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第二章 長安編
河東郡侵攻
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更始三年(西暦25)正月。
箕関へたどり着いた鄧禹は、関を守る都尉(郡の軍事担当官)へ使者を送った。
「蕭王殿下の命により軍を進めるものである。開門を請う」
が、都尉からの返答はにべもないものだった。
「長安よりそのような指令は届いておらぬ。今一度陛下のご意向を確認するゆえ、しばし待たれよ」
この返答に韓欽は難しい顔をして腕を組んだ。
「難物ですな」
その言に鄧禹も同じような表情でうなずく。
「そうですね。それにやはり我らはすでに皇帝らからは敵と見なされているようです」
鄧禹が使者に伝えさせた言葉には、嘘は入っていないが欺瞞もこめられていた。
まず蕭王(劉秀)の命令というのに嘘はないが、それが彼の上位者である更始帝のものとは言っていない。だが凡人であればそのようなことまで気は回らず、「蕭王の命令=皇帝も承認済みの命令」と考え、一も二もなく門を開いてしまうだろう。
だが都尉は、そのあたりの矛盾を突いてきただけでなく、鄧禹らを足止めする意図まで示してきた。
実は鄧禹らは、門が開けば兵を突入させ、そのまま箕関を占拠してしまおうと考えていたのだが、その「だまし討ち」は完全に阻止されてしまった。
これが都尉の機転によるなら彼個人の有能さを誉めるしかないが、おそらく劉秀陣営を危険視する考えがすでに更始陣営に行き渡っているのだろう。更始帝の召還命令に逆らった以上、更始帝と劉秀は潜在的な敵同士になったと見ていい。都尉のこの処置はそれがついに表面に現れたということであった。
「であるなら仕方ありません。行動により宣戦いたしましょう。樊将軍へ箕関を攻めるよう指示を出してください」
「御意」
少しでも兵と時間の浪費を減らし箕関を突破したかった鄧禹だが、こうなれば腹を決めるしかない。更始陣営との本格的な戦闘を開始する意思も込めて、攻撃開始を命令した。
結局鄧禹軍は箕関を十日で攻め落とし、輜重千余乗を得た。
「では安邑へ」
戦後処理を終えた鄧禹は、次の攻略地を示した。これも最初からの予定だが、安邑は河東郡の郡治(郡庁所在地)である。十日やそこらで落とせるような街でないことは、軍の全員が覚悟していた。
安邑を攻めるのは既定路線というより、この遠征における必須条件だった。郡治を攻め落とすということは、その郡の中枢を手に入れるということであり、それを元に適切な支配をおこなえば、郡全体を自らのものにできるのだ。そこまでうまくゆかずとも、安邑を中心に河東郡の一部を支配下に置くことは絶対に必要だった。もし安邑を放置し、河東郡を更始陣営の勢力圏にしたまま西進を続ければ、遠征軍は後背を討たれて長安侵攻どころではなくなってしまう。
また河東郡は北州と隣接しているため、そこを手に入れられれば劉秀の北州攻略にも大いに役立つことだろう。それは実質的な意味だけでなく、河内郡に続き司隷(首都圏)の一郡を手に入れたという宣伝効果も期待できるのだ。
鄧禹軍は安邑を包囲した。
「まともにやっていては一年はかかりましょうな。それもすべてうまくいってです」
包囲を終え、安邑の城壁等を確認した樊崇は、首脳陣を集めた軍議で腕を組みつつ難しい顔で断言した。
これはむしろ常識的な意見である。城を一つ落とすのに一年以上、場合によっては数年をかけるなど珍しいことではない。だが安邑攻略が最終目的ならともかく、彼らの真の狙いは長安奪取である。それも更始帝と赤眉の争いにつけ込むことが前提である以上、あまり時間はかけていられない。が、現状、安邑に隙はなく、鄧禹らも正攻法以外では攻めようがなかった。
「ひとまずそれで構いません。攻撃を繰り返しているうち攻めどころも見えてきましょう。それに情勢の変化が戦況に大きく関わっても来ます。常に偵騎を放ち、長安や赤眉の状況確認を忘れずに」
樊崇の判断は予想されていたことなので、鄧禹は焦りもせずうなずく。鄧禹としては安邑攻略を樊崇に一任し、自らは司隷全土の状況とその変化を可能な限り調べることに専念するつもりだった。
状況・情勢の変化は必ず起こる。それにいかに的確に対応し利用することができるか。そのために情報収集は最も大切なことだった。
一月が過ぎた。安邑攻略はまだ続いている。
樊崇は、時に激しく、時に静かに攻め、鄧禹と相談して城内へ反間も仕掛けてみたが、崩れる兆しも見せない。
「さすがに一月かそこらでは小動もしませんな」
「まだ城内の士気も落ちておりませぬし、食糧も充分でしょう。なにより援軍の当てがありますから」
韓欽は、後方から樊崇の指揮を監督しつつやや太い息をつき、鄧禹も同意してうなずく。樊崇の攻略にそつはなく、まだ表面にはあらわれていないが確実に安邑城内へ損害を与えているだろう。
それが顕在化するのはいつか。安邑城内にいる河東太守・楊宝の指揮に破綻は見えない。
「そう言いつつ前将軍は落ち着いておられますな。何か策がおありか」
息子のような年齢の鄧禹へ韓欽が礼節を欠かさないのは、彼の気質や培ってきた秩序感覚によるところが大きいが、この一月の経験も大きかった。鄧禹は策戦その他について、意識して韓欽と相談するように心がけ、その際も尊大にならず、韓欽の自尊心を傷つけないよう気を配ってきた。一度などその腰の低さに韓欽自身から「前将軍としてのお立場をお考えなさい」と苦言を呈されたほどである。
といえ、鄧禹は韓欽の言いなりになっているわけではない。それどころか鄧禹の見識の高さは韓欽も舌を巻くほどで、討議も無駄に感情的にならず有益なものになることが多く、なにより判断と決断は自らおこない、韓欽らに責任を押し付けることがなかった。若いながらも総大将としての重責から逃げることのない鄧禹に、韓欽の感情は自然となだらかなものとなっている。
「策などはありませぬが、いささか虫の良いことは考えているかもしれませぬ。ですがそれは危険が大きいですし、なにより状況が動かなければどうしようもありません。ゆえに今はただ安邑を落とすことに専念するのみ。これで落とせればそれはそれで充分にやりようがありますゆえ。それよりまたこちらをご一読の上ご署名いただけないでしょうか、軍師よ」
鄧禹はそれ以上深く語らず、話題を変えるように韓欽へ一つの書状を差し出した。
「蕭王殿下への報告書ですか。まめですな、前将軍も」
受け取った韓欽は内容を見て微苦笑した。それは現状を書き記した劉秀への報告書で、鄧禹はこれを毎週、時には数日ごとに送っていたのだ。それも必ず韓欽との連名で。
悪いことではないし、秩序や筋を貴ぶ韓欽にしてみれば推奨したいほどなのだが、戦況に変化が乏しいにも関わらず、鄧禹があまりに頻繁に文を送付するため、さすがにわずかに苦笑を漏らしたのである。
それに対し鄧禹は何も言わず曖昧な表情を返したが、彼にとってこれは必要な処置だった。
現状、一般的に見れば、実は鄧禹はかなり危険な立場にある。戦場の将軍としてではなく一臣下の立場として。
鄧禹が劉秀から分け与えられた兵はあまりに多かった。劉秀に叛し、独立して一勢力を作れるほどである。
劉秀がこれだけの兵を鄧禹へ割譲したのは、彼の能力だけでなく人格を信じたゆえだったが、臣下の叛乱は主君にとって永遠の悪夢である。それは劉秀ほどの大器でも無自覚ながら潜在的に感じているはずで、鄧禹は主君の心理的負担を減らすためにまめな報告を欠かさなかったのだ。
またこれは劉秀の周辺に対する牽制でもある。叛乱が主君にとっての悪夢なら、同僚の台頭は臣下にとっての悪夢である。劉秀の周りには優秀な男が多いが、その分癖の強い者も多い。中には同僚の武勲を妬み、「前将軍に叛意あり」と讒言を吹き込む者もいるかもしれず、最悪の場合、それにより劉秀が鄧禹に疑念を持つ恐れもあった。
鄧禹は劉秀の器量や人格を信頼しきっているが、彼も人である以上絶対はありえないとわきまえてもいる。
報告書を記すつど韓欽に署名を頼む理由はこれだった。もし鄧禹一人の報告書であれば内容の虚偽を疑われる恐れもあるが、実直第一の韓欽の名があればそれはありえない。讒言者も劉秀から「韓欽も署名しておるくらいだ。安心せい」となだめられれば沈黙するしかないだろうし、劉秀自身も鄧禹への信頼を厚くするに違いない。
鄧禹の意識は東西南北あらゆる方向へ伸びているのだった。
箕関へたどり着いた鄧禹は、関を守る都尉(郡の軍事担当官)へ使者を送った。
「蕭王殿下の命により軍を進めるものである。開門を請う」
が、都尉からの返答はにべもないものだった。
「長安よりそのような指令は届いておらぬ。今一度陛下のご意向を確認するゆえ、しばし待たれよ」
この返答に韓欽は難しい顔をして腕を組んだ。
「難物ですな」
その言に鄧禹も同じような表情でうなずく。
「そうですね。それにやはり我らはすでに皇帝らからは敵と見なされているようです」
鄧禹が使者に伝えさせた言葉には、嘘は入っていないが欺瞞もこめられていた。
まず蕭王(劉秀)の命令というのに嘘はないが、それが彼の上位者である更始帝のものとは言っていない。だが凡人であればそのようなことまで気は回らず、「蕭王の命令=皇帝も承認済みの命令」と考え、一も二もなく門を開いてしまうだろう。
だが都尉は、そのあたりの矛盾を突いてきただけでなく、鄧禹らを足止めする意図まで示してきた。
実は鄧禹らは、門が開けば兵を突入させ、そのまま箕関を占拠してしまおうと考えていたのだが、その「だまし討ち」は完全に阻止されてしまった。
これが都尉の機転によるなら彼個人の有能さを誉めるしかないが、おそらく劉秀陣営を危険視する考えがすでに更始陣営に行き渡っているのだろう。更始帝の召還命令に逆らった以上、更始帝と劉秀は潜在的な敵同士になったと見ていい。都尉のこの処置はそれがついに表面に現れたということであった。
「であるなら仕方ありません。行動により宣戦いたしましょう。樊将軍へ箕関を攻めるよう指示を出してください」
「御意」
少しでも兵と時間の浪費を減らし箕関を突破したかった鄧禹だが、こうなれば腹を決めるしかない。更始陣営との本格的な戦闘を開始する意思も込めて、攻撃開始を命令した。
結局鄧禹軍は箕関を十日で攻め落とし、輜重千余乗を得た。
「では安邑へ」
戦後処理を終えた鄧禹は、次の攻略地を示した。これも最初からの予定だが、安邑は河東郡の郡治(郡庁所在地)である。十日やそこらで落とせるような街でないことは、軍の全員が覚悟していた。
安邑を攻めるのは既定路線というより、この遠征における必須条件だった。郡治を攻め落とすということは、その郡の中枢を手に入れるということであり、それを元に適切な支配をおこなえば、郡全体を自らのものにできるのだ。そこまでうまくゆかずとも、安邑を中心に河東郡の一部を支配下に置くことは絶対に必要だった。もし安邑を放置し、河東郡を更始陣営の勢力圏にしたまま西進を続ければ、遠征軍は後背を討たれて長安侵攻どころではなくなってしまう。
また河東郡は北州と隣接しているため、そこを手に入れられれば劉秀の北州攻略にも大いに役立つことだろう。それは実質的な意味だけでなく、河内郡に続き司隷(首都圏)の一郡を手に入れたという宣伝効果も期待できるのだ。
鄧禹軍は安邑を包囲した。
「まともにやっていては一年はかかりましょうな。それもすべてうまくいってです」
包囲を終え、安邑の城壁等を確認した樊崇は、首脳陣を集めた軍議で腕を組みつつ難しい顔で断言した。
これはむしろ常識的な意見である。城を一つ落とすのに一年以上、場合によっては数年をかけるなど珍しいことではない。だが安邑攻略が最終目的ならともかく、彼らの真の狙いは長安奪取である。それも更始帝と赤眉の争いにつけ込むことが前提である以上、あまり時間はかけていられない。が、現状、安邑に隙はなく、鄧禹らも正攻法以外では攻めようがなかった。
「ひとまずそれで構いません。攻撃を繰り返しているうち攻めどころも見えてきましょう。それに情勢の変化が戦況に大きく関わっても来ます。常に偵騎を放ち、長安や赤眉の状況確認を忘れずに」
樊崇の判断は予想されていたことなので、鄧禹は焦りもせずうなずく。鄧禹としては安邑攻略を樊崇に一任し、自らは司隷全土の状況とその変化を可能な限り調べることに専念するつもりだった。
状況・情勢の変化は必ず起こる。それにいかに的確に対応し利用することができるか。そのために情報収集は最も大切なことだった。
一月が過ぎた。安邑攻略はまだ続いている。
樊崇は、時に激しく、時に静かに攻め、鄧禹と相談して城内へ反間も仕掛けてみたが、崩れる兆しも見せない。
「さすがに一月かそこらでは小動もしませんな」
「まだ城内の士気も落ちておりませぬし、食糧も充分でしょう。なにより援軍の当てがありますから」
韓欽は、後方から樊崇の指揮を監督しつつやや太い息をつき、鄧禹も同意してうなずく。樊崇の攻略にそつはなく、まだ表面にはあらわれていないが確実に安邑城内へ損害を与えているだろう。
それが顕在化するのはいつか。安邑城内にいる河東太守・楊宝の指揮に破綻は見えない。
「そう言いつつ前将軍は落ち着いておられますな。何か策がおありか」
息子のような年齢の鄧禹へ韓欽が礼節を欠かさないのは、彼の気質や培ってきた秩序感覚によるところが大きいが、この一月の経験も大きかった。鄧禹は策戦その他について、意識して韓欽と相談するように心がけ、その際も尊大にならず、韓欽の自尊心を傷つけないよう気を配ってきた。一度などその腰の低さに韓欽自身から「前将軍としてのお立場をお考えなさい」と苦言を呈されたほどである。
といえ、鄧禹は韓欽の言いなりになっているわけではない。それどころか鄧禹の見識の高さは韓欽も舌を巻くほどで、討議も無駄に感情的にならず有益なものになることが多く、なにより判断と決断は自らおこない、韓欽らに責任を押し付けることがなかった。若いながらも総大将としての重責から逃げることのない鄧禹に、韓欽の感情は自然となだらかなものとなっている。
「策などはありませぬが、いささか虫の良いことは考えているかもしれませぬ。ですがそれは危険が大きいですし、なにより状況が動かなければどうしようもありません。ゆえに今はただ安邑を落とすことに専念するのみ。これで落とせればそれはそれで充分にやりようがありますゆえ。それよりまたこちらをご一読の上ご署名いただけないでしょうか、軍師よ」
鄧禹はそれ以上深く語らず、話題を変えるように韓欽へ一つの書状を差し出した。
「蕭王殿下への報告書ですか。まめですな、前将軍も」
受け取った韓欽は内容を見て微苦笑した。それは現状を書き記した劉秀への報告書で、鄧禹はこれを毎週、時には数日ごとに送っていたのだ。それも必ず韓欽との連名で。
悪いことではないし、秩序や筋を貴ぶ韓欽にしてみれば推奨したいほどなのだが、戦況に変化が乏しいにも関わらず、鄧禹があまりに頻繁に文を送付するため、さすがにわずかに苦笑を漏らしたのである。
それに対し鄧禹は何も言わず曖昧な表情を返したが、彼にとってこれは必要な処置だった。
現状、一般的に見れば、実は鄧禹はかなり危険な立場にある。戦場の将軍としてではなく一臣下の立場として。
鄧禹が劉秀から分け与えられた兵はあまりに多かった。劉秀に叛し、独立して一勢力を作れるほどである。
劉秀がこれだけの兵を鄧禹へ割譲したのは、彼の能力だけでなく人格を信じたゆえだったが、臣下の叛乱は主君にとって永遠の悪夢である。それは劉秀ほどの大器でも無自覚ながら潜在的に感じているはずで、鄧禹は主君の心理的負担を減らすためにまめな報告を欠かさなかったのだ。
またこれは劉秀の周辺に対する牽制でもある。叛乱が主君にとっての悪夢なら、同僚の台頭は臣下にとっての悪夢である。劉秀の周りには優秀な男が多いが、その分癖の強い者も多い。中には同僚の武勲を妬み、「前将軍に叛意あり」と讒言を吹き込む者もいるかもしれず、最悪の場合、それにより劉秀が鄧禹に疑念を持つ恐れもあった。
鄧禹は劉秀の器量や人格を信頼しきっているが、彼も人である以上絶対はありえないとわきまえてもいる。
報告書を記すつど韓欽に署名を頼む理由はこれだった。もし鄧禹一人の報告書であれば内容の虚偽を疑われる恐れもあるが、実直第一の韓欽の名があればそれはありえない。讒言者も劉秀から「韓欽も署名しておるくらいだ。安心せい」となだめられれば沈黙するしかないだろうし、劉秀自身も鄧禹への信頼を厚くするに違いない。
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【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
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