鄧禹

橘誠治

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第三章 敗残編

劉嘉と李宝

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 鄧禹の奇襲策戦は失敗に終わったが、この時の三輔における主戦闘は、逄安ほうあん延岑えんしんによる杜陵とりょうでの戦いである。
 十数万の兵を擁する逄安に単独で立ち向かうのはさすがに分が悪いと感じたか、延岑は李宝りほうと軍を合わせ、数万の兵でこれを迎え撃っている。一時、延岑・李宝の軍は大敗するが、その後、奇計により逆転。逄安は十余万の兵を失い、わずか数千の敗残兵を連れて長安へ帰ることとなる。


 その後、二人は別れ、李宝は臣従している劉嘉りゅうかのもとへ、延岑は本拠地である杜陵へ帰ったようだが、鄧禹はその延岑と藍田らんでんで戦っている。
 藍田は杜陵の東に隣接する城邑だが、この戦いの理由は今一つはっきりしない。


 この時期、赤眉は寥湛りょうたんを将とする十八万もの大軍を発し、谷口(地名・長安の西北)において劉嘉と戦わせている。
 寥湛はもともと更始帝の重臣で穣王じょうおうに封じられるほどだったが、泥沼の政権末期に叛乱、敗走して赤眉へ降っていた。劉嘉も更始政権下では漢中王に封じられており、いわば元同僚同士の戦いとなったわけだが、鄧禹はこの隙に乗じて延岑を攻めたのかもしれない。
 谷口は長安の西北、藍田は東南に位置しており、長安の意識が自分からそれているうちに、孤軍となった延岑を破り、下降の一途をたどる自らの武名を挙げ、兵の士気を取り戻す狙いがあったのだろうか。
 もしそうだとすれば、長安への奇襲と意識や目的が変わっておらず、鄧禹の失調が続いていることを表している。
 しかもこの戦いは勝つことができなかったようで、鄧禹はここでも何も得られずに終わっている。


 だがこの戦いにおける鄧禹の危機と苦難は、この後が本番だった。
「大司徒、一大事でございます。雲陽うんようが劉嘉に占拠されました!」
「なんだと!」
 消沈したまま臨時の駐屯地である高陵へ帰ってきた鄧禹は、そこで信じられないような凶報を受けた。今の鄧禹らの根拠地である雲陽が劉嘉に奪われたというのだ。そこには北道から運ばせた食糧も集積されており、絶えず鄧禹らへ輸送されている。つまり鄧禹は命の綱を断たれたことになるのだ。
 敗勢濃い鄧禹がこれまで曲がりなりにも戦線を維持できたのは、雲陽からの補給があったればこそである。もしそこを押さえられたとすれば戦いどころではない。鄧禹軍は餓死するしかないであろう。
「兵の休息と再編を終えたら雲陽を目指す。必ず奪還するぞ!」
 鄧禹の精神は焼き切れはじめていた。

 
 寥湛りょうたんは劉嘉に捕えられ、斬首された。
 十八万を誇った赤眉軍は、劉嘉に大敗したのだ。
 逄安に続く、大軍を擁しての連敗である。赤眉の権威も士気も崩落の一途をたどっている。
 とはいえ劉嘉も無傷だったわけではない。相応に損害は受けているし、なによりそろそろ食糧が限界に近づいてきていた。
「さて、どうしたものか…」
 劉嘉はそのうじがあらわすように、れっきとした劉氏である。若い頃、劉秀の兄である劉縯りゅうえんと長安へ遊学した経験もあり、劉秀にとっては族兄でもあった。
 劉嘉の為人ひととなりは仁厚で、その性情に激しさは持ち合わせておらず、このような武に関わることは本意ではないのだが、それでもこなさなければ殺されてしまうし、こなせてしまうところに彼の有能さがあらわれている。
「雲陽へ参りましょう」
 腕を組んで考える劉嘉へ、しょうである李宝が提案した。雲陽は今現在彼らがいる谷口の北にある比較的近い城邑だが、そこへ向かう理由が劉嘉にはとっさにわからず反問した。
「雲陽へ」
「はい、そこにはいま食糧が集められているそうです。それこそ我が軍をまかなうに充分な量が」
「なぜそのようなところに。誰が集めたのだ」
「まだそこまでは調べがついておりませぬが、おそらく赤眉が近隣から徴収したものでしょう。彼らはいま頻繁に軍行動を起こしておりますゆえ、もしかしたら再度北への進軍を考えているのかもしれませぬ」
「ふむ…」
 劉嘉は腕を組んで沈思した。


 そんな主君を眺めつつ、李宝は彼に臣従したときから感じている、こびりつくようなもどかしさを覚えていた。
「もう少し覇気を持っていただけないものだろうか…」
 李宝も劉嘉同様、更始政権に属していた。更始帝が滅亡して立場が宙に浮いてしまったところも同じだったが、李宝の焦燥感は強かった。
「このままでは立ち枯れしてしまう…」
 李宝は更始帝の命令で武都郡を守っていたが、彼に自力で勢力を培ってゆくことはできない。能力に自信はあるが、今の中華で劉氏以外の人間が政権を作るのは困難であったし、李宝本人にもまだそこまでの実績も基盤もなかった。
 それゆえ劉嘉が延岑に敗れて武都郡へ逃げ込んできたことは、李宝にとって千載一遇の好機であった。
「劉嘉を皇帝に仕立てて天下を取らせよう。そうすればわしも位人臣を極められるぞ」
 生き残るためだけならば、赤眉なり隗囂かいごうなり他の誰かに降伏してもよかったかもしれない。だが更始政権下の李宝がそれなりに重用されながらも、帝の側近にまで取り立てらられなかったのは、やはり「立ち上げ」から参加していなかったことが大きい。明らかに自分より無能であるのに上位にいた者は幾人もいて、李宝としては歯がゆい思いをしていたのだ。
 だが今の劉嘉を皇帝にしようとすれば、まさに立ち上げ期そのもので、李宝が側近第一位になれるのも明らかである。
「賭けてみる価値はある」
 勇躍、李宝は延岑を撃退し、劉嘉を救け、臣従することを誓い、劉嘉もそんな李宝に喜び、彼を自らの相として抜擢したのだ。


 劉嘉は更始帝の側近たちの誰よりも優秀であり、有能であった。教養もあり、穏やかな人柄に応じて器量も申し分なかった。
 そこまでは李宝にとって理想的な主君だったのだが、彼には一つ欠点があった。
 絶対的な野心や覇気に乏しかったのだ。
 ある意味、これは「中原に鹿を追う」という帝位争奪戦のおいて致命的な欠陥だった。なまじ教養があり、人格も高潔な劉嘉は、金品や権力を使っての指嗾しそうにも乗ってこない。
「これは別口に乗り換える方がよいか…」
 そのようなことも考えるが、しかしこれほど好条件のそろった「劉氏」が他にいるわけでもない。
「もう少し粘ってみるか」
 劉嘉を見限るにせよ、今少し天下の推移を見極めてからでも遅くない。李宝はそのように考え、劉嘉に尽くしていた。


 もちろん李宝は今の雲陽が鄧禹の支配する城邑だと確認済みであった。それを素直に報告しなかったのは、劉嘉を追いつめる意図もあったのだ。
「赤眉と敵対している漢中王(劉嘉)が連中に降ることはない。涼州(隗囂かいごう)やしょく(公孫述)に降る可能性もあるが、誰より洛陽の劉秀へ帰順するそれが最も高いだろう。できるならその芽は潰しておきたいからな」
 劉秀は劉縯の弟で、当然劉嘉も知っている。また同じ劉氏であるだけに、隗囂や公孫述に比べ、心情的に降りやすいだろう。
 だがそうなっては李宝の野望は霧消してしまう。劉秀の近くには鄧禹をはじめ、すでに幾人もの幕僚が存在しているだけに、李宝が共に降っても、栄達は相当困難なものになる。
 それゆえ李宝は、劉嘉と鄧禹(=劉秀)の間にげきを生じさせ、劉嘉をして自ら皇帝として立たねばならぬ状況を作ってしまおうと考えていたのだ。
「わかった、雲陽へ行こう」
 思案していた劉嘉だが、ほどなく決定すると、軍を雲陽へ向けた。細かなことを李宝に尋ねなかったのは、一度登用したからには全面的に信じるという劉嘉の大度たいどによるものだが、これはどちらかといえば君主の器量というより、彼個人の為人ひととなりるところが大きいかもしれない。
 李宝としてはこれを王者のそれに作り変えたいと望み、様々に画策しているのだ。


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