんと向き合うどころか放ったらかしにして来た。所帯を持って様変わりした生活への対応、好き合って一緒になったとは言え、生まれも育ちも違う他人同士が昼も夜も同じ屋根の下で暮らす気詰まりや気遣わしさ、あいつの仕事の上の気苦労、そんなことに何一つ思いを至らせなかった。辰次は自分を責めた。
次の日、ゆきがふと漏らした一言を医者が咎めた。
「水が一口飲みたいのよ、あんた」
「何を言っておる!腹が破裂するかどうかという状態なのだぞ。水を飲むどころじゃない!」
「・・・・・」
医者が帰った後、辰次はゆきを労った。
「気分はどうでぇ?少しは落ち着いたか?」
「うん、悪くはないわ。良くはないけど、悪くもないわ」
ゆきが覚悟を決め、腹を据えたように辰次には思われた。
三日間の飲まず食わずの後、医者が薬湯を処方してゆきにゆっくり呑ませた。噎せることも咳き込むことも無く腹に入って行くようだった。そして、ゆきは翌日から重湯を食することを許された。
だが、ゆきの快癒は思ったほど捗々しくは進まなかった。下痢をしたり発熱したり血の気が失せたりして、辰次が付きっ切りで看病し、医者にも来て貰わなければならなかった。
そして、ゆきは、再び嘔吐した。
「駄目だ、やり直しだ。食事を摂るのが早かったようだ」
ゆきは衝撃を受けた。差し込みかけた光が消えて、一度に闇の底へ突き落とされたようだった。また最初の飲まず食わずの療養に逆戻りした。一からやり直しだった。
辰次もゆきものっぴきならない大病を疑った。医者にも解らないのではないか?或は、余りの大病に医者が告げないだけではないのか?真実はもう治る見込みが無いのではないか?二人は不安と疑心の中で苦しんだ。
辰次の頭の中をゆきの不在が掠めた。ゆきの居ない生涯など考えられなかった。それがどういうものなのか想像もつかなかった。ゆきと知り合ってからというもの、特に所帯を持ってからは、二人の行く手には希みの光が溢れていた。辰次は独り立ちして自分の工房を持ち、やがて弟子を雇って親方となる。ゆきはいずれ近いうちに子の母となり、家を切り盛りして、錺簪師の辰次を内助する。そんな夢と希みが確かにあったのだ。辰次は、ゆきに万一のことが有ればそれこそ酷く残酷なことだ、と思った。胸が塞がれた。
ゆきはひと時、哀しみ打ち沈んだ。
あの人ともう一緒には暮らせないのではないか、別れ別れになるんじゃないか、あの人の為にもう何もしてあげられなくなるんじゃないか、一緒になって間も無いというのに・・・
然し、ゆきはやがて、何がどうであれ、ひたすら養生に専念するしか無い、と開き直った。自分のこと以上に私のことを心配してくれているあの人への、それがせめてもの償いだわ、と思った。少し落ち着きを取り戻したようだった。
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