鄧禹

橘誠治

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第四章 洛陽編

宜陽にて

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 鄧禹と馮異を破った赤眉本隊は関を抜け、そのまま南下に入った。
 いずれ東へ転進するつもりだったのか、あるいはそのまま南下を続けて略奪を続行するつもりだったのか。
 だがどちらにしろ彼らの思惑はすべて粉砕された。


 鄧禹と共に逃げ散ったように見せかけた馮異は、その後、各地へ散った兵たちを再度集め、正面決戦+奇策を用いて赤眉を完全に撃破。男女八万人を降す大戦果を挙げた。
 それでもなお赤眉には十余万の人間がいたが、東方へ向かう途中、宜陽ぎように布陣する劉秀の軍隊の前に、ついに降伏する。劉盆子りゅうぼんしをはじめ赤眉の主立った重臣たちも生きて劉秀に降ったが、重臣の幾人かはのちに叛し、誅殺されてしまう。 
 これにより劉秀はこの乱世における起爆剤となった彼らを取り込み、中原における最大勢力となり、天下統一へ向けてさらに大きく近づくこととなった。


 だがそれより先に、宜陽において劉秀と面会した男がいた。
 正月閏月、乙巳いっし。劉秀は本営において、床に平伏している鄧禹を迎えた。
「よく戻った、大司徒」
 言葉は短かったが、これはいかに劉秀といえど、何と声をかければいいかわからなかったためでもある。
 それでもその声には深い哀情と憐憫れんびん、そしていたわりがこもっている。
「……」
 その劉秀の自分への深い情は鄧禹にも痛いほど感じられ、それだけに何も言うことができなかった。どのような言葉でも自分の不首尾を詫びることができないと鄧禹は知っていたのである。


 彼の姿は砂塵に汚れ、これ以上ないほどの疲労と消沈に満ちている。
 二年ぶりの再会である。劉秀が帝位に就いてから会うのは初めてだった。
 だが劉秀にとっても鄧禹にとってもこのような形での再会は望んでいなかっただろう。
 それゆえに鄧禹は顔を上げることができず、二人は互いの表情を見ることがまだできていない。
「おぬしが生きていてくれてよかった。それは心から思っているぞ、仲華」
 劉秀は、今度は官職ではなくあざなで呼ぶことで、私人としての真情を鄧禹へ告げた。
 鄧禹にもそれは伝わり、だが今は劉秀のどのような言葉も苦しみに変わってしまう。
「これを…」
 鄧禹は平伏したまま劉秀へ二つの印綬を差し出した。
 一つは大司徒のもの、そしてもう一つは梁候のそれである。
 鄧禹は地位と領地を劉秀へ返上したのだ。自分にはその資格がないと。


「……」
 劉秀はしばらく黙っていた。が、これ以外に言う言葉を思いつかなかった。
「…わかった。邸を用意させておる。そこでしばし静養せよ」
 劉秀は印綬を受け取った。これにより鄧禹は無位無官の庶民となり、そして謹慎を言い渡されたことになる。
 だがそれは鄧禹への処分をまだ保留しているということでもあった。
 無惨な失敗。そして幾たびにも及ぶ帰還命令の無視。どのような沙汰を言い渡されても鄧禹には弁明のしようがなかった。
「ありがたき…」
 しかしそれは、今の鄧禹には感謝と喜びでしかない。
「……」
 そのような鄧禹をもう一度見下ろすと、劉秀は何も言わず、その場を立ち去った。
 鄧禹はそれでもしばらく、深く平伏したままだった。


 劉秀たちが赤眉と対峙しているときも、鄧禹は貸し与えられた邸宅で謹慎の日々を送っていた。
 本来なら鄧禹もその智謀で劉秀を助けるべきなのだが、今はそれを許される立場にはない。
 また事はすでに劉秀や諸将だけで解決できる段階に入っていた。もしそれでもなお不慮の出来事が起これば鄧禹の力も必要になったかもしれないが、幸いにも――あるいは不幸にも――そのようなことはなかった。


 謹慎ゆえ縛られたり閉じ込められたりしているわけではないが、それに等しい生活を鄧禹は自らに課していた。
 一室に一日中閉じこもり、そこで正座をして時を過ごす。食事も囚人と変わらぬほど粗末なもので、ただ座っているだけの鄧禹がみるみる痩せてゆくほどだった。
 これが自虐による自己憐憫でしかないことを鄧禹は知っている。こうして自らを痛めつけることで、自らを慰めていると。
 だからといって酒池肉林をおこなったとて意味はない。
 鄧禹は偽善を自覚しながらも、謹慎の日々を送るしかなかった。
 だがそれも永遠ではない。いずれ劉秀から沙汰がある。それまでのことである。


 鄧禹は謹慎の間、様々なことを考えていた。
 長安からの日々。長安までの日々。それ以前の日々。
 そこで過ごしたこと、したこと、為せなかったこと。
 一つ一つを思い出し、精査し、もっとよい方策はなかったかを黙考する。
 しかしその基部にあるのは常に後悔と罪悪感であった。
 彼は自らを許さなかった。絶対に許さなかった。 
 この後悔と罪悪感は一生拭うことができないであろう。死した者をよみがえらせることができない限り。劉秀の天下統一をさまたげた罪をあがなえない限り。


 いや、劉秀への罪はあがなえる。彼が自死を命じてくれれば。
 だがそうはならないことを鄧禹は知っていた。
 それは劉秀の為人ひととなりによるものだけではない。人材の確保が理由である。
 劉秀の陣営は他の陣営に比べれば、まだ人材は豊富である。それでもなお足りないのだ。特に頭脳をともなう人材が。
 これは戦乱による人口の急激な減少も影響している。前漢や新の朝廷に仕えた有為な人材はもちろん、在野の賢人たちも幾人が無駄に死んでいったことか。


 その中で鄧禹は統治にも軍事にも造詣が深い稀有な存在だった。どちらか一方なら劉秀陣営にもまだいるが、両方となるとほぼ皆無である。
 鄧禹は確かに失敗した。だがそれは鄧禹だけではない。鄧禹ほどの大敗でなくとも劉秀麾下の将軍で負けたことがない男の方がずっと少なかった。一戦場の戦術的敗北に限れば劉秀すら負けたことがある。
 玉石混淆の乱世において、明らかに至上の珠とわかる鄧禹のような男を殺すなど、劉秀でなくともありえなかった。


「おお…おお、おお、おお…」
 このことを考えるたびに、鄧禹はうずくまって押し殺すように涙を流した。
 わかる。わかってしまう。これはうぬぼれではなかった。自分程度の人材でも今の劉秀には必要なのだ。
 それを理解できてしまうことが鄧禹にはおぞましかった。
 わからなければ、察せられる力がなければ、劉秀の沙汰を待つまでもなく自らの首に剣を突き立てられるのに。
 そうすればこの耐えきれないほどの痛苦から解放されるのに。


 だがそれだけに鄧禹は絶対に死ねなかった。自らの苦しみから逃れるためだけに死を選ぶことは許されなかった。
 自分は劉秀に必ず許される。許されてしまう。そのときに何ができるか。何をするべきか。
 鄧禹はそのことを必死に考え続けていた。


 戦闘も近いことから鄧禹へ対して劉秀の沙汰はしばらくなかったが、明確に「自死は許さぬ」という意思表示はあった。
 謹慎中の鄧禹のもとへ、使者を通じて梁候の印綬を鄧禹へ返してきたのだ。
 これは返上された領地をあらためて鄧禹に授けるということで、死を授ける相手にわざわざこのような真似をするはずがない。
 上述したようなことを鄧禹が考えたのは謹慎早々だが、劉秀は対面してすぐにこの処置をおこなっている。万が一にも鄧禹が死を選ばないよう恐れてのことだった。
「…感謝いたします、陛下…」
 主君の思いやりを察した鄧禹は、劉秀のいる方角へ深々と平伏した。


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