鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

広阿攻略

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 柏人から離れるとき、そして離れてからしばらくは、後方へ厳戒態勢を敷いていた漢軍だったが、案の定、李育の追撃はなかった。
「良将だな」
 李育が柏人から出てこなかったことに、無念と安堵という矛盾する吐息を漏らしながら劉秀はそう評した。
 鄧禹も同じ評価である。彼にとって初の敗北であったが、それだけに学ぶことも多かった。
「まだまだ、必ずや明公とののお役に立てる人間になってみせるぞ」
 自身の矜持きょうじとは別に、その決心も新たにする鄧禹だった。


 さて鉅鹿へ向かうと決めた劉秀だが、柏人からそのまま直行したわけではなかった。
「とりあえずは兵を休ませ、回復させなければ」
 漢軍は李育を急襲で破った後、そのまま柏人包囲に入った。その間、常に戦闘をおこなっていたわけではないし、定期的に休息を取らせてはいた。それでもいつ戦闘が起こるかわからず、兵は常に一定の緊張感を強いられる状況が続いたのだ。心身とも完全に一新し回復させるには、心から安心してぐっすり眠り、たっぷり食べられる場所が必須である。
 それに鄧禹たちが敗れていびつになった全軍の編成も、今一度やりなおさなければならない。柏人攻略の滞陣中に応急処置は施したが、落ち着ける場所で一から再構築する必要があるのだ。


「となればどこかの城を取るのが一番だな」
 そう考えた劉秀は広阿に目をつけた。さほど大きな城ではないが軍を休ませるには充分である。
 また劉秀としては、柏人攻城の失敗は自軍の戦い方がまずかったのか、あるいは他に理由があったのか、それを確認しておきたかった。そうでなければ鉅鹿攻略にも支障が出る。
「広阿を攻めるぞ」
 劉秀は全軍へ命令を発した。


 結果として、広阿はあっさり落ちた。
 もちろん激戦はあったが、それは長いものではなく苦戦と呼べるほどのものでもなかった。
 広阿を守るのは王郎の横野将軍・劉発だったが、彼の指揮能力にも問題があったのだろう。李育の守る柏人に比べ「こんなものか」と拍子抜けするほどだったが、とにかく劉秀にとってはありがたい勝利だった。自軍の攻城能力が乏しいわけではないと自信も持てたし、何より柏人を落とせなかった兵の士気を一気に回復させることができたのが大きい。
「これで鉅鹿を攻めることができるぞ」
 広阿に入城した兵が、安全な城壁の中それぞれの部隊ごとに駐屯し、ここしばらくの疲労を落とし始めたのを見て、劉秀は安堵した。
「……よし」
 兵たちはそれぞれに荷物をおろし食事の準備も始める。そんな穏やかな喧噪の中、劉秀も馬から降り甲冑を脱ぐと、平服のままぶらりとある場所へ向かった。


 城内で兵たちはめいめいにかまどを作り食事の用意を始める。勝利の余韻もあってそれはにぎやかで、彼らにとって久々の憂いなき楽しい時間であった。
 それは鄧禹の屯営も同じである。劉秀軍はまだまだ制度も整っておらず、将である鄧禹も手ずから火をおこし、魚を焼き、己の食事を用意していた。
 広阿攻略には鄧禹も充分な働きがあった。
 彼は柏人を撤退してから劉秀に新たな兵を与えられていた。
「二度同じ失敗はせぬぞ」
 鄧禹は静かな闘志とともに広阿へ激しく攻め込んだ。
 といって考えなしにがむしゃらにというわけではない。彼は実質謹慎中だった柏人攻略の最中、味方の攻め方、敵の守り方をつぶさに観察していた。何がよくて何が悪いか。何が有効で何が無効か。
 戦場は生き物であり、同じ戦況があらわれるわけもない。それでも鄧禹は自らの知識とも照らし合わせ、可能な限り学び、体感し、それらを広阿攻略にそそぎ込んだ。
 結果、彼の部隊は大いに敵兵を破り、功績を揚げ、鄧禹も前戦の敗北を見事に払拭し、名誉を回復することができた。
 それもあって鄧禹も気分よく魚を焼き、近くで料理する彼の兵たちも自分たちの若い指揮官を見直していた。
 鄧禹陣営は明るい雰囲気に包まれ、いっときの憩いを満喫している。


 と、そこに思わぬ客があらわれた。珍客であり賓客でもある。劉秀であった。
「お、仲華、うまそうだな」
 服装は平服で、風情は散歩のついでというべきものである。ぶらぶらと自分たちの陣営に入ってきた男が自らの主君だと、兵たちがすぐに気づけなかったのも無理はない。
 とはいえ正体を知ればあわてるのも当然で、急ぎ口にしていた食物を吐き出し、立ち上がって挨拶しようとする。が、劉秀は笑ってそれを制し、兵たちに食事を続けるよう告げる。


 そして陣営の中、劉秀の腰の軽さに驚かない者もいた。この屯営の若き主将である。
「いかがですか、明公とのも」
 鄧禹は焼き上がった魚を一尾、座ったまま笑顔とともに劉秀へ差し出す。
「そうか、悪いな。では遠慮なくいただこう」
 いささか無礼な鄧禹の行為だが、劉秀はまったく気にした風もなく笑顔で受け取ると、立ったまま食べ始める。
「これはうまいな、仲華」
「恐れ入ります」
 劉秀は笑顔で鄧禹に言うと彼の軍師も同じ表情で頭を下げる。そして劉秀は魚を手にしたまま兵たちにも声をかけた。
「今日はおぬしらのおかげで劉発に勝てた。本当に感謝する。今は存分に飲んで喰らって休んでくれ。おぬしらの力なくして邯鄲の王郎を破ることもできぬのだからな」
 劉秀の、演説とも言えぬねぎらいの言葉は、特に個性あるものではなかったし、兵を無理に鼓舞するためのものでもなかった。
 だがこれまで兵たちが見てきた叛乱勢力の首領は野盗上がりの者がほとんどで、粗暴で、略奪を重ね、大声で彼らを威迫し、虐待してきたのだ。そんな田舎首領に比べて劉秀はありえないほどやさしく、かといって繊弱というわけではない。それどころか粗暴な首領にはない自然なおおらかさが感じられ、それでいて気さくだった。
「うちの明公とのは本物の天人ではないのか」
 鄧禹と笑いながら雑談を続ける劉秀を見る兵たちの目には、畏敬と心服の念が浮かびはじめていた。


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