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立志
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居摂三(西暦8)年のそのとき、劉縯は現場にいた。
「こんなことが許されてよいのか、孝孫」
大々的に布告されたその大事変に、若者は共に遊学(留学)に来ている同年代の親族、劉嘉(孝孫はあざな)へ絞り出すような声で言った。
問いの形を取っているが尋ねたわけではない。彼自身、すでに答えが出ていることだった。それゆえ尋ねられた劉嘉の方も返事はしない。彼自身、怒りと、そして戸惑いとに心身を乱打されて言葉が出なかったのだ。
ここは長安。漢帝国の帝都である。昨日までは。
今朝の布告は皇族の外戚で朝廷の重臣でもある王莽が、皇太子・劉嬰から禅譲を受けて皇帝となり、「新」という王朝を開いたという驚天動地の内容だったのだ。
だがこれが簒奪であることは誰の目にも明らかだった。
どちらにせよ中華史上最初の長期統一王朝である漢(前漢)は、この日滅亡した。
劉縯も劉嘉も劉氏を持つ歴とした皇族である。だが初代皇帝・劉邦の建国から二百年が過ぎた今、庶民と同様の生活を送る劉氏も数多く、彼らもその一員だったのだ。
彼らは貧しくとも皇族としての誇りは失っておらず、長安への遊学も将来の栄達のための一環だったのだが、すでに劉縯からその気は失せていた。
「新の禄など食んでたまるか」
劉縯が仕官したいと考えていたのは漢であり、王莽の新に仕えるなど真っ平だった。劉縯は早々に遊学を終えると、故郷の南陽へ帰ってしまった。
劉縯は仕官を放棄したが世捨て人になるつもりはなかった。隠者となりおとなしく暮らしていくには劉縯の気性はまだ若く、また新に対する憤懣は耐えがたいものがあったのだ。
「そうだ、新を亡ぼし、新たな王朝を建てよう」
劉氏の誇りか士人としての義心か、劉縯は新への反抗を志した。
だがすぐにそれが為せると考えるほど劉縯も単純ではない。王莽の簒奪は相応の力量や実績があったればこそ実現したのだ。彼から帝位を奪取するには大きな勢力と、なにより時流が必要だった。その時流も必ず好転するとは限らない。早くとも数年から十数年、それどころか王莽が適切な統治をおこない後継者にも恵まれれば、それこそ劉縯が生きてる間はついに好機はやってこないかもしれないのだ。
それでも志に殉じると決めた以上、いつやってくるとも知れない時流と好機を逃がさないため、劉縯は自らの勢力を築く必要があった。
そのため劉縯は侠となった。
侠とは単純な反社会的存在ではなく、損得を抜きに命を賭して人を助けるという、古代中国における一つの精神性と言ってよい。それが反社会的行為になりがちなのは、法の庇護から漏れた存在にこそ侠が必要だからである。乱世ほど法は過酷になり、まっとうな人間が普通に暮らすことすら困難となり亡命(逃散)は加速する。そんな彼らに助力するのが侠なのだ。
そして民にとって不幸なことに――劉縯にとっては幸いなことに――王莽の施政は乱脈そのものだった。
王莽は為政者として儒者として、理想を高く掲げすぎた。彼にとっての理想とは、儒者の理想である周王朝の治世であった。だが周はこの時代からすら八百年も前の国であり、現代で適用できるはずもない。また王莽は極端な中華至上主義を取って周辺の異民族を不必要に蔑んだため、外交でも失敗を重ねた。
失政は国にも民にも軋みを生み、不幸となる者を増産してゆく。
劉縯はもともと豪放な性格で、侠としての資質は持っていた。長男に生まれたこともあり家族から責任を負わされつつも大切にされる生活を送ってきたことが、その性格を構築する一因だったろう。
だが同時にやや楽天的で驕慢なところもあった。これは上に姉が二人いたことが原因だったかもしれない。彼女たちは弟に厳しく接しはしたが、根本の部分はやはり甘くなる。
大侠には豪放も楽天も必要な資質だが、真逆の繊細と慎重も必須の性質である。が、劉縯には後者が少し足りなかった。
これを補ったのが弟の劉仲である。彼は劉家の次男で、史書に正確な名前は残っていない。古代中国において兄弟の順は伯・仲・叔・季で表わされ、これらは字(諱(本名)と別につけられた名)に使うことが多く(劉縯のあざなは伯升)、彼の「仲」もあざなの一部の可能性はあるが、とにかく次男であることだけはほぼ確かである。
劉仲は次男らしく劉縯の影に隠れがちで、性格も控えめだったが、同時に利発でもあった。子供のころから劉縯の後について遊び、一度不満を抱くと不貞腐れてなかなか機嫌の直らない兄をよくなだめた。これは生まれたときからのつきあいで、兄の気質をよく理解しその扱いに慣れていたというのもあるだろうが、おそらく劉仲本人の資質的な要素も強く、劉縯は弟の言うことなら素直に聞くことができたのだ。
長安から帰ってきた劉縯の変貌に周囲の者は驚いた。それはそうであろう。もともと開けっ広げな性格を持っていたが、実直で真っ当な男だったのだ。そうでなければ長安へ遊学へなど行かない。それが帰郷してしばらくすると無頼の者とつきあうようになり、徐々に賓客(子分)も増やすようになってきたのだから驚かない方がおかしい。
劉縯は彼らを養うため家産を費やし、富裕とは言えない劉家の生活も苦しくなってくる。そんな劉縯に眉をひそめる者が出てくるのも当然だが、中には同情的な者もいた。
「漢が王莽に滅ぼされたことがそれほど口惜しかったか」
漢が新に取って代わられたことは劉縯の故郷である南陽にも伝わっている。彼らにとっては極端なところ税の取り立て先の名称が変わっただけ――近い将来それだけでは済まなくなる――だが、漢に仕え、士として人生をまっとうしようと志していた者には耐えがたい。正義が立たぬ怒りと将来を断たれた絶望に劉縯が「ぐれる」のも無理はない。そのように考えたのだ。
だがその推測は半ば当たり、半ばはずれてた。
劉仲も最初は劉縯の変わりように驚いたが、すぐにいぶかしさもおぼえた。兄の目が以前と変わらないどころか、より強く真っ当な光を宿していることに気づいたのだ。
「兄上、何を考えている」
一日、兄と二人きりになったとき、劉仲は小声で尋ねた。それを聞いた劉縯はわずかにためらいを見せたが、意を決して弟に真意を告げた。
「新を亡ぼす」
それを聞いた劉仲は表情を硬くした。たとえ簒奪王朝であろうとも、今現在彼らを支配する国家は新である。ゆえにこれは官憲に知られれば問答無用で処刑されかねない大逆罪にあたる思想なのだ。
だが同時に今の劉縯の実力では笑い話にしかならない夢物語で、それゆえ劉仲も表情を蒼白ではなく硬化程度で抑えたのだが、冗談でも口にすれば罰せられる罪であることに変わりはない。
「案ずるな、他の誰にも明かしてはいない。おぬしが初めてだ」
劉仲の様子から弟の心情を察した劉縯は表情をわずかにゆるめ、小声で彼の懸念の一つを払ってやった。が、劉仲の憂慮は消えない。
「しかし本気か、兄上」
「むろん本気だ。それゆえおぬしに明かした。おぬしの力がなければ為せぬことだからな」
劉縯のその言に劉仲は虚を突かれ、そして感動した。
劉縯はこの途方もない野望の達成に弟の力を必要としていたのだ。いずれ機を見て話そうと決心もしていただろう。それゆえ今日突然弟に真意を尋ねられてもすぐに応じることができたのだ。わずかにためらいを見せたのは突然でさすがに驚いたことと、いかに自分の志と国家のためとはいえ弟を叛逆に巻き込むことを恐れていたからである。
それでもなお自分を信じ欲してくれた兄に、劉仲は感動したのである。
「わかった、兄上。私も協力しよう。だが今日明日で成せる望みではないぞ。それどころか中途で挫折する可能性の方がはるかに高い。達成するにしてもこれから何年、下手をすれば何十年かかるかもしれないほどの大望だ。それでもやるか」
「言うまでもない。私にその程度の覚悟ができていないとでも思うたか、仲」
弟の決心と確認に劉縯は彼らしく大らかに笑ってみせ、兄のその笑いに劉仲も彼らしい控えめな笑みを見せた。
「こんなことが許されてよいのか、孝孫」
大々的に布告されたその大事変に、若者は共に遊学(留学)に来ている同年代の親族、劉嘉(孝孫はあざな)へ絞り出すような声で言った。
問いの形を取っているが尋ねたわけではない。彼自身、すでに答えが出ていることだった。それゆえ尋ねられた劉嘉の方も返事はしない。彼自身、怒りと、そして戸惑いとに心身を乱打されて言葉が出なかったのだ。
ここは長安。漢帝国の帝都である。昨日までは。
今朝の布告は皇族の外戚で朝廷の重臣でもある王莽が、皇太子・劉嬰から禅譲を受けて皇帝となり、「新」という王朝を開いたという驚天動地の内容だったのだ。
だがこれが簒奪であることは誰の目にも明らかだった。
どちらにせよ中華史上最初の長期統一王朝である漢(前漢)は、この日滅亡した。
劉縯も劉嘉も劉氏を持つ歴とした皇族である。だが初代皇帝・劉邦の建国から二百年が過ぎた今、庶民と同様の生活を送る劉氏も数多く、彼らもその一員だったのだ。
彼らは貧しくとも皇族としての誇りは失っておらず、長安への遊学も将来の栄達のための一環だったのだが、すでに劉縯からその気は失せていた。
「新の禄など食んでたまるか」
劉縯が仕官したいと考えていたのは漢であり、王莽の新に仕えるなど真っ平だった。劉縯は早々に遊学を終えると、故郷の南陽へ帰ってしまった。
劉縯は仕官を放棄したが世捨て人になるつもりはなかった。隠者となりおとなしく暮らしていくには劉縯の気性はまだ若く、また新に対する憤懣は耐えがたいものがあったのだ。
「そうだ、新を亡ぼし、新たな王朝を建てよう」
劉氏の誇りか士人としての義心か、劉縯は新への反抗を志した。
だがすぐにそれが為せると考えるほど劉縯も単純ではない。王莽の簒奪は相応の力量や実績があったればこそ実現したのだ。彼から帝位を奪取するには大きな勢力と、なにより時流が必要だった。その時流も必ず好転するとは限らない。早くとも数年から十数年、それどころか王莽が適切な統治をおこない後継者にも恵まれれば、それこそ劉縯が生きてる間はついに好機はやってこないかもしれないのだ。
それでも志に殉じると決めた以上、いつやってくるとも知れない時流と好機を逃がさないため、劉縯は自らの勢力を築く必要があった。
そのため劉縯は侠となった。
侠とは単純な反社会的存在ではなく、損得を抜きに命を賭して人を助けるという、古代中国における一つの精神性と言ってよい。それが反社会的行為になりがちなのは、法の庇護から漏れた存在にこそ侠が必要だからである。乱世ほど法は過酷になり、まっとうな人間が普通に暮らすことすら困難となり亡命(逃散)は加速する。そんな彼らに助力するのが侠なのだ。
そして民にとって不幸なことに――劉縯にとっては幸いなことに――王莽の施政は乱脈そのものだった。
王莽は為政者として儒者として、理想を高く掲げすぎた。彼にとっての理想とは、儒者の理想である周王朝の治世であった。だが周はこの時代からすら八百年も前の国であり、現代で適用できるはずもない。また王莽は極端な中華至上主義を取って周辺の異民族を不必要に蔑んだため、外交でも失敗を重ねた。
失政は国にも民にも軋みを生み、不幸となる者を増産してゆく。
劉縯はもともと豪放な性格で、侠としての資質は持っていた。長男に生まれたこともあり家族から責任を負わされつつも大切にされる生活を送ってきたことが、その性格を構築する一因だったろう。
だが同時にやや楽天的で驕慢なところもあった。これは上に姉が二人いたことが原因だったかもしれない。彼女たちは弟に厳しく接しはしたが、根本の部分はやはり甘くなる。
大侠には豪放も楽天も必要な資質だが、真逆の繊細と慎重も必須の性質である。が、劉縯には後者が少し足りなかった。
これを補ったのが弟の劉仲である。彼は劉家の次男で、史書に正確な名前は残っていない。古代中国において兄弟の順は伯・仲・叔・季で表わされ、これらは字(諱(本名)と別につけられた名)に使うことが多く(劉縯のあざなは伯升)、彼の「仲」もあざなの一部の可能性はあるが、とにかく次男であることだけはほぼ確かである。
劉仲は次男らしく劉縯の影に隠れがちで、性格も控えめだったが、同時に利発でもあった。子供のころから劉縯の後について遊び、一度不満を抱くと不貞腐れてなかなか機嫌の直らない兄をよくなだめた。これは生まれたときからのつきあいで、兄の気質をよく理解しその扱いに慣れていたというのもあるだろうが、おそらく劉仲本人の資質的な要素も強く、劉縯は弟の言うことなら素直に聞くことができたのだ。
長安から帰ってきた劉縯の変貌に周囲の者は驚いた。それはそうであろう。もともと開けっ広げな性格を持っていたが、実直で真っ当な男だったのだ。そうでなければ長安へ遊学へなど行かない。それが帰郷してしばらくすると無頼の者とつきあうようになり、徐々に賓客(子分)も増やすようになってきたのだから驚かない方がおかしい。
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「漢が王莽に滅ぼされたことがそれほど口惜しかったか」
漢が新に取って代わられたことは劉縯の故郷である南陽にも伝わっている。彼らにとっては極端なところ税の取り立て先の名称が変わっただけ――近い将来それだけでは済まなくなる――だが、漢に仕え、士として人生をまっとうしようと志していた者には耐えがたい。正義が立たぬ怒りと将来を断たれた絶望に劉縯が「ぐれる」のも無理はない。そのように考えたのだ。
だがその推測は半ば当たり、半ばはずれてた。
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「兄上、何を考えている」
一日、兄と二人きりになったとき、劉仲は小声で尋ねた。それを聞いた劉縯はわずかにためらいを見せたが、意を決して弟に真意を告げた。
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だが同時に今の劉縯の実力では笑い話にしかならない夢物語で、それゆえ劉仲も表情を蒼白ではなく硬化程度で抑えたのだが、冗談でも口にすれば罰せられる罪であることに変わりはない。
「案ずるな、他の誰にも明かしてはいない。おぬしが初めてだ」
劉仲の様子から弟の心情を察した劉縯は表情をわずかにゆるめ、小声で彼の懸念の一つを払ってやった。が、劉仲の憂慮は消えない。
「しかし本気か、兄上」
「むろん本気だ。それゆえおぬしに明かした。おぬしの力がなければ為せぬことだからな」
劉縯のその言に劉仲は虚を突かれ、そして感動した。
劉縯はこの途方もない野望の達成に弟の力を必要としていたのだ。いずれ機を見て話そうと決心もしていただろう。それゆえ今日突然弟に真意を尋ねられてもすぐに応じることができたのだ。わずかにためらいを見せたのは突然でさすがに驚いたことと、いかに自分の志と国家のためとはいえ弟を叛逆に巻き込むことを恐れていたからである。
それでもなお自分を信じ欲してくれた兄に、劉仲は感動したのである。
「わかった、兄上。私も協力しよう。だが今日明日で成せる望みではないぞ。それどころか中途で挫折する可能性の方がはるかに高い。達成するにしてもこれから何年、下手をすれば何十年かかるかもしれないほどの大望だ。それでもやるか」
「言うまでもない。私にその程度の覚悟ができていないとでも思うたか、仲」
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