鄧禹

橘誠治

文字の大きさ
上 下
50 / 81
第二章 長安編

北進

しおりを挟む
 さて、こうして鄧禹は左馮翊さひょうよくもほぼ勢力下に置き、長安へ向けて「南下」すればよいだけになった。それは彼の麾下にいる将兵の望むところであり、彼らの意識は南下へ向けてはやっていた。
 彼らは鄧禹へ詰め寄る。
「大司徒(鄧禹)、いよいよ長安を我らが手に」
「我らの勢力はすでに赤眉とも互せるほど。一気に長安を落とし、陛下へご来駕らいがいただきましょう」
 中でも馮愔ふういんは相当息巻いていた。もともと守りより攻めを得意とする将であり、樊崇亡き鄧禹軍において、彼の武功はかなりのものだった。あるいは長安への一番乗りを果たしさらなる武名を欲しているのかもしれない。長安奪取の勲功第一となれば、光武帝陣営でも相当幅を利かせられる。
 

 だが鄧禹は彼らの願望と進言に首を横に振った。
「ならぬ」
 静かな、しかし断固たる鄧禹の物言いに諸将はさらに詰め寄ろうとするが、彼らの主将はこれも静かに彼らを制した。
「確かに今の我が軍の数は多い。だがそのほとんどは流民であり、戦いをおこなえる者は少ない。また進む先に食糧が準備されているわけでもなく、後方から補給が届くわけでもない。それに比べて長安へ入ったばかりの赤眉は、財富は充実しており、戦意も鋭く、攻め込んでも容易に降すことはできないだろう」
 鄧禹軍の人数は、百万が誇張だとしても膨大と言えるほど急速に増えた。だが鄧禹自身が言うように全員が戦闘をおこなえる成年男子ばかりではない。むしろ庇護を求めて駆け込んできた女や子供、老人などの方が多いだろう。
 なにしろ赤眉はもちろんその他ほとんどの勢力は群盗同様の無法者ばかりで、彼らから搾取はしても守ってなどくれる存在などほぼ皆無だったのだ。そのように逃げ場がなかった弱者にとって鄧禹の存在は乾季の慈雨のようなもので、彼の元へ集まってくるのは当然と言えた。


 このように評判が広がり名声が高まることの価値を鄧禹は理解している。
 鄧禹の名声は主君である劉秀に対する信頼や忠誠へ直結する。民に「この国の皇帝は陛下(劉秀)こそがふさわしい」と思われることがどれほどに貴重か。
 それを理解している鄧禹は彼らが自らの元へ集まってくることを、推奨こそすれ拒否などしない。だが抱え込んだ彼らを食わせるのは、人数が増えれば増えるほど困難になる。いくら鄧禹の元が安全だと言っても、食が保障されなければ何の意味もない。
 また流れ込んできたのが戦いに堪える体力のある民だとしても、まったく訓練されていなければ戦いに使えるはずもなく、長安で充分に英気を養った赤眉へ対抗のしようがない。


 だからといって手立てがないわけではない。
「赤眉には将来を考える力がない。いくら財も食も豊富とはいえ、これから先起こるであろう様々な変転に対応できるとは思えない。それではいかに長安が堅固であっても守り切るなど不可能だ」 
 赤眉の最大の弱点は、現状を見極め、未来を透視し、そのために現在なにをすればよいかを指し示す智者がいないことだった。いや、あれだけの人数がいればそのような人材もいるはずなのだが、首脳陣がその貴重さや重要さを理解せず重用していないのだ。
 ゆえに長安で酒池肉林を繰り返し、食糧を食い潰してしまえば、赤眉は間違いなく弱体化する。そこを狙って攻め込めば、今長安へ突入するよりはるかに勝ちは得やすいだろう。


「ゆえに我らはひとまず北道を目指す」
 北道とは上郡、安定あんてい郡、北地ほくち郡の三郡を合わせた総称で、上郡はへい州、安定と北地はりょう州に属し、いずれも長安のある京兆尹けいちょういんの北に位置した。
 当然ながらせっかく肉迫した長安から離れることになるため諸将はどよめくが、鄧禹はそれを静めると説明を続けた。
「北道は土地も広く、家畜も多く、人も少なく、食糧も豊富だ。私はまずここに兵を置き、充分に休養を取らせながら赤眉の疲弊を待ちたいと思う。そして機を見て南下、長安を奪取する」
 涼州や并州はそれぞれ京兆尹が属す司隷の北に隣接する州だが、この戦乱により人口は激減していた。それは両州に限らず中華全体に言えることだが(総人口は推定で六千万から二千万へ減少)、戦闘に巻き込まれたり群盗に殺されただけでなく、戦乱によって助長された餓死や病死の影響も大きい。
 また土地の人口減少は死だけが因ではない。家や畑を焼かれて流民と化し故郷を離れなければならなかったり、食を求めて移動したり、生きるために近くの群雄に参加したりなど、様々な理由がある。


 それでも土地に残って田畑を耕したり、家畜を飼って暮らしている者がすべていなくなったわけではない。
 そして放置された土地は大所帯になった鄧禹の軍を容れる余地は充分にあった。
 鄧禹としてはそのような土地を接収し、自軍に取り込んだ流民を入植させてようと考えていたのだ。
 それにより流民の定住化を図り、自軍の補給を万全にし、新兵を訓練と実戦で鍛えつつ、赤眉の疲弊を待つ。あるいは別の勢力が長安を目指して侵攻をしてくる可能性もあるが、むしろそれこそが漁夫の利の好機。赤眉とその勢力が相争って疲弊したところに攻撃を仕掛け、名実ともに長安の主となるのだ。


 勢いに乗って長安を奪取してしまおうと息巻いていた諸将だったが、整然とした鄧禹の説明に理を見ると、揚がっていた意気を鎮静化させた。
 それを見た鄧禹はうなずくと、全軍へ向けて命令を発した。
「ではこれより北道を攻めるため、まずは栒邑じゅんゆうを奪取する」
 栒邑は司隷の北にある、涼州に隣接する城邑じょうゆうである。ここを根拠地にできれば、北道にも長安にも目が届き、あらゆる事態の変化に対応しやすい。
 諸将もそのことをすぐに理解すると、鄧禹へ拱手きょうしゅで応じた。
「御意」
 これにより鄧禹軍は一時長安から離れ、北進を始めた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

劉縯

橘誠治
歴史・時代
古代中国・後漢王朝の始祖、光武帝の兄・劉縯(りゅうえん)の短編小説です。 もともとは彼の方が皇帝に近い立場でしたが、様々な理由からそれはかなわず…それを正史『後漢書』に肉付けする形で描いていきたいと思っています。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。 歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。 上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。 ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。 そんな風に思いながら書いています。

瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦
歴史・時代
時は戦国時代。 舞台は北朔の国、燕。 燕は極北の国故に、他の国から野蛮人の国として誹りを受け続け、南東に位置する大国、斉からは朝貢を幾度なく要求され、屈辱に耐えながら国土を守り続けていた。 だが、嫡流から外れた庶子の一人でありながら、燕を大国へと変えた英雄王がいる。 姓名は姫平《きへい》。後の昭王《しょうおう》である。 燕国に伝わりし王の徴《しるし》と呼ばれる、宝剣【護国の剣】に選ばれた姫平は、国内に騒擾を齎し、王位を簒奪した奸臣子之《しし》から王位と国を奪り戻し、やがて宿敵である斉へと軍勢へ差し向け、無二の一戦に挑む。 史記に於いて語られることのなかった英雄王の前半生を描いた物語である。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...