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第三章 敗残編
劉盆子誘拐
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赤眉が入ったからといって、長安の状況が劇的に好転するはずもない。
それどころか暗転する流れに傾くのは必然だった。
最も迷惑を被ったのは長安の民だろう。鄧禹という、見識も展望も実行力も持ち合わせた男によってせっかく復興の目途が立ってきたというのに、それを取り上げられてしまったのだから。
長安の民は自分たちを見捨てて逃亡した鄧禹を恨みはしたが、それは深刻なものではなかった。赤眉が大軍であることは理解できていたし、なにより戻ってきてもすることは前と変わらない赤眉への嫌悪や憎悪が強すぎて、鄧禹への悪感情がさほどのものにならなかったのである。
その鄧禹だが、北道が比較的安定しているのを確認すると、根拠地は雲陽としながらも、より長安に近い高陵へ駐屯することにした。赤眉に隙があれば、すぐさま行動を起こせるようにである。
これは鄧禹の焦りでもあった。その証拠にというべきか、鄧禹は彼らしくない軽率な行動に出てしまう。
「逄安が延岑を討つために出陣したか」
逄安は蜂起の頃から赤眉に参加している重鎮だった。その彼が十余万の兵を率いて出撃したという。
向かう先は杜陵に駐屯する延岑の軍。延岑は前述したように、この時期、三輔を中心に暴れまわっていた群雄の一人である。彼が根拠地とした杜陵は長安に近く、赤眉としては先手を打って討ち滅ぼしておきたかったのだ。
事実、逄安という重鎮が大軍を率いての討伐となれば、これは本気を出していると見て間違いない。
「つまり赤眉の意識は今、延岑に集まっているということか…」
鄧禹が失調していた証として、この程度のことを赤眉の「隙」と考えてしまったことも挙げられるかもしれない。
もちろん逄安が十余万の兵を率いて出撃したことは大きいが、長安にはまだ多数の兵も他の将軍も残っているのだ。
だがいくら今の鄧禹でも、現段階で彼らのすべて追い出し、長安を再奪取できるとまでは楽観していなかった。
彼は一人の人物のことを考えていたのだ。
「皇帝を攫うことはできないか…」
この場合皇帝とは、洛陽にいる劉秀ではなく、赤眉が傀儡として祭り上げている劉盆子のことを指す。
彼を誘拐できないだろうかと鄧禹は考えたのだ。
劉秀と違い、劉盆子は完全にお飾りの天子だが、必要だからこそ立てられているのも確かである。
もし劉盆子が自らの意思をもって政をおこなおうとすれば、赤眉の首領たちに容赦なく排除されるか、下手をすれば殺されてしまっただろう。
そして新たな皇帝が立てられる。
が、これも言うほど簡単な話ではなかった。
まず新皇帝は当然劉氏でなければならないが、しかし劉氏で、しかも赤眉の首領たちの言うことを諾々と聞くだけの都合のいい男がすぐに見つかるだろうか。
劉盆子には兄が二人いる。
長兄は硬骨の士で、末弟が廃されたからといって素直に帝位に就く男ではない。長兄の代わりに次兄を即位させようとしても妨害するであろう。事実、劉盆子のときも自ら獄につながれることで激しく抗議した。もし次兄即位を無理に強行すれば、長兄は弟を道連れに自死してしまうかもしれない。
それほど硬骨な男なのだ。
草莽の中から新たな劉氏を見つけ出せないこともないかもしれないが、時間も手間もかかるだろう。
あるいは劉氏ではない男に詐称させて担ぎ上げる手もあるだろうが、よほどうまく詐称しても正統性が疑われるのは王郎の例でも明らかである。
しかももし新しい皇帝を立てたあとに劉盆子が別の場所で生存しているとわかれば、新皇帝の正統性はさらに不安定なものになる。本来の皇帝が生きているのに別の皇帝を立てるなど、あってはならないことなのだ。
鄧禹は劉盆子を誘拐することで、赤眉の内部混乱と世間における正統性の低下を期待したのである。
「劉盆子は桂宮か」
本来の皇宮は赤眉に焼かれて再建されておらず、皇帝は桂宮という宮殿に居住していた。当然、本来の皇宮と比べ、防御力は低い。
「よし、桂宮に攻め込むぞ」
この時期、鄧禹は独断が目立つようになっていた。主だった将帥が戦死したり離反したりして相談する相手がいなかったというのもあるが、それでも以前の彼に比べ、他人の意見を聞くことを拒むようになっている。今の彼に唯一諫言ができるであろう韓欽も遠ざけられ、なるべく顔を合わせないようにしていることもその証の一つとなるだろう。
もし鄧禹に真っ当な幕僚がいて、その意見を彼が取り上げられるようであれば、このように杜撰な策戦は実行前に取りやめられていたに違いない。
それでも最初は成功の兆しがあった。
失調しはじめているといっても鄧禹は事を始めるとなれば手を抜かず、桂宮の警備体制や赤眉軍の分布状況などを調べ上げていた。
それによると劉盆子は、その立場にふさわしく、皇帝でありながら粗略に扱われており、桂宮の兵はさほど多くないとのことだった。
「よし、決行だ」
隠密性と奇襲が成功の鍵である。鄧禹は少数の兵を率いて、夜、長安へ向けて出撃した。
つい先日まで長安の主だった鄧禹は、都内をかなり詳細に調査していた。それは統治のためだったが、このような襲撃の際にも役に立つ。
長安城近くで兵を待機させながら、近くに敵軍がいないかを斥候に探らせる。桂宮の警備兵の状況だけでなく、桂宮近くに他の赤眉兵や軍がいるかどうかもである。
桂宮への襲撃に時間をかけるつもりはないが、それでも事を起こせば長安内にいる赤眉の将兵も異変に気づくに違いない。
「連中が援けに来る前に事を成せねばこちらの負けだ」
鄧禹としても心臓に脂汗をかくような心境だったが、帰ってきた斥候の報告は「桂宮の警備は通常通り」「近くにまとまった軍勢はなし」というものだった。
「よし、ゆくぞ」
おのれの運に安堵した鄧禹は、手はず通りに策戦を開始した。
それどころか暗転する流れに傾くのは必然だった。
最も迷惑を被ったのは長安の民だろう。鄧禹という、見識も展望も実行力も持ち合わせた男によってせっかく復興の目途が立ってきたというのに、それを取り上げられてしまったのだから。
長安の民は自分たちを見捨てて逃亡した鄧禹を恨みはしたが、それは深刻なものではなかった。赤眉が大軍であることは理解できていたし、なにより戻ってきてもすることは前と変わらない赤眉への嫌悪や憎悪が強すぎて、鄧禹への悪感情がさほどのものにならなかったのである。
その鄧禹だが、北道が比較的安定しているのを確認すると、根拠地は雲陽としながらも、より長安に近い高陵へ駐屯することにした。赤眉に隙があれば、すぐさま行動を起こせるようにである。
これは鄧禹の焦りでもあった。その証拠にというべきか、鄧禹は彼らしくない軽率な行動に出てしまう。
「逄安が延岑を討つために出陣したか」
逄安は蜂起の頃から赤眉に参加している重鎮だった。その彼が十余万の兵を率いて出撃したという。
向かう先は杜陵に駐屯する延岑の軍。延岑は前述したように、この時期、三輔を中心に暴れまわっていた群雄の一人である。彼が根拠地とした杜陵は長安に近く、赤眉としては先手を打って討ち滅ぼしておきたかったのだ。
事実、逄安という重鎮が大軍を率いての討伐となれば、これは本気を出していると見て間違いない。
「つまり赤眉の意識は今、延岑に集まっているということか…」
鄧禹が失調していた証として、この程度のことを赤眉の「隙」と考えてしまったことも挙げられるかもしれない。
もちろん逄安が十余万の兵を率いて出撃したことは大きいが、長安にはまだ多数の兵も他の将軍も残っているのだ。
だがいくら今の鄧禹でも、現段階で彼らのすべて追い出し、長安を再奪取できるとまでは楽観していなかった。
彼は一人の人物のことを考えていたのだ。
「皇帝を攫うことはできないか…」
この場合皇帝とは、洛陽にいる劉秀ではなく、赤眉が傀儡として祭り上げている劉盆子のことを指す。
彼を誘拐できないだろうかと鄧禹は考えたのだ。
劉秀と違い、劉盆子は完全にお飾りの天子だが、必要だからこそ立てられているのも確かである。
もし劉盆子が自らの意思をもって政をおこなおうとすれば、赤眉の首領たちに容赦なく排除されるか、下手をすれば殺されてしまっただろう。
そして新たな皇帝が立てられる。
が、これも言うほど簡単な話ではなかった。
まず新皇帝は当然劉氏でなければならないが、しかし劉氏で、しかも赤眉の首領たちの言うことを諾々と聞くだけの都合のいい男がすぐに見つかるだろうか。
劉盆子には兄が二人いる。
長兄は硬骨の士で、末弟が廃されたからといって素直に帝位に就く男ではない。長兄の代わりに次兄を即位させようとしても妨害するであろう。事実、劉盆子のときも自ら獄につながれることで激しく抗議した。もし次兄即位を無理に強行すれば、長兄は弟を道連れに自死してしまうかもしれない。
それほど硬骨な男なのだ。
草莽の中から新たな劉氏を見つけ出せないこともないかもしれないが、時間も手間もかかるだろう。
あるいは劉氏ではない男に詐称させて担ぎ上げる手もあるだろうが、よほどうまく詐称しても正統性が疑われるのは王郎の例でも明らかである。
しかももし新しい皇帝を立てたあとに劉盆子が別の場所で生存しているとわかれば、新皇帝の正統性はさらに不安定なものになる。本来の皇帝が生きているのに別の皇帝を立てるなど、あってはならないことなのだ。
鄧禹は劉盆子を誘拐することで、赤眉の内部混乱と世間における正統性の低下を期待したのである。
「劉盆子は桂宮か」
本来の皇宮は赤眉に焼かれて再建されておらず、皇帝は桂宮という宮殿に居住していた。当然、本来の皇宮と比べ、防御力は低い。
「よし、桂宮に攻め込むぞ」
この時期、鄧禹は独断が目立つようになっていた。主だった将帥が戦死したり離反したりして相談する相手がいなかったというのもあるが、それでも以前の彼に比べ、他人の意見を聞くことを拒むようになっている。今の彼に唯一諫言ができるであろう韓欽も遠ざけられ、なるべく顔を合わせないようにしていることもその証の一つとなるだろう。
もし鄧禹に真っ当な幕僚がいて、その意見を彼が取り上げられるようであれば、このように杜撰な策戦は実行前に取りやめられていたに違いない。
それでも最初は成功の兆しがあった。
失調しはじめているといっても鄧禹は事を始めるとなれば手を抜かず、桂宮の警備体制や赤眉軍の分布状況などを調べ上げていた。
それによると劉盆子は、その立場にふさわしく、皇帝でありながら粗略に扱われており、桂宮の兵はさほど多くないとのことだった。
「よし、決行だ」
隠密性と奇襲が成功の鍵である。鄧禹は少数の兵を率いて、夜、長安へ向けて出撃した。
つい先日まで長安の主だった鄧禹は、都内をかなり詳細に調査していた。それは統治のためだったが、このような襲撃の際にも役に立つ。
長安城近くで兵を待機させながら、近くに敵軍がいないかを斥候に探らせる。桂宮の警備兵の状況だけでなく、桂宮近くに他の赤眉兵や軍がいるかどうかもである。
桂宮への襲撃に時間をかけるつもりはないが、それでも事を起こせば長安内にいる赤眉の将兵も異変に気づくに違いない。
「連中が援けに来る前に事を成せねばこちらの負けだ」
鄧禹としても心臓に脂汗をかくような心境だったが、帰ってきた斥候の報告は「桂宮の警備は通常通り」「近くにまとまった軍勢はなし」というものだった。
「よし、ゆくぞ」
おのれの運に安堵した鄧禹は、手はず通りに策戦を開始した。
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