鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

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 劉奉軍に何が起こったのか。時間はわずかに戻る。
 清陽を発した蓋延の突騎兵と鄧禹の騎馬隊は、戦場と予想される南䜌を目指して走っていた。走るといっても全速力ではない。それでは早々に馬がつぶれてしまう。隊列を組んで、長距離移動のための速力で走っているのだ。それゆえ馬を走らせながらの会話も可能で、鄧禹もしばしば蓋延のもとを訪れて微細びさいな確認や軍議をおこない、これからの軍行動に疎漏がないよう気を配っていた。
南䜌なんれんまであと少しか」
「ええ。ですが南䜌から少し離れた場所で潜伏して、最も効果的なタイミングで奇襲を仕掛けましょう」
「そうだな、それがよかろう。場所のあたりはつけてあるのか」
「先行させた偵騎が近くに手ごろな林を見つけたようですから、そこがよいでしょう」
 軍議といっても基本的なことはすべて相談しつくしているため細かな確認や雑談なども多い。雑談も蓋延が鄧禹をからかうようなものもあるが、年少の軍師に敬意を払っているためかしつこいものではなく、鄧禹も苦笑しながらやり返し、いくさへ向かっているにしてはなごやかな雰囲気もあった。行軍も順調で余裕をもって南䜌へ到着できそうであるし、あまり緊張を持続させても疲労するだけだとわかっている。それもあって二人も意識してなごやかさを保っている節もあった。


 が、そのような雰囲気を吹き飛ばす、急転直下の報告が入ってきた。
「我が軍と倪・劉軍、南䜌にてすでに対峙たいじ。いつ開戦してもおかしくない状態にあります!」
「なんだと!」
 その報告に蓋延は驚きの声をあげ、鄧禹は目を剥いた。
 鄧禹も蓋延も南䜌で両軍が戦闘へ突入するのは、早くて明日だと考えていたのだ。
 鄧禹は劉秀軍と倪・劉連合軍の動向を確認するため毎日偵騎を数騎発していたのだが、その間隙かんげきを突くように両軍の動きが変じたらしい。これは倪宏軍の闘気に劉秀が無意識に乗せられたためで、その意味でも最初から主導権は倪宏が握っていたと言えた。


 だがとにかく蓋延と鄧禹は余裕をもって到着するどころか、いくさに遅参する失態を犯してしまった。しかもそれは自分たちの不名誉だけでなく自軍の敗因になりかねない落度でもある。劉秀は自分たちの存在を要素に入れて勝算を立てているかもしれないのだ。
 からく見ればこれは鄧禹の失策かもしれない。だがまだ挽回の機会は残っていた。
 偵騎からその他の状況も細かく確認した鄧禹は、その機会を活かすため頭脳を全回転させる。
「蓋将軍! あなたの突騎兵だけで先行してくだされ。我らは足手まといです」
 鄧禹は真剣な表情のまま、鋭く射るように蓋延へ指示した。南䜌は開戦間近どころかすでに戦いが始まっているかもしれず、一刻も早く戦場へ到着しなければならない。鄧禹の騎馬隊も実戦を経験し急速に鍛えられはじめてはいるが、北州の突騎兵にはまだまだ及ばない。全力を出して走る突騎兵についてゆくことは不可能だろう。
 そう判断してのことで、鄧禹はさらに指示を付け加える。
「劉奉の軍が倪宏の左翼に布陣しているそうです。奇襲はそちらへ、可能であれば倪宏軍へ押し込むように攻撃を仕掛けてくだされ」
 偵騎の報告から倪・劉連合軍の布陣を聞いた鄧禹は、すぐさま劉奉が予備兵力として温存されるであろうこと、少なくとも主力は倪宏軍になるであろうことを見抜いた。であるなら劉奉は戦場にあってもどこか弛緩したところが残り、後背への備えは散漫なものになるに違いなく、奇襲を仕掛けるにもより高い効果が望めるはずであった。鄧禹は倪宏や劉奉の性格や力関係も可能な限り事前調査しており、それらも加えて現状を推測しているのである。
 もちろん主力である倪宏の背後から奇襲を仕掛けることも有効だが、その場合、劉奉軍が援護に回り、蓋延の突騎兵が挟撃される恐れがあった。あるいは倪宏が劉奉を独立した予備兵力ではなく、完全に指揮下に置いて彼らを手足のように操ってくるかもしれないが、二人が王郎のもとで同僚となってから日は浅く、そこまでの関係を築く時間はなかったはずである。やはり狙うは劉奉軍であろう。
「倪宏軍へ押し込むように」とは、当然倪宏の戦闘指揮をさまたげ、あわよくば倪・劉両軍を混乱させ劉秀の戦いを有利に導こうと考えてのことだが、さすがにそこまで望むのは虫が良すぎると鄧禹も自覚していた。だがそれも蓋延ならば可能ではないかとの期待もあるのだ。


 鄧禹はここまで細かな説明はしなかったが、蓋延はすでに若い軍師を信用している。おぼろげながらも彼の狙いを感じ取り、さらに自分に対する期待まで察したか、鄧禹に向かって小さくにやりと笑ってみせた。
「よしわかった。おぬしもすぐに追いつけよ」
「もちろんです。お願いします、将軍」
「おお、まかせておけ。では突騎兵、進め!」
 すでに先行する命令は行き渡っている突騎兵は、蓋延の号令とともに鬨の声を挙げ、彼に続いて突進を始めた。
 それを見送った鄧禹は、今度は自らの騎馬隊へ指示を出すため急ぎ彼らのもとへ駆け戻っていった。


 突騎兵とともに飛び出した蓋延だが、それは真の全力疾走ではない。人間でも最大限の全力疾走は短い距離しか走れず、その後しばらく動けなくなってしまう。
 鄧禹の騎馬隊と並走していたここまでは、言わば「長距離走」の速度で走っていたが、今は「中距離走」で馬速を固定している。
 一刻も早く戦場へたどり着きたい今、蓋延とてできるなら短距離型の全力疾走で駆けたいが、馬も生き物である以上それは不可能だとわきまえてもいた。焦れる気持ちを抑え馬群の先頭を走っている。
 この「中距離走」の速度なら鄧禹の騎馬隊ももちろん走ることはできる。だがこれを戦場まで持続させ、さらに戦闘のための体力を人馬ともに温存することまではできないのだ。
 蓋延は麾下の突騎兵の力量をほぼ正確に把握している。南䜌までの距離と戦闘のために必要な体力とを計算し、その上で最大限の速度がこれだったのだ。

 
 その速度で数刻を走った後、南䜌が近づく。
 蓋延の緊張感も高まってくるが、それが五感を刺激したか、彼の耳にかすかな音が聞こえてきた。その音の正体を悟ると、蓋延は背後を振り返り、副官にあたる兵に命令した。
「このままの速度で南䜌へ向かえ。わしは少し先行する。倪宏らに見つかるなよ」
 と、言い残すと、数騎を連れて愛馬を疾駆させた。


 馬蹄の音もさまたげにならず、その音は大きさを増して蓋延の耳に届き続ける。
 そして適当な高台を見つけると気配を殺すようにして登り、彼は眼下に音の正体を見た。
「おお…」
 まだ三里ほど離れているが、すでに戦場では激戦が繰り広げられていたのだ。蓋延の鋭敏な聴覚が聴き取ったのはこの戦場がつむぎだす、剣戟けんげき叫喚きょうかん、馬蹄の音だった。
「…ぼうっとしている場合ではないわ」
 戦場の光景に思わず声が漏れた蓋延だが、我に返ると戦況を見極めるべく目を細めた。


 蓋延たちがいる高台は倪・劉連合軍の左後方の位置にある。
 見下ろす戦場では今、倪宏軍の前軍あたりで戦闘がおこなわれていた。規模からいえば前哨戦といったところか。
「…銚期ちょうきか」
 さらに目を細めて見ると、戦闘の渦中に「銚」の旗が見える。自軍でこのような真似ができる銚と言えば銚期しかいない。
 だがその銚期の攻撃にも倪宏軍は崩れる様子を見せていない。
「いかん」
 銚期ほどの男の突撃を受けて崩れない。蓋延はそれだけで倪宏軍の精強さを実感できた。やはりこのままでは分が悪い。さらに視線を倪宏軍左翼に移すと、そこに「劉」の旗を見た。
「報告通りだな」
 左翼に布陣しているのは偵騎の報告通り「劉」――劉奉の軍だった。そして彼らが戦闘に参加していないことも。
「軍師の予想通りだな」
 そのことにうなずくが、劉奉の位置が劉秀の戦術の幅をせばめ妨げていることも、の軍の鋭気だけがどこか弛緩していることも、蓋延は一瞬にして見抜いていた。
「よし!」
 それらすべてを確認すると、蓋延は馬首を返し高台を駆け降りる。部下も彼に続くが、彼らの背後から撤退を告げる銅鑼の音が聞こえてきた。劉秀が銚期を呼び返したのだ。
 そのことにさらなる焦りを覚えた蓋延は、馬速を上げて副官へあずけた突騎兵へ急ぐ。そして彼らの姿を見つけると、現状を彼らに知らせた。
「我が軍はすでに戦闘に入っておる。そしてこのままでは負ける! それを覆せるのは我らの働きのみだ」
 隊列を行軍から突撃用に切り替えながら、突騎兵たちは蓋延の演説を聞き、表情を硬くする。指揮官の表情や口調から味方の危機をあらためて認識したのだ。
 蓋延はさらに声を励ます。
「我らが狙いは劉奉の軍! 我ら力での者どもを蹴散らし、倪宏を討ち取り、明公とのをお救い申し上げるぞ!」
 蓋延が剣を抜いて突き上げると、兵たちもときの声をあげて応じる。その兵の士気を全身に浴びた蓋延は剣を振り下ろした。
「ゆくぞ! 突進!」
 蓋延を先頭に、突騎兵は猛進する一つのかたまりとなった。


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