鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

前進

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「将軍!」
 その様子を本陣から見ていた倪宏げいこうの側近の一人が、やや蒼ざめ、狼狽した表情で彼らの将を見る。
 が、倪宏は落ち着いたものだった。
「そのままでよい。機先を制されはしたが、我が兵はこの程度で崩れたりはせぬ。敵の先陣に限界が来れば容易に押し返せる」
「ですがこのまま劉秀が本隊を進めてきたら」
「それならむしろ好都合だ。乱戦ならば我らの方が上。あとは押して押して押し潰せばよい」
 倪宏は猛将だが、猛将とは何も考えず猪突する将のことではない。攻めるべきタイミングと場所を見抜き、そこへ最大の攻撃力を叩きつける指揮ができる者のことを言うのだ。
 倪宏は今がそのときではないことをわきまえていたし、鍛えてきた自兵の実力も限界も知り抜いている。銚期率いる先陣の強さは認めるが、彼らが攻めているのは自軍の一部に過ぎず、耐えられぬほどではない。これを好機と見て劉秀が突撃してくれば、まだ無傷の兵たちが正面から受け止める。そして正面からまともにぶつかれば勝つのは自分たちである。
 それは自負ではあるが、客観的事実でもあった。


 その証拠にというべきか、劉秀は動けずにいた。
「あの銚期の鋭鋒えいほうにも崩れぬか」
 さすが流民の群れとは違う。劉秀は硬い表情をやや蒼くして口の中でつぶやいた。まさしくこれが正規の訓練を受けた兵の強さである。
 銚期の突出は劉秀の命によるものではなかったが、狙いとしては悪くなかったためそのまま突入を許した。それは銚期の攻撃で倪宏の兵が崩れ、潰走に移る可能性を期待したためでもあったのだが、どうやら劉秀の中でも無意識に、敵の平均的な兵の強さを流民兵のそれと同じに見ていたらしい。
 感覚のわずかな食い違いが結果を左右することもある。劉秀は急ぎ自らのそれを改めたが、こうなると銚期への対応が難しくなってきた。
「援軍が出せぬ」
 劉秀は倪宏とまったく同じ結論に達していたのだ。銚期を救うため倪宏軍へ兵を投入すれば、なし崩し的に正面決戦となり、劉秀軍はそのまま敗北してしまいかねない。しかしこのままでは銚期と彼の兵は包囲されて鏖殺おうさつされかねないのだ。
「やむをえぬ」
 劉秀は後ろを振り向き、銅鑼を打たせた。


 銚期たちは変わらず激戦の中にいる。従者の手から受け取った戟はすでに三本目で、それも敵兵の血にまみれている。ここまで彼が討ち取った敵兵は、戟一本につき最低でも十数人。総数でいえば四十人を越えており、まさしく超人的な働きであった。
 その銚期の動きに、ほんのわずか緩慢かんまんさが見えた。それを見て取ってのことではなく偶然ではあろうが、馬を駆け寄せてきた敵兵のメイスが銚期の額をかすめる。
 血が跳ねた。この混戦の中で銚期が初めて浴びた、敵兵以外の血である。それにも構わず銚期は敵兵の右肩を一撃で打ち砕いて報復を終えると、一旦背後に下がった。頭に巻いていた頭巾を少しずらし、額を押さえて血止めをするため強く縛りなおす。
「いささか当てが外れたか」
 銚期の注意がやや散漫になった理由は、疲労や油断ではなく周囲の戦況を見てかすかな困惑を覚えたからであった。当初は狙い通り敵兵に動揺を与えることができていたのだが、それが途中から止まり、それどころか押し返されはじめている。
 だが銚期が覚えた違和感は、激戦の渦中にあるだけ劉秀が感じたそれより深刻だったかもしれない。


 が、今そのことにこだわっている暇はない。当初の狙いが崩れたからにはこれ以上とどまっていてもじり貧である。それどころか敵に味方が押しつぶされ、すりつぶされてしまう。
 こうなっては撤退しかないが、それが可能かどうか。殿しんがりに自分がつけば、逃げるに自兵にさほどの損害は出ないだろう。
 殿という最も危険な領域で自分が討ち取られるとは微塵も考えていない銚期であり、それは傲慢ごうまんではなく実力と実績をともなう自負であったが、問題は劉秀のいる本隊の動きである。彼らはすでにこちらへの援軍を準備をしているかもしれない。それならばここで兵を退けば劉秀の用兵を混乱させ、倪宏につけ込む隙を与えてしまう恐れがあった。いや、戦術眼に優れる倪宏ならば必ずそうする。そしてそのような状況は、猛将倪宏の攻撃力が最大限発揮される場面である。それでは迎撃態勢が整っていない劉秀軍の方こそが撃破されてしまうかもしれない。
「せめて本隊にも我らの苦境が伝わっていれば…」
 自らの戦況を苦境と言うのは銚期としても屈辱だが、矜持きょうじにこだわって無駄に兵を死なせる愚は犯せない。劉秀が攻撃ではなく守備をかためる用意をしてくれていれば、撤退もためらわずにおこなえるのだが…
 と、そこへ本隊から銅鑼の音が聞こえてきた。それが撤退を命じるものであることが銚期を破顔させる。
「さすがは明公とのだ」
 主君の戦術眼にあらためて敬意を覚えながら、銚期は戟を握り直し、戦線に復帰する。
 そして挨拶代わりに二人ほど敵兵を撃砕すると、周囲の兵に命じた。
「撤退する。負傷兵を先に送り出せ。健在の者は我とともに死守せよ!」
 

 撤退の銅鑼を鳴らしてほどなく、銚期の部隊の動きが変わったのを遠望していた劉秀は見て取った。
「さすがに銚期は動きが早い。それともすでに撤退の意志を固めていたかな」
 銚期の素早い撤退に感嘆する劉秀だったが、彼には自らの不利な戦況が見えたのだろう。戦いの渦中でそれがわかる男は貴重である。個人としても無双の勇者であるならなおのこと。
「銚期たちが戻ってくるぞ。敵の追撃もある。気を抜くな」
 劉秀は各将に指示を伝える。
 と、倪宏軍の前面から兵があふれてきた。銚期の部隊である。必死に逃げてくるが、兵の統率は失われていない。
 だが銚期の巨躯はまだ見えなかった。おそらく殿しんがりを買って出ているのだろう。
「銚期の姿が見えたら敵が来るぞ」
 劉秀の予想が正しかったことはすぐに証明された。さほどの時間もかからず敵陣から戟を振り回す銚期が現れると、それに続くように倪宏軍の前進が始まったのだ。


 整然と突進してくる。その動きだけで倪宏の統率力と彼の兵の強さが感じられた。
明公との!」
 追撃を振り切って、銚期は劉秀のいる本陣へ駆け寄る。
 銚期の部隊はすべて劉秀本隊へ収容された。撤退の見極めが早かったため戦死者はさほどではなかったが、先駆けとしては完全に失敗である。敵を混乱・崩壊させるどころか、逆に相手に主導権を握る契機を与えてしまったのだから。
 それをびるため、そして次の命令を仰ぐため、銚期は主君の元へ駆け寄ったのだが、劉秀は彼をとがめなかった。
「いまはよい。一度後方へ下がって部隊を再編せよ。すぐに働いてもらうぞ」
「御意!」
 銚期は安堵とともに雪辱の機会を与えてくれた主君に感謝した。叱責や失敗の責任から逃げるつもりはないが、罪を新たな功で償えればそれこそ重畳ちょうじょうである。嬉しげに低頭すると、銚期は返り血にまみれた巨体とともに後方へ馬を駆けさせていった。


 本来の目的は失敗だったとはいえ、この日の銚期の武勇は史書に残るほどである。
 この先駆けで彼が殺傷した敵は五十人。額に傷を受けてもまったくおとろえることのない闘志と奮戦の結果だった。


 劉秀が銚期を咎めなかったのは、彼の突出を黙認した以上最終的な責任は自分にあると考えたためであるが、その余裕がなかったためでもある。普段の彼なら銚期の頭巾の位置に違和感をおぼえ理由をただしていただろうが、そもそもそこに気づかなかった。
 当然であろう。倪宏の前軍がすでに目前に迫っていたのだ。
「前進!」
 劉秀は短く命を発した。


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