鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

籠城

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「なんだ 早すぎる!」
 この銅馬軍の転換の早さに、今度は蓋延こうえんの方が面食らった。
 蓋延はただ逃げようとしていたわけではない。深入りしすぎた自軍をとりあえず窮地から脱出させ、そのあと再度外周部から銅馬軍を削っていくつもりだったのだ。それにより銅馬の混乱が広がってゆけば再度の突入の好機もありえる。
 それは充分に可能なはずだった。反転・脱出に入ったときの銅馬兵はまだ混乱が続いており、統率が取れていなかったのだから。


 だが銅馬の将が「考えなかった」ことが蓋延にとってあだとなった。
 銅馬の将はまさに愚将であるがゆえに、結果として名将と同じ最善の選択をしてしまったのだ。
 そして銅馬にとっての最善は、蓋延たちにとっての最悪である。蓋延らはなんとか敵包囲からの突破には成功したが、それと同時になし崩しの追撃を受け、逃走に移らざるを得なかったのだ。ここで止まれば再度銅馬軍に飲み込まれ、今度は確実に鏖殺おうさつされてしまう。


 敵が歩兵だけならば逃走も容易で、充分に距離を置いたところで反転・迎撃も可能だったかもしれない。しかし銅馬にも騎馬隊はいる。突騎兵には遠く及ばないが、それでも騎兵である以上、いかに北州一の騎馬隊でも簡単に振り切ることはできない。もし彼らを迎撃しようと停止や反転をしても、その間に歩兵が追いついてくれば、やはり蓋延らは多数の兵に飲み込まれ、全滅してしまうだろう。


「くそ…!」
 さすがに蓋延も奥歯を噛みしめる。
 軽はずみな開戦は劉秀から戒められていた。その命令に反しての結果がこれでは主君に合わせる顔がない。まして全滅やそれに近い被害を受けてとのこととなれば、自害しても許されないほどの罪になるだろう。


 と、ここで思い出したのはもう一人、蓋延に自重をうながした鄧禹の忠告だった。あの若い同僚は、不測の事態に陥ったならば清陽へ逃げ込めと言っていた。その忠告に従って「一応」清陽を手中に収めていたことが、この際は命綱になりそうである。
「いささかみっともないが仕方がない。全員、振り返らずに突っ走れ! 清陽へ逃げ込むのだ!」
 前半は口の中だけでつぶやき、後半は全身から発するような大声で前方へ向けて命じる。変わらず殿しんがりを努める蓋延の命令は突騎兵全員に伝わり、彼らは反攻を断念、清陽へ向けて全速力で走り始めた。
 

 漁陽の突騎兵が戦闘を放棄して全力で疾走するならば、銅馬の騎馬隊では追いつきようがない。二つの騎馬隊の差はじわじわと開いていった。それでも突騎兵に絶対の余裕があるわけではない。多少の距離ができたとて、やはり反転・攻勢は自殺行為であった。
「見えたぞ!」
 まっしぐらに突っ走っていたこともあって、清陽の城壁はさほど時間もかけず蓋延らの視界に入ってきた。突騎兵の中でも駿馬を駆る兵が一騎のみ突出すると、清陽の城門前へ駆け寄る。
「開門! 蓋将軍の兵である。急ぎ開門せよ!」
 開門を請う突騎兵の声は疲労による呼吸の荒さはあったが、城壁上にいる守備兵にあやまたず届いた。
 彼らも無数の砂塵や、自分たちのいる城壁へ向かってくる兵団は見えていたが、それが敵なのか味方なのか、さらにどういう状況なのかがわからなかった。だが明確な指示を受け、また相手が味方でありしかもどうやら逃げ帰ってきたのだと知ると、急ぎ城門を開け始めた。


 城門は全開にしない。それでは閉めるのに時間がかかり、味方だけでなく敵もなだれ込んでくる恐れがあるためだ。
 開くのは内側へ向けて半分ほどで、多数の騎兵が余裕をもって入城できる広さではなかった。だが開門を呼びかけた最初の突騎兵が飛び込んできたあと、しばらくして清陽へ到着した本隊は、混乱することなく数騎ずつが横並びに門をすり抜けてゆく。このあたり、やはり彼らは騎兵としても騎馬隊として一流であった。


 滑らかに、なんの支障もなく突騎兵が城門の中へ消えてゆき、最後に飛び込んだのは蓋延であった。
「門を閉じよ!」
 蓋延が城門を抜けた瞬間、先に入城していた兵が大声で閉門を指示する。銅馬の騎馬隊とは多少の差をつけたが、ゆっくり閉められるほどの余裕はない。兵たちは閉門命令を待ちかねていたように、全力で門を閉め始めた。


 と、全速力で入城してきた蓋延が、愛馬を急停止させ馬首を返す。徐々に閉じられる門の向こうには、銅馬の騎馬隊が迫り来る様子が見える。
 蓋延はその騎馬隊へ向けて強弓を構えると、矢を一閃させた。


 突騎兵を追って突進していた銅馬騎馬隊の一人は閉じられつつある城門を見て、自分たちの乱入が間に合わないと知ると、小さく舌打ちした。
 その兵の視界に城門の内側で、馬上、弓を構える巨漢が見えた。
 と、その刹那、彼の隣を走っていた僚友の姿が消えた。騎手を失った空馬だけが制御する者もなく前方へ駆け抜けてゆく。
「…!」
 いったいなにが起こったかわからない兵だったが、彼の後方にいる騎兵のあげた驚愕の叫びに反射的に振り向いた。
 と、そこには消えた僚友がいた。顔面から矢を生やし、地面に横たわった姿で。
 蓋延の放った矢を鼻に受け、それが後頭部まで抜けたのだ。言うまでもなく即死だった。
 自分でも知らぬ間に馬を止めた兵は、射込まれた矢が放たれたと同時にこちらに届いたこと、しかもほとんど威力を落とすことなく僚友を貫いたことに愕然とする。
 そして次の瞬間、射殺されていたのは自分だったかもしれないことに気づくと、全身を蒼白にしてまたも反射的に城門へ目をやった。
 門はすでに閉じられていた。


 神技というより剛勇の一端を見せつけた蓋延に、突騎兵も城の守備兵も歓声をあげる。敗勢に染まりかかっていた彼らはこれにより一気に蘇生した。
 蓋延も、単に敵兵の足を止めるためだけでなくこの効果も狙っての狙撃だったのだが、表情は硬く渋かった。
 それも当然だろう。彼にとって不本意極まる結果で、しかもその因が自分の迂闊うかつさなのだから。
 だが結果といっても途中経過であり最終結果が出たわけではない。
「まずは籠城ろうじょうだな」
 自分たちを逃がした銅馬軍が清陽を包囲するのは必至である。
 蓋延としては、まずは清陽を守らなければならない。それさえせば新たな勝機が見えてくる。蓋延はそのことも知っていた。



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