鄧禹

橘誠治

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第三章 敗残編

馮異

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 建武二年(西暦26)十二月。
 乾いた冷たい風に黄砂が乗って飛ぶ中、へん将軍・馮異ふういは目を細め、はるか西を見透かしていた。
 彼が今立っているのは弘農こうのう郡の西端、長安のある京兆尹けいちょういんとの郡境の城邑、華陰かいんである。
 主君である光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅうの命により、洛陽から西へ発してすでに二か月。
 彼に与えられた命とは、鄧禹に代わって赤眉を討伐し、長安を奪取することだった。
 鄧禹が一度手に入れた長安を失陥して四か月、劉嘉をくだしてから三か月近くの時が過ぎている。


 ――「大司徒に代わって臣が、にございますか」
 建武二年もあと二か月になろうかという頃、劉秀に呼ばれて参じた馮異は、彼から与えられた命令にわずかに目をみはった。このとき馮異は頭を下げているため劉秀から彼の表情は見えなかったが、それでも声音からその心情は充分に聞き取れた。
「そうだ。どうやら大司徒はすでに限界のようでな…」
 劉秀の口調は、苦しげでもあり、痛ましげでもある。それを今度は馮異の方が聞き分けた。


 鄧禹はじり貧であった。
 赤眉に長安を追われ、奪還のため幾度いくたびにも渡って彼らを攻め、そのことごとくに失敗し、敗残のまま退却する。その都度彼のもとから兵は離れ、戦力は減少し、減少したその兵力で攻めるため、また敗れる。
 帰順してきた者たちも次々と離散し、すでに安定して食糧を得ることもかなわず、兵は棗菜そうさい(なつめと野菜)を喰らって飢えを満たす有様で、それが理由でまたさらに兵が離れてゆく。
 絵に描いたような悪循環であった。


 洛陽にいる劉秀がなぜこのような惨状を知っているか。それは鄧禹自身が報告してくるからであった。
 彼はどのような苦境に陥ろうと、劉秀への報告を欠かすことはなく、その内容に虚偽を混ぜることをしなかった。正しい思考や判断に必要不可欠なのは、可能な限り精確で豊富な情報で、劉秀のためのそれらに自らの失態を隠したいがために不備を生じさせるのは、鄧禹の理性と矜持きょうじが絶対に許さなかったのだ。それでも劉秀には、鄧禹の焦慮と屈辱と憔悴しょうすいが、行間から血涙のようににじみ出ているのを感じられてならなかった。


 それは洛陽に到着した劉嘉から聞いた鄧禹の様子からもうかがえる。
「表面は平静に見えました。が、やはりどこか腰のわりが悪く、目にも落ち着きがなく、今にも崩れそうな様子でしたな」
 さらに加えて李宝誅殺の経緯を詳しく聞くと、劉秀は鄧禹更迭を決断せざるを得なかった。


「大司徒はよくやった」
 劉秀はそれだけ言うと、その後の言葉を飲み込むように唇を引き結んだ。
 事実、寡兵かへいをもって出立し、様々な障害や困難を退け、一時は長安を掌握したことは驚嘆に値する。この時代、この時期の他の武将の中で、何人がこれを達成できるだろうか。
 だがそれでも失敗は失敗だった。勅命を果たせず――鄧禹出立時の劉秀はまだ即位していなかったが――、兵をむなしく死なせ、敗残への坂道を転がり続ける鄧禹を、公人としては劉秀も弁護のしようがなかった。
「……」
 馮異は主君のその苦衷くちゅうを理解できる数少ない臣下だった。
 馮異の生年ははっきりしないが、王莽おうもうの頃すでに官職に就いていたことから、劉秀より年上であることは間違いないだろう。劉秀から見れば兄の年代で、鄧禹にとっては父親に近い年齢かもしれない。
 また馮異は劉秀起兵時から彼の麾下きかにいたため、鄧禹とも北州での苦難を分かちあっている。冬のさなか、王郎から逃亡中に氷雨からのがれるためあばら家に駆け込み、三人で粗末な豆粥や麦飯を分け合ったことなども、今ではよい思い出である。
「おぬしなら大司徒も交代を受け容れやすかろう。大司徒には召還命令を出しておく。城や土地を取ることを目的とはせず、当地の平和を第一に考え行動せよ」
 馮異と鄧禹は年齢差もあるが、このような事情で私的にもつながりがある。だが劉秀が鄧禹の代わりに馮異を推す理由は他にもあった。
 馮異は用兵の巧みさ以外にも、得がたい資質を持っていた。
 兵に略奪を許さないのだ。
 他の将はどれほど有能でも綱紀に難のある者が多く、このような統治を含む遠征には向かない男が多かった。略奪が統治においてどれだけ害悪かを理解している鄧禹ならば、公的な面からも私的な情からも、馮異を受け容れやすいはずである。
 また馮異は政治家としてはともかく、行政官としても有能であり、統治について任せるにも不安はなかった。


 そのような劉秀の考えは馮異にも理解できる。彼としては今現在覇を競っている劉永や周囲の群雄との戦いから離れるのは不本意であったが、見るところ、全体的に光武陣営は押し気味であり、少なくとも五分で渡り合える状況である。ここで自分たちが長安から洛陽までの中原を勢力圏に置くことができれば、一気に大勢を決する契機にすることも夢ではない。
 今はまさに劉秀の天下取りにおける一つの勝負所なのだ。
「御意にございます。必ずや陛下のご期待に応えてみせまする」
 それゆえ馮異もそう答え、次いで鄧禹のことを考えた。劉秀と同様、馮異とて彼のことを私人としても案じているのだ。


 ――そのような経緯で洛陽を進発した馮異の兵は、さほど多くなかった。そもそも前述通り、劉秀自身がまだまだ周囲の群雄と戦闘中で、馮異に割ける戦力などもともと無いに等しかったのだ。おそらく鄧禹進発時に割いた兵より少なかったであろう。
 だが、だからこそこの兵の将に馮異が選ばれたとも言える。
 馮異は名将だった。それもあらゆる戦場のあらゆる戦闘に柔軟に対応できる将才の持ち主で、寡をもって衆を討つ名人と言ってよかった。
 もちろんこのような用兵は邪道で本来であれば劉秀も避けたかったのだが、状況をかんがみれば致し方なく、この一見無茶な任に馮異を就けるしかなかったのだ。

 
 そして馮異は劉秀の期待をまったく裏切ることがなかった。
 洛陽から西へ、弘農郡へ入る。弘農は赤眉が長安へ向けて直進した郡で(鄧禹は弘農の北にある河東郡を西進した)、いわば彼らの勢力圏になる。だが長安にいる赤眉の主力はすでに弱体化して遠方まで威を発することができない状態にあり、自然、弘農は群盗が跋扈ばっこする無政府状態と化している。
 馮異はこれらの群盗を片っ端から平らげていった。都合十余の群盗が馮異にくだり、弘農郡は馮異(=劉秀)の勢力圏として塗り替えられている。


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