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第二章 長安編
さらなる誤算
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「長安から十数万の兵がこちらに向かっている!」
偵騎からその報を受けた鄧禹陣営は、雷電に打たれたような衝撃を受けた。
鄧禹も他の将たちも、樊参を撃破したことでもう更始陣営が安邑へ援軍を出すことはないと考えていたのだ。
「更始帝はこちらが考えている以上に安邑を重視していたようですな」
「いや、安邑にとどまらず、河東郡全域のことを考えているのかもしれませぬ」
韓欽や李文らの討議を聞きながら、鄧禹も様々に考えを巡らせていた。
樊参を討ち取ったこともだが、そもそも更始帝はもうこちらへ構っている余裕はないだろうと鄧禹は推察していた。
それはそうだろう。なにしろ更始帝の本拠地である長安まで、赤眉の大軍が目と鼻の先まで近づいているのだ。これ以上安邑へ兵を割く余裕など本来存在しないはずである。
それが再度の援軍、しかも十数万の大軍なのだから、驚くとともにあきれてしまう。
「やはり当事者でないだけに、真摯さが足りなかったかもしれぬな」
鄧禹は心中につぶやく。更始帝らは自分たちが考えている以上に精神的に追い詰められていたのだろう。もともと彼らの思考は広がりも柔軟さも持たない。それが赤眉に圧迫され、鄧禹につつかれ、より狭いものになってしまったのではないか。
特に片手間で叩き潰せるはずだった鄧禹に完敗したことが、彼らを逆上させた可能性はあった。
「若造にやられっぱなしでは体裁が悪いか」
先に安邑包囲軍を叩き、その上で赤眉に全力で対峙するという当初の戦略に固執する部分もあろうが、鄧禹の年齢に対するこだわりや悪感情も影響していないはずがない。鄧禹としては苦笑する思いだった。
だが今度は鄧禹も笑っている余裕はなかった。
十数万といえば鄧禹ひきいる遠征軍の五倍以上になる。この兵力差では、安邑の包囲を解き、全軍をもって迎え撃たなければならない。このまま安邑包囲を続けていれば、今度は鄧禹らが更始帝の援軍に包囲され、さらに安邑から出撃してくる楊宝の兵に挟撃される。全滅は必至だった。
だが敵援軍の到着前に包囲を解けば、安邑からも自由に兵を出し、援軍と合流して鄧禹と対峙できるということでもある。十数万+安邑兵と敵はさらに強大化することになるが、こればかりは仕方がない。
「安邑包囲を解き、適当な戦場において敵援軍を迎え撃つ」
軍議において鄧禹が告げた方針に、諸将も太い吐息とともにうなずくしかなかった。彼らとて状況はわかっているのだ。
「ではどこで長安の兵を迎え撃つか」
敵の方が圧倒的に数が多い以上、これも慎重に選別する必要があった。広い平原などは最悪で、できれば大軍を大軍として活かすことができない狭い山間などに誘い込めれば重畳である。
「それにより膠着状態へ引きずり込めれば、敵は撤退してゆくだろうからな」
再度の派兵は予想外だったが、更始陣営が赤眉に圧迫されている事実に変わりはない。こちらと対峙する時間が長くなればなるほど、長安を落とされる可能性は高くなる。そうなれば自分たちに構っている余裕はなくなり、早々に長安へ引き上げざるを得なくなるだろう。
鄧禹としてはそこに勝機を見出したい。援軍が撤退してしまえば、今度こそ安邑兵たちの心は折れて、落城するに違いないのだから。
危機を好機に変える方策を鄧禹は練り始めた。
が、更始陣営の援軍は、またしても鄧禹らの予想を越えてきた。
「もう郡境まで到達しただと!」
ありえない行軍速度だった。更始陣営の援軍は、すでに河東郡の郡境までたどり着いているというのだ。偵騎の報告は逐一届いているのだが、その内容が間違いではないかと思えるほどの強行軍である。
「敵将は王匡か」
「張卬もいるそうです」
偵騎の報告には軍をひきいる将の情報も入っていたが、その名に樊崇や宗欽らも表情を硬くする。王匡や張卬は将器や将才はともかく、更始陣営の重鎮であり、彼らがひきいてきている以上敵も本気であると、より実感させられたのである。
その意思はこの強行軍からも見て取れる。とにかくここのところ更始陣営は負けっぱなしなのだ。敗北や統治の杜撰さから人心も離れ始めている。
彼らには、勝利が絶対に必要だったのだ。
なんにせよ、王匡らが意図したかどうかは別にして、鄧禹らは機先を制された形になった。
「仕方ありません。急ぎ安邑の包囲を解き、迎撃のための陣を敷きましょう」
「ですがまだ陣を敷くべき戦場を見つけておりません」
「それも仕方ありません。このままでは王匡らに包囲されるだけで、それは避けねばなりませんから」
鄧禹も不本意だが、完璧を期してすべてを失うよりは、不完全でも戦える形を作らないことには話にならない。鄧禹は韓欽の進言に答え、彼の軍師もそれ以上何も言えなかった。
鄧禹らはその日のうちに安邑の包囲を解き、東へ移動すると、十数万の兵が展開するにはやや狭く、数万の兵が布陣するには適当な地に軍を収めた。
「本来ならもっと狭い土地がよかったのだが。ここでは王匡らの兵を完全に死蔵させることはかないませんからな」
樊崇が腕を組みながら言うことに、鄧禹は無言で応じた。これ以上「仕方ない」という言葉を口にしたくなかったのである。
王匡らは強行軍を続け、次の日には安邑近くまで到達していた。まさに危機一髪で、ここは鄧禹たちの諜報力の勝利だった。
しかしこれから先は不利が続く。王匡は安邑から出撃してきた楊宝の兵も加え、さらなる大軍となり、鄧禹たちが待ち受ける戦場へ近づいてきた。
「先手を打ちましょう」
樊崇が進言してきた。彼も独自に偵騎を放ち、更始軍の様子を調べていたのだが、やはり強行軍が続いたことで兵の疲労が見て取れるというのだ。確かに敵は大軍であるが、本来の力を発揮できない状態なら充分戦える。だが休息の時間を与えれば回復してしまうだろう。
「私も驍騎将軍と同意見です」
「私も」
「私もです」
別の案も様々に考えていた鄧禹だが決定的な物は浮かばず、また諸将も樊崇と同じ考えのようで、それなら将兵の士気に賭けようという結論になった。
「わかりました。それでは実戦指揮は驍騎将軍に任せます。全軍、準備が完了次第、出撃!」
「御意!」
鄧禹の出撃命令に、諸将は一斉に立ち上がった。
王匡らは追いつめられていた。それは鄧禹が想像した以上にである。
赤眉に長安へ迫られるだけでなく、各地の豪族の中には更始帝から離反・独立する者もあらわれていた。
それどころか更始帝の側近の中ですら、主君を見限ろうとする陰謀もうごめいていたのだ。
それら細かな証左を更始帝が持っていたわけではないが、小心な人間の不安は容易に疑心暗鬼に転化する。彼の疑心が粛清として表面化するまで、あともう少しであろう。
それを避けるためにも、王匡らは絶対に負けるわけにいかなかったのだ。
「鄧禹の孺子を必ずここで葬る。必ずここで屠る!」
王匡は軍議の場でも、将兵へ対する演説でも、同じ怒号を発した。
この戦いに勝ったからといって、今の更始陣営の状況が一気に好転するわけではない。だがここで鄧禹を一撃のもとに叩き潰せば、勢いができる。その勢いに乗って赤眉を破り、あらためて地歩を固めなおせば、まだまだ更始帝の天下は続けられるはずだった。王匡はその考えにしがみついていたのだ。
実際は鄧禹や赤眉に限らず、他のすべての敵に勝利できたとしても、まっとうな政がおこなわれなければ、叛乱勢力は雨後の筍のように湧き続けて来るのだが、学も自覚もない彼らにその認識はなかった。
だがとにかく王匡らのこの一戦に賭ける執念は尋常ではなかった。それは将だけでなく、兵にもあまねく染み渡り、強行軍の疲れはあっても彼らの気力は萎えていなかった。
偵騎からその報を受けた鄧禹陣営は、雷電に打たれたような衝撃を受けた。
鄧禹も他の将たちも、樊参を撃破したことでもう更始陣営が安邑へ援軍を出すことはないと考えていたのだ。
「更始帝はこちらが考えている以上に安邑を重視していたようですな」
「いや、安邑にとどまらず、河東郡全域のことを考えているのかもしれませぬ」
韓欽や李文らの討議を聞きながら、鄧禹も様々に考えを巡らせていた。
樊参を討ち取ったこともだが、そもそも更始帝はもうこちらへ構っている余裕はないだろうと鄧禹は推察していた。
それはそうだろう。なにしろ更始帝の本拠地である長安まで、赤眉の大軍が目と鼻の先まで近づいているのだ。これ以上安邑へ兵を割く余裕など本来存在しないはずである。
それが再度の援軍、しかも十数万の大軍なのだから、驚くとともにあきれてしまう。
「やはり当事者でないだけに、真摯さが足りなかったかもしれぬな」
鄧禹は心中につぶやく。更始帝らは自分たちが考えている以上に精神的に追い詰められていたのだろう。もともと彼らの思考は広がりも柔軟さも持たない。それが赤眉に圧迫され、鄧禹につつかれ、より狭いものになってしまったのではないか。
特に片手間で叩き潰せるはずだった鄧禹に完敗したことが、彼らを逆上させた可能性はあった。
「若造にやられっぱなしでは体裁が悪いか」
先に安邑包囲軍を叩き、その上で赤眉に全力で対峙するという当初の戦略に固執する部分もあろうが、鄧禹の年齢に対するこだわりや悪感情も影響していないはずがない。鄧禹としては苦笑する思いだった。
だが今度は鄧禹も笑っている余裕はなかった。
十数万といえば鄧禹ひきいる遠征軍の五倍以上になる。この兵力差では、安邑の包囲を解き、全軍をもって迎え撃たなければならない。このまま安邑包囲を続けていれば、今度は鄧禹らが更始帝の援軍に包囲され、さらに安邑から出撃してくる楊宝の兵に挟撃される。全滅は必至だった。
だが敵援軍の到着前に包囲を解けば、安邑からも自由に兵を出し、援軍と合流して鄧禹と対峙できるということでもある。十数万+安邑兵と敵はさらに強大化することになるが、こればかりは仕方がない。
「安邑包囲を解き、適当な戦場において敵援軍を迎え撃つ」
軍議において鄧禹が告げた方針に、諸将も太い吐息とともにうなずくしかなかった。彼らとて状況はわかっているのだ。
「ではどこで長安の兵を迎え撃つか」
敵の方が圧倒的に数が多い以上、これも慎重に選別する必要があった。広い平原などは最悪で、できれば大軍を大軍として活かすことができない狭い山間などに誘い込めれば重畳である。
「それにより膠着状態へ引きずり込めれば、敵は撤退してゆくだろうからな」
再度の派兵は予想外だったが、更始陣営が赤眉に圧迫されている事実に変わりはない。こちらと対峙する時間が長くなればなるほど、長安を落とされる可能性は高くなる。そうなれば自分たちに構っている余裕はなくなり、早々に長安へ引き上げざるを得なくなるだろう。
鄧禹としてはそこに勝機を見出したい。援軍が撤退してしまえば、今度こそ安邑兵たちの心は折れて、落城するに違いないのだから。
危機を好機に変える方策を鄧禹は練り始めた。
が、更始陣営の援軍は、またしても鄧禹らの予想を越えてきた。
「もう郡境まで到達しただと!」
ありえない行軍速度だった。更始陣営の援軍は、すでに河東郡の郡境までたどり着いているというのだ。偵騎の報告は逐一届いているのだが、その内容が間違いではないかと思えるほどの強行軍である。
「敵将は王匡か」
「張卬もいるそうです」
偵騎の報告には軍をひきいる将の情報も入っていたが、その名に樊崇や宗欽らも表情を硬くする。王匡や張卬は将器や将才はともかく、更始陣営の重鎮であり、彼らがひきいてきている以上敵も本気であると、より実感させられたのである。
その意思はこの強行軍からも見て取れる。とにかくここのところ更始陣営は負けっぱなしなのだ。敗北や統治の杜撰さから人心も離れ始めている。
彼らには、勝利が絶対に必要だったのだ。
なんにせよ、王匡らが意図したかどうかは別にして、鄧禹らは機先を制された形になった。
「仕方ありません。急ぎ安邑の包囲を解き、迎撃のための陣を敷きましょう」
「ですがまだ陣を敷くべき戦場を見つけておりません」
「それも仕方ありません。このままでは王匡らに包囲されるだけで、それは避けねばなりませんから」
鄧禹も不本意だが、完璧を期してすべてを失うよりは、不完全でも戦える形を作らないことには話にならない。鄧禹は韓欽の進言に答え、彼の軍師もそれ以上何も言えなかった。
鄧禹らはその日のうちに安邑の包囲を解き、東へ移動すると、十数万の兵が展開するにはやや狭く、数万の兵が布陣するには適当な地に軍を収めた。
「本来ならもっと狭い土地がよかったのだが。ここでは王匡らの兵を完全に死蔵させることはかないませんからな」
樊崇が腕を組みながら言うことに、鄧禹は無言で応じた。これ以上「仕方ない」という言葉を口にしたくなかったのである。
王匡らは強行軍を続け、次の日には安邑近くまで到達していた。まさに危機一髪で、ここは鄧禹たちの諜報力の勝利だった。
しかしこれから先は不利が続く。王匡は安邑から出撃してきた楊宝の兵も加え、さらなる大軍となり、鄧禹たちが待ち受ける戦場へ近づいてきた。
「先手を打ちましょう」
樊崇が進言してきた。彼も独自に偵騎を放ち、更始軍の様子を調べていたのだが、やはり強行軍が続いたことで兵の疲労が見て取れるというのだ。確かに敵は大軍であるが、本来の力を発揮できない状態なら充分戦える。だが休息の時間を与えれば回復してしまうだろう。
「私も驍騎将軍と同意見です」
「私も」
「私もです」
別の案も様々に考えていた鄧禹だが決定的な物は浮かばず、また諸将も樊崇と同じ考えのようで、それなら将兵の士気に賭けようという結論になった。
「わかりました。それでは実戦指揮は驍騎将軍に任せます。全軍、準備が完了次第、出撃!」
「御意!」
鄧禹の出撃命令に、諸将は一斉に立ち上がった。
王匡らは追いつめられていた。それは鄧禹が想像した以上にである。
赤眉に長安へ迫られるだけでなく、各地の豪族の中には更始帝から離反・独立する者もあらわれていた。
それどころか更始帝の側近の中ですら、主君を見限ろうとする陰謀もうごめいていたのだ。
それら細かな証左を更始帝が持っていたわけではないが、小心な人間の不安は容易に疑心暗鬼に転化する。彼の疑心が粛清として表面化するまで、あともう少しであろう。
それを避けるためにも、王匡らは絶対に負けるわけにいかなかったのだ。
「鄧禹の孺子を必ずここで葬る。必ずここで屠る!」
王匡は軍議の場でも、将兵へ対する演説でも、同じ怒号を発した。
この戦いに勝ったからといって、今の更始陣営の状況が一気に好転するわけではない。だがここで鄧禹を一撃のもとに叩き潰せば、勢いができる。その勢いに乗って赤眉を破り、あらためて地歩を固めなおせば、まだまだ更始帝の天下は続けられるはずだった。王匡はその考えにしがみついていたのだ。
実際は鄧禹や赤眉に限らず、他のすべての敵に勝利できたとしても、まっとうな政がおこなわれなければ、叛乱勢力は雨後の筍のように湧き続けて来るのだが、学も自覚もない彼らにその認識はなかった。
だがとにかく王匡らのこの一戦に賭ける執念は尋常ではなかった。それは将だけでなく、兵にもあまねく染み渡り、強行軍の疲れはあっても彼らの気力は萎えていなかった。
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