鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

再び経略

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 食事も終わり、兵たちはめいめいなごやかに過ごし始めるが、劉秀の用件はここからが本番だった。
 鄧禹を手招いて城楼じょうろう(物見やぐら)に登ると、地図を広げる。
「仲華。これが今の中原ちゅうげんの郡国だ。そして我らはようやくその一部を取った」
 中原とは黄河こうが中下流域で発展した中華文明の中心地域であり、この領域を手に入れた者が天下を制するといっても過言ではない。劉秀が広げた地図はその中原のものだった。


 地図を前に劉秀はまず今現在の自分たちの本拠地・信都を指さすと、そこからぐるりと小さく円を描いた。現在劉秀が手に入れた、おおよその領域である。
 現在攻略を続けている北州の中でもまだまだ版図は小さく、王郎の支配領域の方が大きい。さらに視界を広げれば、あらゆる地域にあらゆる群雄が割拠しており、そのほとんどが劉秀を凌駕する勢力を誇っていた。


 もちろん劉秀はそれをよしとしているわけではない。
「おぬしは再会したときこう言った。私が思慮をめぐらせれば天下の平定など造作もないと。では私はどのように考え、どのように行動すればよい。教えてくれ」
 小なりとはいえ、更始帝から離れて初めて得た自らの勢力圏である。これを足がかりにさらなる力を蓄えなくてはならない。
 まずは王郎を破る。それは決まっているが、その後の基本的な方針が劉秀にはまだ明確ではない。
 そこで鄧禹と再会したときのことを思い出したのである。
 わからなければ訊くしかない。それもあって劉秀は鄧禹の陣営を訪ねてきたのだ。


 鄧禹は年長の同窓である主君をあらためて好きになった。
 臣下として無礼な感懐かもしれないが、この動乱の世、しかも挙兵後すぐに家族を何人も殺され、自らも何度も苦難を味わっているというのに、劉秀は何も変わらない。この変わらないということに周囲は劉秀を凡人と見ているが、実は非凡さの最たるものだと鄧禹は感じている。真に凡人であるならうの昔に心がへし折れているか、そうでなくとも性格に暗さをただよわせているに違いないのだ。
 前漢の初代皇帝、高祖・劉邦は、器量の大きさのみで天下を取ったと言われる。だが高祖の器量はどれほど大きくとも、形はふくろのままだった。
 それに比べ劉秀の器量は形が見えない。形があるのかないのかもわからない。それでいて嚢としての大きさは劉邦に劣らないほどひろく、また質においても彼を上回るものを持っていた。少なくとも鄧禹にはそう感じられてならない。
 鄧禹のなすべきことは、劉秀の見えない器を万人に知らしめ、彼をして天下を取らせることなのだ。


 それゆえ鄧禹は今度も明快に答えた。
「いま海内かいだい(天下)は乱れに乱れ、民は明君を赤子が慈母を慕うがごとく求めています。いにしえ、真に天下を取った者たちがそれを為せたのは、勢力の大小によってではありません。徳の厚さによってです。ゆえに明公とのの思案は徳の薄厚を基としてくだされ」
 劉秀は鄧禹の答えに軽く目をみはった。が、すぐにゆるゆると表情をゆるめ、大いにうなずいた。
「仲華、おぬしの最も非凡なところは、その若さでその存念を心から思ってることだな。わかった、おぬしの言うとおり、私は何をおいても徳を第一に考えよう」
 鄧禹はまだ二十代の、しかも前半である。そのような若輩がこのような分別くさいことを口にしても、普通はどこか上滑りする。が、鄧禹の言は、彼の芯の深く根ざした場所から発せられたものだと劉秀には感じられた。
 思えば鄧禹は劉秀たち年長の若者より、はるかに真摯に学問に対してきたのだろう。過去の偉大な思想家たちのたどり着いた真理に、可能な限り近づこうと努めてきたのだ。凡人が何十年に渡る人生を経て初めて理解できるそれらに、鄧禹は若年で肉薄したのである。それは彼の才あってこそ可能な業であろうが、だとしても研鑽けんさんの労は想像にかたくない。


 本来であれば劉秀はもっと具体的な政戦両略を聞きたかったのかもしれない。だが鄧禹はあえて原則論をとなえた。
 これには二つ理由がある。

 一つは今の劉秀の勢力では、そもそも明確な将来像など描きようがないのである。力がなければ、兵がいなければ、そしてそれを支える根拠地・生産力がなければ、すべては画餅なのだ。それらを得るために劉秀たちは奮闘しており、得たときには群雄の勢力図も今とは別物になっているに違いない。
 それだけにいまの中原の状況を基に未来を具体的に描いても意味がないのだ。

 二つ目は劉秀を落ち着かせ、原点を思い出させるためであった。
 上述したようなことは、劉秀にもわかっているはずなのだ。だが劉秀は無意識に焦ってしまっている。そのため急いて鄧禹を訪ねてきたのだが、そんな劉秀の心身に一息入れさせるために、鄧禹は原則をあらためて説いたのである。


 だがそれは決して方便ではない。劉秀は現実を忘れることはないが、本来の性情はやさしくおだやかな男なのだ。
 恐怖政治や極端な独裁は結局のところ国の崩壊を招く。鄧禹は劉秀にそのような道を歩んでほしくなかった。
 そして劉秀もまた、鄧禹のそのような心裏を察し、うなずいたのだ。


 劉秀と鄧禹は、互いに互いの真価を、当人以上に理解していた。



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