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第三章 敗残編
打ちのめされた鄧禹
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赤眉も弘農郡のこの異変にはさすがに気づき、自分たちの勢力圏を守るため、しばしば長安のある京兆尹から東へ隣接する弘農郡へ軍を送った。いや、あるいは京兆尹でも東寄りの地域もすでに赤眉主力の威風は届いておらず、赤眉を名乗りつつも半独立勢力の群雄・群盗が独自に勢力を築いていたのかもしれない。
彼らは弘農郡がじわじわと乗っ取られてゆく状況に焦りを覚え、郡境を越えて東へ攻めにゆくが、弘農郡西端の城邑・華陰に陣取った馮異にことごとく防がれてしまっていた。
馮異は六十余日で赤眉と数十回戦い、彼らの将である劉始、王宣等、五千余人を降す武勲をあげている。
だがそんな馮異でも、郡境を越えて京兆尹へ攻め込もうとはしなかった。馮異としてもそうしたいところではあるのだが、それは不可能だった。
理由は単純で、それほどに赤眉主力と戦力に差があったのだ。
いかに馮異が寡を持って衆を討つ名人であったとしても限度がある。加えて今の京兆尹は赤眉主力の勢力圏で、地の利も彼らにあり、単独で攻め入るには無理があったのだ。
「だが必ず状況に変化は起こる」
それが馮異の存念であり、そして劉秀の見立てであった。
もともと赤眉は限界を越えたからこそ長安を捨てて西進・北進したのであり、たとえ戻ってきたとしても、彼らを取り巻く状況は悪化こそすれ好転する要素はほとんどない。ゆえにこのまま長安に居座るとは考えにくく、だとすればまた帝都を捨て、いずこかの方向へ出発することは充分にありえる。
では今度はどちらの方向へ流れてゆくだろうか。
西・北へは行っても無駄だとわかっているだけにまずありえない。
では南か東ということになるが、南方は緑や農産物も豊かで、戦乱の中心から離れていることもあって中原のような荒廃とも無縁である。それゆえ逃亡先には向いているかもしれないが、南方の中心である蜀にはすでに公孫述が盤踞している。赤眉のような大勢力が呼ばれもしないのに押しかければ必ず彼と事を構えることになるだろう。
また中華でも屈指の辺境である蜀は、赤眉の故郷である山東地方(大陸東部)とはあまりにも遠く離れた土地であり、故郷を想うこと現代人の比ではない彼らにとって命を賭してもたどり着きたい場所とも思えない。
とすれば、今度こそ彼らは東を目指すはずである。東へ行けば帰心にかられた脱走兵があふれ返り、赤眉自体が溶けて消えてしまうかもしれないが、彼らはもう疲れ果てている。先のことを考える余裕もなく、ただただ故郷へ帰ることのみを望んでいる可能性は高い。それこそ兵にとっては「故郷へ向かわなければ叛乱を起こす」と言わんばかりの情念で帰郷を渇望しているかもしれず、だとすれば将たちは、自分たちの命を守るためにも東への進軍を企図せざるを得ない状況かもしれない。
その真偽は明らかではないが、馮異が弘農郡へ居座っているのは、攻め込めないという消極的な理由だけでなく、赤眉を長安から東方へ引っ張り出す戦略的な意図もあった。
彼らにしてみれば、弘農郡が敵勢力に奪われるのは、故郷への「帰り道」を奪われるのと同じことなのだ。その不安は焦りを生み、判断力を鈍らせる可能性はあった。
赤眉が遠く長安にいる限り手の出しようがないが、彼らをそこから引っ張り出して東方へ引き寄せることができればやりようはある。
そのための戦略はすでに立案済みの馮異(と劉秀)だが、懸念はやはりあった。
「大司徒は今どこにいるのか…」
鄧禹へは劉秀から洛陽への召還と、馮異との交代を命ずる勅旨がすでに届いているはずなのだが、彼はそれに応じず、今も京兆尹で赤眉と戦っているらしいのだ。
これは明確な命令違反であり、常の鄧禹なら考えられない暴挙なのだが、馮異には驚きとともに、彼への同情と納得もあった。
「帰るに帰れぬか…」
鄧禹にしてみれば、劉秀から与えられた全幅の信頼を裏切る結果であり、まさに「どの面下げて」という心境だろう。是が非でも赤眉を討ち、長安を再度手中に収めねば、劉秀に合わせる顔がない。
年長の馮異には鄧禹の心情は手に取るようにわかる。そして自分にすらわかってしまうことが、鄧禹が怜悧な軍師から「ただの若者」になってしまった証であり、彼が自らの望みをかなえられない理由であるともわかってしまっていた。
明くる建武三年(西暦27)正月、甲子、馮異へ劉秀から勅旨が届いた。
馮異を征西大将軍に任じるという内容だった。これは文字通り「西を征する」ことを任務とした将軍職で、長安を中心とした三輔を治める正式な資格を馮異に与えたことになる。
これには理由があった。
先月(建武二年十二月)、赤眉が長安を捨て、ついに軍を発したためである。その方向は東。彼らは消滅の危険を自覚しながらも、やはり故郷への帰参を選んだのだ。
これは馮異にとっても劉秀にとっても期待通りの動きだったが、緊張が増す事態でもある。ここを乗り切れば光武陣営の天下取りは大きく前進するが、失敗すれば赤眉に飲み込まれ、これまでのすべてが水泡に帰してしまいかねないからである。
馮異の征西大将軍任命は、必ず赤眉を制し、三輔を自らのものにするという意志の表明でもあった。
だがこれは、鄧禹の持つ征西の任を解いて馮異に交代することを、公に表したということでもある。
その鄧禹は、まだ西から帰還していない。
馮異は征西大将軍の任を受けてより、本拠地を華陰からやや東へ下がった湖県に移した。その方が赤眉を深くまで誘い込むことができ、また劉秀とも連絡を取りやすいからだ。
そして馮異が湖へ移動して数日が過ぎた頃、ついに鄧禹が姿を現した。
当然彼一人ではなく兵を引き連れている。その数はまだ軍の体を成すだけのものは残っていたが、姿は凄惨で、ほとんど敗残の群れと変わらなかった。
「来たか」
物見から報告を受けた馮異は、彼らを出迎えるため急ぎ兵をひきいて城門を出ると、鄧禹の軍も止まり、数騎を従えた大将が近づいてきた。
「大司徒、ご無事で」
「馮将軍」
表情には出さなかったが、対面した鄧禹の様子に、馮異は瞠目する思いがした。
彼の姿は砂塵にまみれ、疲れ切っているように見える。そこまでは予想していたのだが、驚いたのは表情だった。
一見、鄧禹の表情は、疲れてはいても普段と変わらないように見えた。だが馮異の知る鄧禹は、物静かでありながら、常に自然な知性が泉のように内面から湧き出している若者だった。知性は自信と言い換えてよいかもしれないが、その根拠は確かな実績に裏打ちされた正当なもので、若者特有の思い上がりやうぬぼれとは太い一線を画すものである。
だが今の鄧禹からは、その泉の元が枯れ、知性も自信も尽き果てたかのように見えるのだ。
「それほどまでに打ちのめされてきたか」
鄧禹は若年の苦労知らずのように思われがちだが、挙兵以来、数多の苦難を乗り越えてきている。
極寒の北州で王郎の目を逃れての逃避行は馮異も共有しているし、王郎への反撃時には李育の奇襲により惨敗を喫している。長安遠征においても、幾度も訪れた敗退の危機を紙一重でかわし乗り越えてきた。
線の細い見た目以上に強靭な男が彼なのだ。
その鄧禹が今の馮異には、ただの若者に見えていた。
彼を非凡たらしめていた知性が枯渇し、精神が擦り切れるほどの挫折や敗残を繰り返してきた証である。
鄧禹の後ろにいる精魂尽き果て疲れ切った兵の姿は、彼の心象風景そのものなのだと馮異は思い知った。
彼らは弘農郡がじわじわと乗っ取られてゆく状況に焦りを覚え、郡境を越えて東へ攻めにゆくが、弘農郡西端の城邑・華陰に陣取った馮異にことごとく防がれてしまっていた。
馮異は六十余日で赤眉と数十回戦い、彼らの将である劉始、王宣等、五千余人を降す武勲をあげている。
だがそんな馮異でも、郡境を越えて京兆尹へ攻め込もうとはしなかった。馮異としてもそうしたいところではあるのだが、それは不可能だった。
理由は単純で、それほどに赤眉主力と戦力に差があったのだ。
いかに馮異が寡を持って衆を討つ名人であったとしても限度がある。加えて今の京兆尹は赤眉主力の勢力圏で、地の利も彼らにあり、単独で攻め入るには無理があったのだ。
「だが必ず状況に変化は起こる」
それが馮異の存念であり、そして劉秀の見立てであった。
もともと赤眉は限界を越えたからこそ長安を捨てて西進・北進したのであり、たとえ戻ってきたとしても、彼らを取り巻く状況は悪化こそすれ好転する要素はほとんどない。ゆえにこのまま長安に居座るとは考えにくく、だとすればまた帝都を捨て、いずこかの方向へ出発することは充分にありえる。
では今度はどちらの方向へ流れてゆくだろうか。
西・北へは行っても無駄だとわかっているだけにまずありえない。
では南か東ということになるが、南方は緑や農産物も豊かで、戦乱の中心から離れていることもあって中原のような荒廃とも無縁である。それゆえ逃亡先には向いているかもしれないが、南方の中心である蜀にはすでに公孫述が盤踞している。赤眉のような大勢力が呼ばれもしないのに押しかければ必ず彼と事を構えることになるだろう。
また中華でも屈指の辺境である蜀は、赤眉の故郷である山東地方(大陸東部)とはあまりにも遠く離れた土地であり、故郷を想うこと現代人の比ではない彼らにとって命を賭してもたどり着きたい場所とも思えない。
とすれば、今度こそ彼らは東を目指すはずである。東へ行けば帰心にかられた脱走兵があふれ返り、赤眉自体が溶けて消えてしまうかもしれないが、彼らはもう疲れ果てている。先のことを考える余裕もなく、ただただ故郷へ帰ることのみを望んでいる可能性は高い。それこそ兵にとっては「故郷へ向かわなければ叛乱を起こす」と言わんばかりの情念で帰郷を渇望しているかもしれず、だとすれば将たちは、自分たちの命を守るためにも東への進軍を企図せざるを得ない状況かもしれない。
その真偽は明らかではないが、馮異が弘農郡へ居座っているのは、攻め込めないという消極的な理由だけでなく、赤眉を長安から東方へ引っ張り出す戦略的な意図もあった。
彼らにしてみれば、弘農郡が敵勢力に奪われるのは、故郷への「帰り道」を奪われるのと同じことなのだ。その不安は焦りを生み、判断力を鈍らせる可能性はあった。
赤眉が遠く長安にいる限り手の出しようがないが、彼らをそこから引っ張り出して東方へ引き寄せることができればやりようはある。
そのための戦略はすでに立案済みの馮異(と劉秀)だが、懸念はやはりあった。
「大司徒は今どこにいるのか…」
鄧禹へは劉秀から洛陽への召還と、馮異との交代を命ずる勅旨がすでに届いているはずなのだが、彼はそれに応じず、今も京兆尹で赤眉と戦っているらしいのだ。
これは明確な命令違反であり、常の鄧禹なら考えられない暴挙なのだが、馮異には驚きとともに、彼への同情と納得もあった。
「帰るに帰れぬか…」
鄧禹にしてみれば、劉秀から与えられた全幅の信頼を裏切る結果であり、まさに「どの面下げて」という心境だろう。是が非でも赤眉を討ち、長安を再度手中に収めねば、劉秀に合わせる顔がない。
年長の馮異には鄧禹の心情は手に取るようにわかる。そして自分にすらわかってしまうことが、鄧禹が怜悧な軍師から「ただの若者」になってしまった証であり、彼が自らの望みをかなえられない理由であるともわかってしまっていた。
明くる建武三年(西暦27)正月、甲子、馮異へ劉秀から勅旨が届いた。
馮異を征西大将軍に任じるという内容だった。これは文字通り「西を征する」ことを任務とした将軍職で、長安を中心とした三輔を治める正式な資格を馮異に与えたことになる。
これには理由があった。
先月(建武二年十二月)、赤眉が長安を捨て、ついに軍を発したためである。その方向は東。彼らは消滅の危険を自覚しながらも、やはり故郷への帰参を選んだのだ。
これは馮異にとっても劉秀にとっても期待通りの動きだったが、緊張が増す事態でもある。ここを乗り切れば光武陣営の天下取りは大きく前進するが、失敗すれば赤眉に飲み込まれ、これまでのすべてが水泡に帰してしまいかねないからである。
馮異の征西大将軍任命は、必ず赤眉を制し、三輔を自らのものにするという意志の表明でもあった。
だがこれは、鄧禹の持つ征西の任を解いて馮異に交代することを、公に表したということでもある。
その鄧禹は、まだ西から帰還していない。
馮異は征西大将軍の任を受けてより、本拠地を華陰からやや東へ下がった湖県に移した。その方が赤眉を深くまで誘い込むことができ、また劉秀とも連絡を取りやすいからだ。
そして馮異が湖へ移動して数日が過ぎた頃、ついに鄧禹が姿を現した。
当然彼一人ではなく兵を引き連れている。その数はまだ軍の体を成すだけのものは残っていたが、姿は凄惨で、ほとんど敗残の群れと変わらなかった。
「来たか」
物見から報告を受けた馮異は、彼らを出迎えるため急ぎ兵をひきいて城門を出ると、鄧禹の軍も止まり、数騎を従えた大将が近づいてきた。
「大司徒、ご無事で」
「馮将軍」
表情には出さなかったが、対面した鄧禹の様子に、馮異は瞠目する思いがした。
彼の姿は砂塵にまみれ、疲れ切っているように見える。そこまでは予想していたのだが、驚いたのは表情だった。
一見、鄧禹の表情は、疲れてはいても普段と変わらないように見えた。だが馮異の知る鄧禹は、物静かでありながら、常に自然な知性が泉のように内面から湧き出している若者だった。知性は自信と言い換えてよいかもしれないが、その根拠は確かな実績に裏打ちされた正当なもので、若者特有の思い上がりやうぬぼれとは太い一線を画すものである。
だが今の鄧禹からは、その泉の元が枯れ、知性も自信も尽き果てたかのように見えるのだ。
「それほどまでに打ちのめされてきたか」
鄧禹は若年の苦労知らずのように思われがちだが、挙兵以来、数多の苦難を乗り越えてきている。
極寒の北州で王郎の目を逃れての逃避行は馮異も共有しているし、王郎への反撃時には李育の奇襲により惨敗を喫している。長安遠征においても、幾度も訪れた敗退の危機を紙一重でかわし乗り越えてきた。
線の細い見た目以上に強靭な男が彼なのだ。
その鄧禹が今の馮異には、ただの若者に見えていた。
彼を非凡たらしめていた知性が枯渇し、精神が擦り切れるほどの挫折や敗残を繰り返してきた証である。
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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