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第三話 錺簪師
①当初、内弟子の辰次は仕事を教えて貰えなかった
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辰次は十五歳の春に、錺簪職「亀甲堂」の亀次郎親方に弟子入りして年季奉公を始めた。
「亀甲堂」は主に歌舞伎の髷や浄瑠璃の人形に使われる伝統芸能用の錺簪を注文に応じて誂えていたし、亀次郎親方の腕に対する世間の信用は厚く、店は繁盛して工房は忙しく賑わっていた。職人の数も、既に年季の開けた職人や間も無く年季明けを迎える通い職人など年季奉公中の者を加え合わせると、十人もの職人が居た。
錺簪は金、銀、銅、真鍮などの金具で作られる簪で、四季折々の鳥や花をあしらった粋なものや縁起を担ぐ意匠など、その小さな飾りの中に物語が潜んでいるようであった。初めは身を守ってくれるお守りの役目があったということだが、自然の草花には強い生命力が有り、それを身につけていると魔を払って貰えると世の人々は考えていた。そんな草花を色んな材料を使って形にし、髪に差すようになったのが簪の始まりであり、様々に形を変えて髪を結いあげるようになった近頃では、簪は飾り品として益々その華やかさを増していた。又、簪の先の部分は耳かきと呼ばれたが、これは耳を掻く使い途のほかに頭を掻いたり髪を整えたりする為のものでもあった。お上から贅沢禁止令が出されたりすると、錺職人たちは、これは道具であり装り物ではない、と言い逃れをしたりもした。
辰次は小さい頃、父親や兄貴と一緒に山や川に出かけ、山では小さな虫を摂り川では鮒やザリガニ等を捕って遊んだので、山川の生き物には早くから興味を持ち、好きにもなって居た。そして、何時の頃からか、生き物の絵を描いたり、紙や木のがらくたでそれらを創ったりすることが上手くなってもいた。父親と兄貴は建具職人だったが、辰次がそれに倣わず、花や鳥などをあしらう錺簪の職人になりたいと思うようになったのも、謂わば自然の成り行きだったと言える。腕に職をつけて将来独り立ちするなら、どうせなら、好きなものを観て考えてそれを形にする仕事がしたい、と辰次は思ったのだった。
だが、当初、内弟子の辰次は仕事を教えて貰えなかったし、させても貰えなかった。
先ず教えられたのは、職人の心構えだった。仕事に入る前の事柄を執拗に教え込まれた。
最初に亀次郎親方にきつく諭されたのは、挨拶をきちんとすること、刻限を絶対に守ること、片付けや掃除を毎日欠かさぬこと、の三つだった。
親方が言った。
「挨拶と言ってもな、堅苦しく考える必要は無ぇぞ。人は誰でも好かん嫌な奴には進んで挨拶をしねぇだろう。挨拶をするってことは相手を受入れる気持の表われなんだな。挨拶は人と人との交わりの基ということだ」
「はい」
「お互いが挨拶も碌に交わさないような仕事場では良い仕事が出来る訳が無ぇ」
「はい」
おはようございます、有難うございます、失礼します、済みません、これを徹底してやれ、と教わった。
「仕事というものは刻限との戦いだ。時を自分でやり繰り出来無ぇ人間は仕事も出来無ぇんだ。この慌しい世の中で、幾らモノづくりの世界だと言っても、どんなに手間隙を掛けても良いという仕事など、現実には無ぇ。刻限を必ず守ることと早く仕上げることは仕事を進める上で絶対に必要なことなんだ」
「はい」
「時を制御できる者が仕事に勝つんだ。一日、朝から晩まで、時は皆平等だ。活かすも殺すもお前ぇ次第だぞ、辰次」
「はい」
片付けや掃除も負けず劣らず大事だ、と親方は言った。
「片付けや掃除が毎日の習慣として身に付くまで“し続ける”ことが大事なんだ。それが躾と言うものだ。その目当てはムダを見つけ出すこととそれを取り除くことにあるんだ、忘れるなよ」
「はい」
それから辰次がやらされたのは、家の掃除、食べ物の買出しなどの使い走りで、偶に、仕事の指示を貰うと、それは道具の研磨や材料の取り揃えなど準備や段取りばかりであった。
人形浄瑠璃や歌舞伎役者の使用する錺簪を創ることを主な生業としている「亀甲堂」では品格の高い高貴な簪を作ることが求められ、見習いの辰次に宛がわれた仕事は、来る日も来る日も下働きの下仕事ばかりであった。
それに、職人の世界では親方や兄弟子から仕事を教えられることは無く、脇から彼らの仕事を覗き見て覚えるものだった。将に盗み憶えると言うものだった。
それでも辰次は、親方や兄弟子からの言い付け仕事を終えると、見様見真似で何とか腕を身に着けようと頑張った。
始めは葉っぱひとつ切るにも思うように手が動かなかったし、やってみると思いの外に難しくて何度も指を切ったりした。それに道具を使い熟す難しさも思い知った。何度も何度も失敗を繰り返しながら、辰次は腕を身に着ける修業に励んだ。が、腕を磨いて自分一人の考えで独自のものを創り出すことなど、未だ未だ先の、またその先の話だった。
辰次はそんな暮らしを三年余り続けた。辰次は次第に辛抱の緒を切らし堪忍の袋を破って酒に逃げ、時として酒場の女と戯れもした。辛うじて辰次を支えたのは、これ如きのことで泣いてたまるけぇ、負けてたまるけぇ、始めたからには一人前の錺簪職人になるんだい、という意地と矜持だった。
暑い夏の日の昼下がりに親方の亀次郎が辰次を自分の作業台の前に呼んだ。
「おい辰次、お前ぇ、簪を一つ創ってみねぇか?」
「えっ、本当ですか、親方?わたしが独りで創るんですか?」
「ああ、一寸知り合いに頼まれてな。そんなに難しいものでなくて良いんだ。お前ぇの腕試しにもなるだろうから、是非、頼むぞ」
脚の骨を折って寝た切りになっていたさる商家の老婦人が独りで歩けるようになりたいと一生懸命に励んでいる姿に心を動かされた知り合いが依頼して来た、ということだった。
「それほど高価で立派なものじゃなく、その婦人が早く元気に独りで歩けるようにとの願いと祈りを籠めて創り上げられたものが欲しいそうだ。図案から意匠や材料など皆、お前ぇが考えて是非、創ってやってくんねぇ」
「解りました、親方。頑張ります」
その老婦人は五十三歳で、切れ長の眼に面長の美形だ、ということだった。
「亀甲堂」は主に歌舞伎の髷や浄瑠璃の人形に使われる伝統芸能用の錺簪を注文に応じて誂えていたし、亀次郎親方の腕に対する世間の信用は厚く、店は繁盛して工房は忙しく賑わっていた。職人の数も、既に年季の開けた職人や間も無く年季明けを迎える通い職人など年季奉公中の者を加え合わせると、十人もの職人が居た。
錺簪は金、銀、銅、真鍮などの金具で作られる簪で、四季折々の鳥や花をあしらった粋なものや縁起を担ぐ意匠など、その小さな飾りの中に物語が潜んでいるようであった。初めは身を守ってくれるお守りの役目があったということだが、自然の草花には強い生命力が有り、それを身につけていると魔を払って貰えると世の人々は考えていた。そんな草花を色んな材料を使って形にし、髪に差すようになったのが簪の始まりであり、様々に形を変えて髪を結いあげるようになった近頃では、簪は飾り品として益々その華やかさを増していた。又、簪の先の部分は耳かきと呼ばれたが、これは耳を掻く使い途のほかに頭を掻いたり髪を整えたりする為のものでもあった。お上から贅沢禁止令が出されたりすると、錺職人たちは、これは道具であり装り物ではない、と言い逃れをしたりもした。
辰次は小さい頃、父親や兄貴と一緒に山や川に出かけ、山では小さな虫を摂り川では鮒やザリガニ等を捕って遊んだので、山川の生き物には早くから興味を持ち、好きにもなって居た。そして、何時の頃からか、生き物の絵を描いたり、紙や木のがらくたでそれらを創ったりすることが上手くなってもいた。父親と兄貴は建具職人だったが、辰次がそれに倣わず、花や鳥などをあしらう錺簪の職人になりたいと思うようになったのも、謂わば自然の成り行きだったと言える。腕に職をつけて将来独り立ちするなら、どうせなら、好きなものを観て考えてそれを形にする仕事がしたい、と辰次は思ったのだった。
だが、当初、内弟子の辰次は仕事を教えて貰えなかったし、させても貰えなかった。
先ず教えられたのは、職人の心構えだった。仕事に入る前の事柄を執拗に教え込まれた。
最初に亀次郎親方にきつく諭されたのは、挨拶をきちんとすること、刻限を絶対に守ること、片付けや掃除を毎日欠かさぬこと、の三つだった。
親方が言った。
「挨拶と言ってもな、堅苦しく考える必要は無ぇぞ。人は誰でも好かん嫌な奴には進んで挨拶をしねぇだろう。挨拶をするってことは相手を受入れる気持の表われなんだな。挨拶は人と人との交わりの基ということだ」
「はい」
「お互いが挨拶も碌に交わさないような仕事場では良い仕事が出来る訳が無ぇ」
「はい」
おはようございます、有難うございます、失礼します、済みません、これを徹底してやれ、と教わった。
「仕事というものは刻限との戦いだ。時を自分でやり繰り出来無ぇ人間は仕事も出来無ぇんだ。この慌しい世の中で、幾らモノづくりの世界だと言っても、どんなに手間隙を掛けても良いという仕事など、現実には無ぇ。刻限を必ず守ることと早く仕上げることは仕事を進める上で絶対に必要なことなんだ」
「はい」
「時を制御できる者が仕事に勝つんだ。一日、朝から晩まで、時は皆平等だ。活かすも殺すもお前ぇ次第だぞ、辰次」
「はい」
片付けや掃除も負けず劣らず大事だ、と親方は言った。
「片付けや掃除が毎日の習慣として身に付くまで“し続ける”ことが大事なんだ。それが躾と言うものだ。その目当てはムダを見つけ出すこととそれを取り除くことにあるんだ、忘れるなよ」
「はい」
それから辰次がやらされたのは、家の掃除、食べ物の買出しなどの使い走りで、偶に、仕事の指示を貰うと、それは道具の研磨や材料の取り揃えなど準備や段取りばかりであった。
人形浄瑠璃や歌舞伎役者の使用する錺簪を創ることを主な生業としている「亀甲堂」では品格の高い高貴な簪を作ることが求められ、見習いの辰次に宛がわれた仕事は、来る日も来る日も下働きの下仕事ばかりであった。
それに、職人の世界では親方や兄弟子から仕事を教えられることは無く、脇から彼らの仕事を覗き見て覚えるものだった。将に盗み憶えると言うものだった。
それでも辰次は、親方や兄弟子からの言い付け仕事を終えると、見様見真似で何とか腕を身に着けようと頑張った。
始めは葉っぱひとつ切るにも思うように手が動かなかったし、やってみると思いの外に難しくて何度も指を切ったりした。それに道具を使い熟す難しさも思い知った。何度も何度も失敗を繰り返しながら、辰次は腕を身に着ける修業に励んだ。が、腕を磨いて自分一人の考えで独自のものを創り出すことなど、未だ未だ先の、またその先の話だった。
辰次はそんな暮らしを三年余り続けた。辰次は次第に辛抱の緒を切らし堪忍の袋を破って酒に逃げ、時として酒場の女と戯れもした。辛うじて辰次を支えたのは、これ如きのことで泣いてたまるけぇ、負けてたまるけぇ、始めたからには一人前の錺簪職人になるんだい、という意地と矜持だった。
暑い夏の日の昼下がりに親方の亀次郎が辰次を自分の作業台の前に呼んだ。
「おい辰次、お前ぇ、簪を一つ創ってみねぇか?」
「えっ、本当ですか、親方?わたしが独りで創るんですか?」
「ああ、一寸知り合いに頼まれてな。そんなに難しいものでなくて良いんだ。お前ぇの腕試しにもなるだろうから、是非、頼むぞ」
脚の骨を折って寝た切りになっていたさる商家の老婦人が独りで歩けるようになりたいと一生懸命に励んでいる姿に心を動かされた知り合いが依頼して来た、ということだった。
「それほど高価で立派なものじゃなく、その婦人が早く元気に独りで歩けるようにとの願いと祈りを籠めて創り上げられたものが欲しいそうだ。図案から意匠や材料など皆、お前ぇが考えて是非、創ってやってくんねぇ」
「解りました、親方。頑張ります」
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