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第二章 長安編
乱の影響
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馮愔らが栒邑に立てこもって三週間。城内の雰囲気は悪かった。
馮愔の威があるため、あからさまな不満や騒動は噴出していなかったが、そのぶん陰にこもった鬱々とした不満や後悔が兵の中に充満している。
それはそうだろう。馮愔の起こしたこの叛乱は、綿密な目算があってのことではなく、おのれの武に奢っての、いわば思いつきのものなのだ。それゆえ一つでもつまずきがあればそこで頓挫してしまい、あとはじり貧になるのも必然で、今現在がその状態なのである。
籠城開始時に馮愔が豪語した「援軍」は一向に現れず、城内の食糧を食い潰すだけの時間が過ぎてゆく。
実は馮愔は、自らが鄧禹を討ちにゆくのと別に、一軍を北西へ向けて発していた。鄧禹たちがいるのと別方向へ支配域を広げようとしていたのかもしれないが、これは当地の支配者である隗囂に撃退され、無用に兵を失っている。
これを聞いた鄧禹は、隗囂に符節を与え、西州大将軍に任命し、涼州朔方郡について専権を与えている。
馮愔は隗囂に助けを求めることもできなくなっていた。
包囲した鄧禹たちの攻撃も馮愔兵たちの心の消耗を煽っている。
攻撃というより口撃だろうか。前述のとおり鄧禹は馮愔の兵もなるべく損ないたくなかった。それゆえ包囲はしたが、本格的な攻撃は一切仕掛けなかった。だが包囲した兵たちに、常に城内へ大声を投げかけていた。
「降伏せよ! 降伏すれば罪は一切問わない。降伏せよ!」
このような主旨の勧告を、矢や投石の代わりに放ってくるのだ。事実、栒邑まで逃げ損ねて鄧禹に降伏した兵の姿を城壁近くで見せたりと、勧告に嘘がないことを示してもいる。
最初は馮愔の威は兵を押さえつけることができていた。
だが有効な手が打てないまま時間が過ぎていけば、鄧禹の心理攻撃も効果をもたらし、兵の不満に蓋をする重石も押し上げられてくる。
「いっそ突撃を仕掛けて包囲を突破し、赤眉にでも駆け込むか」
城主の部屋で押し黙ったままの馮愔に、黄防もそのような提案をする。黄防も馮愔よりは理知的だが、本来は謀将ではなく野戦の将軍である。このような状況で効果的な策など思いつけるはずもない。提案が消極的なものになるように、馮愔同様すでに精神的に追い詰められ始めていた。
だがこの策も成功率は低い。今の鄧禹軍の兵力は栒邑に立てこもった馮愔の兵を大きく上回り、包囲はほぼ完璧である。斬り破って突破するなど、よほどの幸運がなければ不可能だろう。
だがこのままでは馮愔も黄防も兵に殺されるか、そこまでいかずとも捕えられ、鄧禹の前へ引き出される。自信満々で叛旗を翻した結末がそれでは、屈辱の極みである。
兵への統率力が維持されているうちに、なんとかこの状況を覆す方法を見つけ出さなければならない。馮愔と黄防は焦慮とともにあがいていた。
だが、そのための時間がさらに削減される事態となった。
城壁の外に、新しい別種の敵があらわれたのだ。
「私は皇帝陛下より節をたまわり遣わされた宗尚書である。陛下は馮愔を捕えてきた者の罪は問わぬとの仰せだ。よいな、馮愔の身柄を拘束し、降伏せよ。さすれば罪には問わぬ!」
多数の兵に守られてのこととはいえ、宗広は自らの顔を見せるため、城壁近くまでやってきて大声で城内へ告げた。このあたり、文官といえど外交官として劉秀に信頼されている重臣である。乱世の使者らしく度胸もある。恐れげもなく二度、三度と同じように声をあげ、見えるかはわからないが節をかざしても見せた。
栒邑内には宗広の顔を見知っている者もいるであろうし、彼がしばしば劉秀の使者として交渉に派遣されている事実を覚えている者もいるであろう。
城壁上の兵の様子からそのことを確認すると、宗広は本陣へ戻っていった。
宗広の言うことは、一見、これまで鄧禹が何度も栒邑内へ向けて発していたものとあまり変わらないように見える。
だがその内容は巧妙で、狡猾ですらあった。
まず勧告をおこなったのが鄧禹ではなく節を持った宗広=皇帝である劉秀であるということ。
鄧禹の言が信じられないというわけではないが、それでもどれほど重臣であっても一臣下の言葉より、皇帝のそれの方が重いことは確かである。
またこの勧告に逆らうということは、皇帝の直接の命令に逆らう、つまり完全無欠の叛逆者になってしまうということでもある。
皇帝への謀叛は死をもって償うしかありえない。それも自分だけでなく一族郎党すべてに類が及ぶ可能性がある。
城内の兵たちは、さらに追いつめられたことになるのだ。
そしてもう一つ。馮愔の身柄を拘束してくれば許すという言がある。
配下にいる者が首謀者の首か身柄を持参して降伏するのは常道であり珍しいことではない。それゆえこれも一見なにも変わらないように見えるが、黄防の名を挙げていないことが狡猾だった。
劉秀だけでなく、鄧禹や宗広も、現状、栒邑城内で馮愔と黄防の間に重苦しい空気が流れているであろうことは予想できる。それが不和にまで発展しているかはわからないが、この勧告で相当に助長されるであろうことは確実である。
極端なところ、宗広の勧告は、黄防一人へ向けて発せられたものなのだ。
いわく「馮愔さえ捕えて降伏すればおぬしは許されるぞ」と。
それは「馮愔を捕えて降ってこなければ、おぬしも同罪として誅殺されるぞ」ということでもある。
そしてこの勧告の暗意は、黄防だけでなく馮愔にも伝わるはずである。
これで二人の間に不和が生じなければ、その方が不思議であった。
それから一週間後、馮愔は捕えられ、栒邑は開城した。
馮愔を捕えて降伏してきたのは、劉秀の予言通り、黄防であった。
「陛下並びに大司徒に対し、許されざる大罪を犯しました。詫びる言葉もございませぬ」
捕縛され、引き据えられた馮愔はもちろんだが、その隣で平伏する黄防も憔悴しきっていた。彼らにとってこの一月、ことに宗広の勧告があってからの一週間は、陰惨極まるものだったのだろう。
「案ずるな、おぬしらどちらも殺さぬ。陛下にまみえて罪に服せ」
敗残の身に無念からくる怒りと、殺されるかもしれないという恐れを二人に見て取った鄧禹が、かすかな労りを込めて告げると――馮愔はややいぶかしさをにじませたが――、彼らはあからさまな安堵を見せた。
事実、このあと馮愔は宗広に連行され、洛陽までおもむき、劉秀に対面したが、誅殺されることはなかった。遠征の間に膨張した増上慢も、護送される中でしぼみ、さらに劉秀に会ったことで本来の自分を取り戻せたのかもしれない。もしそうであれば、温情ある劉秀が彼を殺さなかったのもうなずける話である。
黄防がどうなったかはわからないが、降伏してきた以上罪には問われず、これまで同様劉秀の下で変わらず働いたのではないか。
こうして馮愔の叛乱は終息したが、この事件は二つの副産物を生んだ。
一つは鄧禹にも間接的――あるいは直接的にも関係することだったが、宗広に関することである。
彼の元に更始帝の重臣たちがこぞって降ってきたのだ。
史書にある名は、王匡、胡殷、成丹等となっているが、成丹についてはこの時点で死んでいたという記録もあるため定かではない。
この時期、更始帝は赤眉に降っていたため、自然、王匡らも赤眉の麾下に入っているのだが、敗残で新参の彼らが冷遇されていたであろうことは想像に難くない。また赤眉の長安での無道を見て――自分たちのことは棚に上げて――、彼らの将来を見限ったということもあるかもしれない。赤眉に比べれば劉秀の方がましだというわけである。
この時機での投降は、もしかすると宗広の存在もあったかもしれない。
この近辺で劉秀陣営の将軍といえば鄧禹になるが、王匡は安邑で彼と直接戦ったこともあり、降る相手としては不安を覚えていた可能性もある。しかし宗広であればその種の不安は無用であるし、彼の帰還についていけば、劉秀へ直接まみえることもできるだろう。
宗広としても更始帝の重臣を捕縛できたとなれば、君主(劉秀)への大きな手土産になる。宗広は馮愔とともに彼らも連れて洛陽へ向かった。
だが王匡らは劉秀に会うことはなかった。
河東郡を東進し、安邑近くまで達したところで、彼らは逃亡を図ったのだ。捕虜とはいえ自ら降ってきただけに、監視や拘束もさほど強いものではなかったのだろう。
逃走理由は定かではないが、彼らの行動原理は理より情を旨とする。
洛陽へ近づくにつれ、自分たちが劉秀の兄、劉縯を謀殺したことを思い出し、報復の恐怖を強めていったのかもしれない。
あるいはたとえ劉秀に降っても、赤眉のときと同様、冷遇されるであろう身が耐えられなかったのかもしれない。
劉秀の人品からすれば、赤眉のときよりはましな待遇を受ける可能性もあるが、一度は位人臣を極めた彼らにはそれすらも屈辱に感じられた可能性はある。
それとも最初から逃亡を画しての降伏だったのだろうか。
いずれにせよこの逃亡は失敗に終わり、再度捕えられた彼らは、宗広によって斬られた。
もう一つは鄧禹自身に関わることで、そして深刻な問題だった。
ここまで鄧禹は、過剰な負担に――無自覚に――耐えながらも結果を出してきた。それゆえ将も兵も民も彼についてきたのだが、馮愔の叛乱は鄧禹の無謬性に亀裂を生じさせたのだ。
馮愔は捕えられ事件は解決したため、まだ影響は表にあらわれていないが、将兵や民、そして彼に降った周辺の有力者たちも、彼の実力に不審を持ち始めている。
常の鄧禹ならこのような状況を察し、客観的に対処できるのだが、今の彼にその余裕はなかった。
そしてそんな自分を理解していないことが、状況をさらに悪化させる。
「よし、これでまた長安を目指せるぞ」
鄧禹の目は、一方は曇りつつも、一方は澄明なまま、再度南へ向いていた。
馮愔の威があるため、あからさまな不満や騒動は噴出していなかったが、そのぶん陰にこもった鬱々とした不満や後悔が兵の中に充満している。
それはそうだろう。馮愔の起こしたこの叛乱は、綿密な目算があってのことではなく、おのれの武に奢っての、いわば思いつきのものなのだ。それゆえ一つでもつまずきがあればそこで頓挫してしまい、あとはじり貧になるのも必然で、今現在がその状態なのである。
籠城開始時に馮愔が豪語した「援軍」は一向に現れず、城内の食糧を食い潰すだけの時間が過ぎてゆく。
実は馮愔は、自らが鄧禹を討ちにゆくのと別に、一軍を北西へ向けて発していた。鄧禹たちがいるのと別方向へ支配域を広げようとしていたのかもしれないが、これは当地の支配者である隗囂に撃退され、無用に兵を失っている。
これを聞いた鄧禹は、隗囂に符節を与え、西州大将軍に任命し、涼州朔方郡について専権を与えている。
馮愔は隗囂に助けを求めることもできなくなっていた。
包囲した鄧禹たちの攻撃も馮愔兵たちの心の消耗を煽っている。
攻撃というより口撃だろうか。前述のとおり鄧禹は馮愔の兵もなるべく損ないたくなかった。それゆえ包囲はしたが、本格的な攻撃は一切仕掛けなかった。だが包囲した兵たちに、常に城内へ大声を投げかけていた。
「降伏せよ! 降伏すれば罪は一切問わない。降伏せよ!」
このような主旨の勧告を、矢や投石の代わりに放ってくるのだ。事実、栒邑まで逃げ損ねて鄧禹に降伏した兵の姿を城壁近くで見せたりと、勧告に嘘がないことを示してもいる。
最初は馮愔の威は兵を押さえつけることができていた。
だが有効な手が打てないまま時間が過ぎていけば、鄧禹の心理攻撃も効果をもたらし、兵の不満に蓋をする重石も押し上げられてくる。
「いっそ突撃を仕掛けて包囲を突破し、赤眉にでも駆け込むか」
城主の部屋で押し黙ったままの馮愔に、黄防もそのような提案をする。黄防も馮愔よりは理知的だが、本来は謀将ではなく野戦の将軍である。このような状況で効果的な策など思いつけるはずもない。提案が消極的なものになるように、馮愔同様すでに精神的に追い詰められ始めていた。
だがこの策も成功率は低い。今の鄧禹軍の兵力は栒邑に立てこもった馮愔の兵を大きく上回り、包囲はほぼ完璧である。斬り破って突破するなど、よほどの幸運がなければ不可能だろう。
だがこのままでは馮愔も黄防も兵に殺されるか、そこまでいかずとも捕えられ、鄧禹の前へ引き出される。自信満々で叛旗を翻した結末がそれでは、屈辱の極みである。
兵への統率力が維持されているうちに、なんとかこの状況を覆す方法を見つけ出さなければならない。馮愔と黄防は焦慮とともにあがいていた。
だが、そのための時間がさらに削減される事態となった。
城壁の外に、新しい別種の敵があらわれたのだ。
「私は皇帝陛下より節をたまわり遣わされた宗尚書である。陛下は馮愔を捕えてきた者の罪は問わぬとの仰せだ。よいな、馮愔の身柄を拘束し、降伏せよ。さすれば罪には問わぬ!」
多数の兵に守られてのこととはいえ、宗広は自らの顔を見せるため、城壁近くまでやってきて大声で城内へ告げた。このあたり、文官といえど外交官として劉秀に信頼されている重臣である。乱世の使者らしく度胸もある。恐れげもなく二度、三度と同じように声をあげ、見えるかはわからないが節をかざしても見せた。
栒邑内には宗広の顔を見知っている者もいるであろうし、彼がしばしば劉秀の使者として交渉に派遣されている事実を覚えている者もいるであろう。
城壁上の兵の様子からそのことを確認すると、宗広は本陣へ戻っていった。
宗広の言うことは、一見、これまで鄧禹が何度も栒邑内へ向けて発していたものとあまり変わらないように見える。
だがその内容は巧妙で、狡猾ですらあった。
まず勧告をおこなったのが鄧禹ではなく節を持った宗広=皇帝である劉秀であるということ。
鄧禹の言が信じられないというわけではないが、それでもどれほど重臣であっても一臣下の言葉より、皇帝のそれの方が重いことは確かである。
またこの勧告に逆らうということは、皇帝の直接の命令に逆らう、つまり完全無欠の叛逆者になってしまうということでもある。
皇帝への謀叛は死をもって償うしかありえない。それも自分だけでなく一族郎党すべてに類が及ぶ可能性がある。
城内の兵たちは、さらに追いつめられたことになるのだ。
そしてもう一つ。馮愔の身柄を拘束してくれば許すという言がある。
配下にいる者が首謀者の首か身柄を持参して降伏するのは常道であり珍しいことではない。それゆえこれも一見なにも変わらないように見えるが、黄防の名を挙げていないことが狡猾だった。
劉秀だけでなく、鄧禹や宗広も、現状、栒邑城内で馮愔と黄防の間に重苦しい空気が流れているであろうことは予想できる。それが不和にまで発展しているかはわからないが、この勧告で相当に助長されるであろうことは確実である。
極端なところ、宗広の勧告は、黄防一人へ向けて発せられたものなのだ。
いわく「馮愔さえ捕えて降伏すればおぬしは許されるぞ」と。
それは「馮愔を捕えて降ってこなければ、おぬしも同罪として誅殺されるぞ」ということでもある。
そしてこの勧告の暗意は、黄防だけでなく馮愔にも伝わるはずである。
これで二人の間に不和が生じなければ、その方が不思議であった。
それから一週間後、馮愔は捕えられ、栒邑は開城した。
馮愔を捕えて降伏してきたのは、劉秀の予言通り、黄防であった。
「陛下並びに大司徒に対し、許されざる大罪を犯しました。詫びる言葉もございませぬ」
捕縛され、引き据えられた馮愔はもちろんだが、その隣で平伏する黄防も憔悴しきっていた。彼らにとってこの一月、ことに宗広の勧告があってからの一週間は、陰惨極まるものだったのだろう。
「案ずるな、おぬしらどちらも殺さぬ。陛下にまみえて罪に服せ」
敗残の身に無念からくる怒りと、殺されるかもしれないという恐れを二人に見て取った鄧禹が、かすかな労りを込めて告げると――馮愔はややいぶかしさをにじませたが――、彼らはあからさまな安堵を見せた。
事実、このあと馮愔は宗広に連行され、洛陽までおもむき、劉秀に対面したが、誅殺されることはなかった。遠征の間に膨張した増上慢も、護送される中でしぼみ、さらに劉秀に会ったことで本来の自分を取り戻せたのかもしれない。もしそうであれば、温情ある劉秀が彼を殺さなかったのもうなずける話である。
黄防がどうなったかはわからないが、降伏してきた以上罪には問われず、これまで同様劉秀の下で変わらず働いたのではないか。
こうして馮愔の叛乱は終息したが、この事件は二つの副産物を生んだ。
一つは鄧禹にも間接的――あるいは直接的にも関係することだったが、宗広に関することである。
彼の元に更始帝の重臣たちがこぞって降ってきたのだ。
史書にある名は、王匡、胡殷、成丹等となっているが、成丹についてはこの時点で死んでいたという記録もあるため定かではない。
この時期、更始帝は赤眉に降っていたため、自然、王匡らも赤眉の麾下に入っているのだが、敗残で新参の彼らが冷遇されていたであろうことは想像に難くない。また赤眉の長安での無道を見て――自分たちのことは棚に上げて――、彼らの将来を見限ったということもあるかもしれない。赤眉に比べれば劉秀の方がましだというわけである。
この時機での投降は、もしかすると宗広の存在もあったかもしれない。
この近辺で劉秀陣営の将軍といえば鄧禹になるが、王匡は安邑で彼と直接戦ったこともあり、降る相手としては不安を覚えていた可能性もある。しかし宗広であればその種の不安は無用であるし、彼の帰還についていけば、劉秀へ直接まみえることもできるだろう。
宗広としても更始帝の重臣を捕縛できたとなれば、君主(劉秀)への大きな手土産になる。宗広は馮愔とともに彼らも連れて洛陽へ向かった。
だが王匡らは劉秀に会うことはなかった。
河東郡を東進し、安邑近くまで達したところで、彼らは逃亡を図ったのだ。捕虜とはいえ自ら降ってきただけに、監視や拘束もさほど強いものではなかったのだろう。
逃走理由は定かではないが、彼らの行動原理は理より情を旨とする。
洛陽へ近づくにつれ、自分たちが劉秀の兄、劉縯を謀殺したことを思い出し、報復の恐怖を強めていったのかもしれない。
あるいはたとえ劉秀に降っても、赤眉のときと同様、冷遇されるであろう身が耐えられなかったのかもしれない。
劉秀の人品からすれば、赤眉のときよりはましな待遇を受ける可能性もあるが、一度は位人臣を極めた彼らにはそれすらも屈辱に感じられた可能性はある。
それとも最初から逃亡を画しての降伏だったのだろうか。
いずれにせよこの逃亡は失敗に終わり、再度捕えられた彼らは、宗広によって斬られた。
もう一つは鄧禹自身に関わることで、そして深刻な問題だった。
ここまで鄧禹は、過剰な負担に――無自覚に――耐えながらも結果を出してきた。それゆえ将も兵も民も彼についてきたのだが、馮愔の叛乱は鄧禹の無謬性に亀裂を生じさせたのだ。
馮愔は捕えられ事件は解決したため、まだ影響は表にあらわれていないが、将兵や民、そして彼に降った周辺の有力者たちも、彼の実力に不審を持ち始めている。
常の鄧禹ならこのような状況を察し、客観的に対処できるのだが、今の彼にその余裕はなかった。
そしてそんな自分を理解していないことが、状況をさらに悪化させる。
「よし、これでまた長安を目指せるぞ」
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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