鄧禹

橘誠治

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第四章 洛陽編

竹帛に垂る

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 洛陽に戻った鄧禹は凱旋報告を劉秀におこなった。その内容はいつもと変わらず客観的事実に拠っており、誇張することがなく、劉秀を満足させる。
「よくやった。これで延岑もしばらくおとなしくなるであろう」
「恐縮にございます」
「これでおぬしも本業に本腰を入れられるな。なにか褒美になるものがほしいか」
「では御聖恩に甘えて、一つお願いがございます」
 遠征失敗という鄧禹唯一のきずを払拭できたことに最も喜んでいたのは劉秀だったかもしれない。そのせいか、いささか軽い気持ちで「欲しいものはないか」と尋ねたのだが、返事があったことは劉秀にも少し意外だった。
 寡欲かよくな鄧禹にしては珍しい。


「そうか。何が欲しい」
「陛下にお仕えしてより臣の事績すべて、功あることは省き、失敗や過誤のみを記載していただきたくお頼み申します」
 平伏したままの鄧禹が求めた内容の意味を、劉秀はとっさには理解できなかった。
 が、解した途端、目を剥いた。
「歴史に、おぬしの功名は残さず、悪名のみを残せということか」
「さようにございます」
 鄧禹は静かに肯定した。
 常識にも人の情にもはずれる鄧禹の頼みはさすがに劉秀を驚かせ、しばし唖然とさせた。さてはいつもながらの諧謔かいぎゃくかとも考えたが、彼の表情は真剣である。


「なぜそのようなことを。意味がないではないか」
「遠征において臣が犯した罪はあまりに深く、あまりに大きく、これより先いかなる功績を立てようとあがないきれるものではございません。ゆえに臣の名は悪名のみによって後世に残されるべきと愚考いたしました。なにとぞ陛下にはご聖恩をもって、臣の望みをかなえていただけますよう、お願い申し上げます…」
 尋ねられた問いに重ねて静かに答えると、鄧禹はあらためて深く平伏した。


「……」
 劉秀はあらためて驚いた。鄧禹は長安遠征の失敗を、彼が考えていた以上に深く悔いていたのだ。
 これは歴史に関心を持たぬ者には大したことではないと感じられるかもしれないが、その意味を理解できる者には、これ以上ない厳罰とわかる。
 記された罪のみで後世の人々から無能を糾弾され、愚かさを嘲笑され、卑小さを嫌悪され、しかもそのことに対して弁明も反論も許されない。
 それが人の世が終わる時まで続くのだ。あるいは人の世が終わった後も永久に。


「…しかし記録とは善きことも悪しきこともすべてを残すことにこそ意味がある。自らの都合で選別するなど、それこそ後世からの非難を浴びよう」
「人にとって許しがたきことは、自らの悪行を隠し、功のみを貪ることにございます。悪行のみを残すことに異論を唱える者は多くありますまい。また臣下の功はすべて陛下に帰することこれもまた世のことわりにございます。そして臣が悪臣であることはすでに世の者すべてが知っております。何一つ不都合はございませぬ」
 平伏したままの鄧禹が滔々と述べて来る。いささか強引ではあるが、筋は通っているかもしれない。


 だが問題はそこではないだろう。鄧禹にとって長安遠征失敗は大きな精神的負担になっているのだ。彼自身の誇りの問題でもあろうし、皇帝に対する忠誠心もあろう。そしてなにより、自らの失敗により無為に死なせてきた民への責任が、重くのしかかっているのだ。
 劉秀自身、戦いにはんでいた。天下を取った後、息子に戦いのことを尋ねられたとき、話すのを拒んだほどである。


 ゆえに劉秀にとって最も大切なことは、鄧禹の心の負担を軽くしてやることだった。
「…わかった。だが条件がある」
 劉秀の言葉の前半にホッと軽く体がゆるんだ鄧禹だが、後半には少し身構える。それを見た劉秀は笑顔で続けた。
「これまでの事に関しては善悪に関わらずすべてを残す。これはおぬしだけではなく他の者も関わっておることだからな。ゆえにおぬしの望みはこれより先の事柄のみを対象とするが、それについては考慮してもよい。ただし、おぬしがこれより先一度でも失敗を犯したときには、おぬしのこれからの事績も功罪の区別なく、すべて記録に残す。これならよいが、どうだ」


 その言葉に鄧禹は思わずわずかに顔をあげ、目を剥いてしまった。鄧禹のその表情を見て劉秀は少しにやつく。
 これでは自らの望みをかなえるため、鄧禹は一度の失敗も許されないことになる。
 だがその失敗により、鄧禹は史上の悪名から逃れられるのだ。
 つまりこれは鄧禹の望みを逆手に取り、さらに大きな器でくるんだ劉秀の温情だった。


「いかにおぬしでもこれからの公務で一度も失敗せぬなど至難であろう。かえりみておぬしの能力なら成功の数の方がずっと多くなるであろうことは自明だ。どうする、朕はどちらでも構わぬぞ」
 まさしくその通りで、そもそも大きすぎる失敗をしたからこそ鄧禹はこのようなことを劉秀に頼んだのだ。この条件を受けても受けなくても、鄧禹の望みがかなわない可能性は高い。
 だが鄧禹は同時に劉秀の諧謔も感じ取っていた。諧謔というよりは悪戯いたずら心に近いだろうか。昔からよく知る年下の同窓生に「どうだ」と悪戯交じりに挑んできているのだ。


 であれば受けなければなるまい。ついさっきまで深刻さが勝っていた鄧禹の心情に陽性の闘争心もわずかにともる。
 劉秀はこのような方向からも鄧禹の心情を軽くしてやっていた。
「御意に従います。必ずや陛下のご期待に応えてみせまする」
「よし。しかしなんだな、こうなると朕の期待はおぬしの成功か失敗か自分でもわからぬのだが、どちらであろうな」
 あらためて平伏する鄧禹の声や雰囲気に明朗なものがにじんでいるのを感じた劉秀は、自らも安堵し諧謔を飛ばすが、鄧禹はそれには答えず微苦笑を浮かべるのみである。
 それを見た劉秀は、少し笑いの質を変えながら、やさしくもう一言だけ言った。
「さて、おぬしはどのような名を竹帛ちくはくるることになるのかな、仲華よ」
 それは起兵当時、劉秀の陣営へ馳せ参じた鄧禹が、臣従理由を尋ねられたときに答えた内容だった。竹帛に垂るる=歴史に名を遺すという意味である。
 わずか四年前のことだが、今の鄧禹は同じ望みがあるとしても当時とはまったく違う心境だろう。
 それゆえ鄧禹は言葉では何も答えず、劉秀と似たような笑みを浮かべただけだった。



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