鄧禹

橘誠治

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第二章 長安編

決戦直前

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 この夜、鄧禹は全力を挙げて負傷兵や敗残兵を収容し、彼らを治療、休養させることに専念した。
 また敵の夜襲に備えてかがり火を通常の倍かせたが、その危険はないだろうと鄧禹は見ている。
「それほど敵は疲れている」
 この日の戦闘のほとんどを鄧禹は後方の本陣から督戦していた。特に注視していたのは敵兵の動きである。もともと鈍かった敵兵の動きは時間が経つにつれさらに鈍化してゆき、帰るときには足を引きずるほどになっていた。あとで斥候に戦場や敵情を偵察させに行ったが、戦傷もないのに事切れている敵兵も散見されたとの報告もある。疲労でたおれ、二度と立ち上がれない者も多かったということだ。
 ゆえにかがり火は、万一、敵が夜襲を画策していた場合「これでは成功しない」と実行前に断念するようにとの示威の意味合いが強かったのだが、事実、この夜、敵襲はなかった。


 朝、日が昇ると、鄧禹は目を細めて敵陣を遠望した。
 遠目に見ているだけなので細かなところはわからないが、戦場に長くいる者には陣や兵の気炎というものは見えるものだ。
 王匡の陣営に気炎はまったく見えなかった。
 さらに常に発している斥候の報告によると、王匡軍に戦闘のための準備や緊張感は見て取れず、ひたすら休養に徹しているとのことで、「やはりそうか」と鄧禹を一安心させた。


 それは強行軍からの連戦の疲れを癒す意図もあるだろうが、やはり今日が癸亥きがいであることも大きな理由なのだろう。
 実はこの点、鄧禹陣営も変わらない。鄧禹兵も王匡兵も属する陣営がたまたま違うだけで、ほとんどは信心深いただの農民や流民がほとんどなのだ。彼らの神に対する畏怖を無視するのは、士気の維持に悪影響がありすぎた。そもそも鄧禹たち首脳陣も充分この時代の人間で、例外ではない。


「ではこちらも休養と再編を急げ。明日は決戦だぞ」
 兵数では負けているが、疲労の軽さと回復力の高さでは鄧禹軍に分がある。王匡にしてみれば癸亥を過ぎても休息を続け、可能な限り兵を回復させたいだろうが、それを待ってやる義務は鄧禹にはないのだ。
「とはいえ向こうもそのような余裕はないか」
 鄧禹は敵の事情も思い出す。もともと王匡らにしてみれば、赤眉が正敵せいてきで、鄧禹らはついでなのだ。
 ついで相手にいつまでも時間はかけていられない。さっさとこちらを片づけて長安に帰らなければ、いつ赤眉が本格的に攻めて来るかわかったものではない。


 またそれだけでなく敵には食糧等の補給物資の不安もあるはずだった。
 安邑を包囲している間、近辺の食糧等は鄧禹らが完全に統制していた。不必要に収穫や徴集をしていたわけではないが、鄧禹たちも大軍であり、相当量を集めたことは確かである。
 予想では安邑の食糧も長い籠城生活で不足がちになっており、そこへ王匡ら十万の兵がやってきたのだから、新参の大軍がどれだけ食糧を所持していたにしても万全というわけにはいかないだろう。
 保存技術が未熟なこの時代、食は現地調達が基本である。安邑兵もあわせて十余万の兵に充分な配給が可能かは怪しかった。


 このあたり鄧禹軍はまだ余裕がある。
 若い上に育ちがいいにも関わらず、鄧禹は食糧に関しては口が酸っぱくなるほど不足を戒め、管理を徹底させていたのである。
「いくら兵がいようと食べ物がなければ溶けてなくなる」
 戦乱を実際に生きている者としてだけでなく、知識として仕入れた歴史が鄧禹を強く律していた。
 鄧禹は鄧禹なりに、自らの未熟を他のもので補おうと必死だったのだ。


 そのようなわけでこの段階では王匡らにこそ余裕は少なかった。
「その余裕のなさにしっかりと付け込ませてもらおう」
 鄧禹の中で明日の戦いの像も見え始めていた。


 そしてさらに次の朝。両陣営はあらためて戦場に布陣した。
 双方に戦意はたぎっている。だがその質は微妙に違った。

 王匡陣営にはどこか焦燥が混じっていた。
 前述したように彼らにしてみれば、いつまでも鄧禹にかかずらってる余裕はない。一日でも早く決着をつけ、本来の敵へ集中したいのである。

 さらに兵の休養も十全ではなかった。彼らを完全に回復させるには一日では足りず、少なくとも数日、しかも充分な食糧があってこそなのだが、そのどちらも足りなかった。
 また仮に王匡らに兵を休ませる日数や食糧があったとしても、鄧禹がそんな時間を与えてくれるはずもない。より早く回復した鄧禹軍が攻撃を仕掛けてくれば、否も応もなく反撃しなければならないのだ。

 これら様々な事情から、王匡は短期決戦を望んでいた。これは前々日の戦いで鄧禹の長期戦に乗せられて、いたずらに兵を消耗させたことも一因となっている。
 鄧禹に守りを固めさせることなく、また固められたとしても一気に覆滅ふくめつさせてしまうため、王匡は開戦と同時に総攻撃をかけるつもりでいた。


 鄧禹軍の方は戦意に鋭気が内包していた。
 王匡軍が、いわゆる入れ込みすぎ、かかり気味の状態であるのに対し、鄧禹軍は充満した鋭気を自在に制御できる最高の状態と言ってよかった。
 これは兵の疲労をほぼ完全に回復できたことに加え、鄧禹の意を酌んだ各将が自兵に対し、明確な訓令を徹底した成果だが、それだけではない。ここにいる兵のほとんどが、もともと劉秀から与えられた精鋭であったこと、さらに数か月を河東侵攻、安邑包囲など、実戦の中で共に過ごしてきたことも大きかった。
 全体的に押され、樊崇を失ったことで大きく士気を下げたが、そこからの回復に、歴戦の精鋭としての真価を示してみせた彼らである。
「…よし」
 敵軍の戦意の質を遠望し、自軍の静かなる鋭気を感じ取った鄧禹は、この日の戦い方を決めた。


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