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第二章 長安編
展望
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劉秀の北州平定は困難な事業だったが、二つの特筆すべき事柄が重大な転機となった。
一つは河内郡を手に入れたことである。
河内は司隷(首都圏)に属す郡で、北州に隣接している。
司隷はもともと人口も多く、産業や経済も発達しており、河内もその例に漏れない。広い敵地を転戦する場合、不足する食糧、武器、兵などが絶えず供給されればどれほど有利に戦いを進めることができるか。
河内郡はその任に堪えるだけの力があり、つまり劉秀は北州で戦うにおいて巨大な後方基地を得たことになるのだ。前漢の高祖・劉邦が楚漢争覇戦で最終的に項羽に勝つことができた大きな理由の一つは、丞相・蕭何が本拠地の関中から劉邦への補給をとどこおらせなかったことにあり、それを知る劉秀にとって河内郡の存在は北州攻略の決定打と言っても過言ではなかったのである。
だがそれほどの要地だけに、やはり難点も多々あった。
司隷は今現在、更始帝の支配下にある。そして河内郡の南にある河南尹には洛陽という大都があり、そこには更始帝の大司馬である朱鮪が駐屯していた。またその他にも隣接する并州(北州の一州)から、いつ敵に攻め込まれてもおかしくはない状況で、これら周辺の脅威から河内郡を守りつつ、また郡内の政を正常に経営し、劉秀の求めに応じて補給物資を送り続けることは至難であり、誰にでもできるというものではなかった。
「河内太守には誰がよいと思う」
一日、劉秀は鄧禹に尋ねたが、彼は考えるそぶりも見せず、からりと答えた。
「子翼(寇恂)どのがよろしいでしょう」
鄧禹にしてみれば迷う必要すらなかった。河内統治は、その重要性を理解し、重責に耐える政治経営力があり、なおかつ軍事能力も持っていなければならない。それらを高い水準で兼備する者といえば、寇恂しかいなかった。
「そうか、子翼しかおらぬか」
「はい。子翼どのであれば明公の蕭何たるにふさわしい御仁です。必ずや期待に応えてくれましょう」
鄧禹はさわやかに断言し、劉秀もその評と推薦に異論はなかったが、彼はもう一人、候補を考えていた。他ならぬ鄧禹である。鄧禹には中華全体を俯瞰するような広い視野があり、政治と軍事に卓越した見識と人物鑑定眼があった。また今回のように自らが認めれば私心なく他者を薦める度量もある。だが鄧禹はなぜか実戦指揮官としては結果が伴わないことが多く、またやはり一郡の統治者としては若すぎた。
「わかった。蕭何がいるなら私も高祖にあやかることができよう。子翼を河内太守とする」
だがそのような考えは表には見せず、劉秀は諧謔とともに笑って進言を受け入れ、鄧禹も笑みを浮かべながら主君へ頭を下げた。
この後、河内太守と大将軍を任せられた寇恂は、郡内で善政を敷き、劉秀への補給をとどこおらせることなく、攻め込んできた朱鮪を馮異とともに撃退し、見事に主君の期待に応えた。
今一つの転機は、銅馬軍を吸収したことである。
銅馬は北州における最大規模の農民叛乱勢力で、劉秀は彼らを完全に自陣営へ取り込むことに成功し、十万を越える人員を手中にしたと言われる。
これにより劉秀は、自らの意思で「状況を作れる」ようになった。これは劉秀の天下取りにおける大きな分岐点であり、そのため彼は一部から「銅馬帝」と呼ばれるほどである。
とにかく、銅馬という強大な力とそれを維持できる根拠地を得たことで、北州における最終勝者が劉秀になることはほぼ決することとなった。劉秀と同程度、あるいは彼に対抗できる勢力もまだいくつか残っていたが、彼らは戦略性や見識に乏しいため、その戦力を活かしきれないためである。
だがだからといって何が起こるかわからないのが世の常であり、また最終的な勝者になれるとしても、まだ時間はかかる。劉秀も彼の諸将も、北州を縦横無尽に巡り、戦い、勝利し、吸収し、敗北し、立て直し、また戦い、勝って、平定して…という数か月を過ごさねばならない。
鄧禹も当然そのために尽力しているのだが、彼が兵をひきいて群雄と戦う機会は減っていたようである。おそらく常に劉秀の側に侍り、軍師としての才を発揮していたのだろう。劉秀は彼自身が優秀な計略家であったが、どれほど有能であっても一人で考えることには限界がある。鄧禹は劉秀のそれらを補うに充分な力量があった。
そしてこれが最も特筆すべきことであろうが、鄧禹には天下を見据える視点があった。中華全体を天空から俯瞰して見降ろし、その視点をもって現状を見極め、将来を予見する能力。
劉秀も当然この視点を持っているが、この水準で政戦両略を語り合える臣下は彼の幕僚にもほとんど存在しなかった。自分と同じ高見で物事を見、語り合うことができる。そのような存在の貴重さを、劉秀は痛いほどよく知っていた。
それゆえ劉秀は鄧禹を重用していたのだが、彼にもまた一つの転機がやってくる。
赤眉の関中入りである。
「赤眉がか…」
銅馬を吸収し、北州平定がいよいよ現実味を帯びてきたこの時期に飛び込んできたその報に、劉秀は沈思した。
これは赤眉が長安を治める更始帝に叛逆したということである。彼らは当然長安を目指しているだろうが、勝算はあるのだろうか。
「充分にある」
劉秀の結論はそれである。中原(黄河流域の中華文明中心地)の最大勢力はいまだ赤眉であり、これに抗しうるのは更始帝では難しいだろう。それでも更始陣営も無力というわけではない。彼らに対抗して武力を行使し、相応の激戦はいくつもおこなわれるに違いない。
「……」
劉秀の心は揺らいだ。それは大きな好機だったのだ。
中原そして長安は漢帝国の中心地で、この地を手にした者がこの国の支配者である。少なくともその印象は強くなる。
現に今の中華における最上位者は更始帝だった。現実として更始帝らが支配しているのは長安を中心とした一地域でしかなかったが、印象としてそうなってしまうのだ。漢王朝が長安を帝都として成立して二百年。その事実は群雄だけでなく民にまで刻み込まれるほど自然なものとなっている。赤眉が長安を目指す理由もそれが一因であるはずだった。
その印象を劉秀は軽視できない。
またそのような象徴的な意味合いだけでなく、政治や経済のような現実的な事柄においても長安と中原は中華の中心である。
さらに国力=人口というこの時代、中原に暮らす人の数は大陸最多で、つまるところ長安を獲得することは、名実ともに巨大な力を手に入れる最短の道なのだ。
だが当然ながら長安も中原も守備は堅い。函谷関をはじめ中原の入り口には難攻不落の関塞が完備されており、またそれらを抜けたとしても、長安にたどり着くまでにはいくつも防衛拠点としての城が存在する。まともにぶつかればほぼ勝ち目はないだろう。
「だが長安と赤眉の争いににつけ込めれば、あるいは…」
赤眉は強大だが、更始陣営も相応の戦力はある。互いに相争えば必ず双方とも疲弊する。その隙を突いて両陣営を撃退、あるいは吸収して長安をわが物にできれば、劉秀の天下取りへの道のりは大幅に短縮できる可能性があるのだ。
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だがそれほどの要地だけに、やはり難点も多々あった。
司隷は今現在、更始帝の支配下にある。そして河内郡の南にある河南尹には洛陽という大都があり、そこには更始帝の大司馬である朱鮪が駐屯していた。またその他にも隣接する并州(北州の一州)から、いつ敵に攻め込まれてもおかしくはない状況で、これら周辺の脅威から河内郡を守りつつ、また郡内の政を正常に経営し、劉秀の求めに応じて補給物資を送り続けることは至難であり、誰にでもできるというものではなかった。
「河内太守には誰がよいと思う」
一日、劉秀は鄧禹に尋ねたが、彼は考えるそぶりも見せず、からりと答えた。
「子翼(寇恂)どのがよろしいでしょう」
鄧禹にしてみれば迷う必要すらなかった。河内統治は、その重要性を理解し、重責に耐える政治経営力があり、なおかつ軍事能力も持っていなければならない。それらを高い水準で兼備する者といえば、寇恂しかいなかった。
「そうか、子翼しかおらぬか」
「はい。子翼どのであれば明公の蕭何たるにふさわしい御仁です。必ずや期待に応えてくれましょう」
鄧禹はさわやかに断言し、劉秀もその評と推薦に異論はなかったが、彼はもう一人、候補を考えていた。他ならぬ鄧禹である。鄧禹には中華全体を俯瞰するような広い視野があり、政治と軍事に卓越した見識と人物鑑定眼があった。また今回のように自らが認めれば私心なく他者を薦める度量もある。だが鄧禹はなぜか実戦指揮官としては結果が伴わないことが多く、またやはり一郡の統治者としては若すぎた。
「わかった。蕭何がいるなら私も高祖にあやかることができよう。子翼を河内太守とする」
だがそのような考えは表には見せず、劉秀は諧謔とともに笑って進言を受け入れ、鄧禹も笑みを浮かべながら主君へ頭を下げた。
この後、河内太守と大将軍を任せられた寇恂は、郡内で善政を敷き、劉秀への補給をとどこおらせることなく、攻め込んできた朱鮪を馮異とともに撃退し、見事に主君の期待に応えた。
今一つの転機は、銅馬軍を吸収したことである。
銅馬は北州における最大規模の農民叛乱勢力で、劉秀は彼らを完全に自陣営へ取り込むことに成功し、十万を越える人員を手中にしたと言われる。
これにより劉秀は、自らの意思で「状況を作れる」ようになった。これは劉秀の天下取りにおける大きな分岐点であり、そのため彼は一部から「銅馬帝」と呼ばれるほどである。
とにかく、銅馬という強大な力とそれを維持できる根拠地を得たことで、北州における最終勝者が劉秀になることはほぼ決することとなった。劉秀と同程度、あるいは彼に対抗できる勢力もまだいくつか残っていたが、彼らは戦略性や見識に乏しいため、その戦力を活かしきれないためである。
だがだからといって何が起こるかわからないのが世の常であり、また最終的な勝者になれるとしても、まだ時間はかかる。劉秀も彼の諸将も、北州を縦横無尽に巡り、戦い、勝利し、吸収し、敗北し、立て直し、また戦い、勝って、平定して…という数か月を過ごさねばならない。
鄧禹も当然そのために尽力しているのだが、彼が兵をひきいて群雄と戦う機会は減っていたようである。おそらく常に劉秀の側に侍り、軍師としての才を発揮していたのだろう。劉秀は彼自身が優秀な計略家であったが、どれほど有能であっても一人で考えることには限界がある。鄧禹は劉秀のそれらを補うに充分な力量があった。
そしてこれが最も特筆すべきことであろうが、鄧禹には天下を見据える視点があった。中華全体を天空から俯瞰して見降ろし、その視点をもって現状を見極め、将来を予見する能力。
劉秀も当然この視点を持っているが、この水準で政戦両略を語り合える臣下は彼の幕僚にもほとんど存在しなかった。自分と同じ高見で物事を見、語り合うことができる。そのような存在の貴重さを、劉秀は痛いほどよく知っていた。
それゆえ劉秀は鄧禹を重用していたのだが、彼にもまた一つの転機がやってくる。
赤眉の関中入りである。
「赤眉がか…」
銅馬を吸収し、北州平定がいよいよ現実味を帯びてきたこの時期に飛び込んできたその報に、劉秀は沈思した。
これは赤眉が長安を治める更始帝に叛逆したということである。彼らは当然長安を目指しているだろうが、勝算はあるのだろうか。
「充分にある」
劉秀の結論はそれである。中原(黄河流域の中華文明中心地)の最大勢力はいまだ赤眉であり、これに抗しうるのは更始帝では難しいだろう。それでも更始陣営も無力というわけではない。彼らに対抗して武力を行使し、相応の激戦はいくつもおこなわれるに違いない。
「……」
劉秀の心は揺らいだ。それは大きな好機だったのだ。
中原そして長安は漢帝国の中心地で、この地を手にした者がこの国の支配者である。少なくともその印象は強くなる。
現に今の中華における最上位者は更始帝だった。現実として更始帝らが支配しているのは長安を中心とした一地域でしかなかったが、印象としてそうなってしまうのだ。漢王朝が長安を帝都として成立して二百年。その事実は群雄だけでなく民にまで刻み込まれるほど自然なものとなっている。赤眉が長安を目指す理由もそれが一因であるはずだった。
その印象を劉秀は軽視できない。
またそのような象徴的な意味合いだけでなく、政治や経済のような現実的な事柄においても長安と中原は中華の中心である。
さらに国力=人口というこの時代、中原に暮らす人の数は大陸最多で、つまるところ長安を獲得することは、名実ともに巨大な力を手に入れる最短の道なのだ。
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