鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

急追

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「……」
 確実に漢本隊の追撃をかわすには輜重しちょうを捨てるしかない。しかしこれを捨てては兵の士気が一気に転落してしまう。
 最初から持ってなければまだしも、一度得たものを失うに激しい落胆をおぼえるのが人情というものだ。
 すでに漢本隊との駆け引きに敗北した李育である。士気の低下はそのまま彼の指揮能力への疑問となり、最悪、裏切りや叛乱を誘発し、李育は兵に殺されてしまうかもしれないのだ。そうなっては戦いどころではない。
「……」
 伸び上がるようにして後方の漢本隊を見やる李育は、柏人までの距離を考えた。
「追いつかれるとは限らぬか…」
 追いつかれるかもしれないし、追いつかれないかもしれない、微妙な距離と速度差である。
 それが李育を迷わせ、判断を遅らせた。
 

 劉秀にしても万全の策ではなかった。
 減速した平原の周囲に敵の伏兵や援軍がいないことは偵兵に探らせ確認したが、それ以外の場所はわからない。なにしろここは王郎の勢力圏なのだ。地の利は李育にこそある。
 それゆえ劉秀は、可能な限り李育に「地の利」を活用させない状況を作り出すことに腐心したのである。

 まず減速して敵伏兵の存在しない平原へ李育を誘う。
 それに乗ってこず柏人へ撤退を開始すれば、急進してその後背を襲う。

 敵の陰策の存在しない平原での正面決戦なら地の利は互角であり、兵数の多い自軍の勝利はかなりの確度で期待できる。ゆえにこれに乗ってきてくれれば一番だったのだが、さすがにそこまで敵も甘くはなかった。


 であれば後背を襲う今の状況が絶対の有利かといえば、そうとも言い切れない。
 もしこの逃走がこちらの意図を読んだ偽りのものであれば逆撃を喰らうのは自分たちである。何度でも言うが地の利は敵にあり、敵将(李育)は無能ではないのだ。


 また敵の逃走が真実であっても、このまま柏人へ逃げ込まれればそれまでである。敵はすぐ籠城戦に入ることになる。こちらがすぐに柏人を陥落させられればまだしも、手こずれば王郎の援軍が来て後背を突かれるかもしれない。そうなれば今度はこちらが逃げ出すしかなく、結局何も得られず終わることになる。
 それでは漢軍の「判定負け」で、前軍敗北とも相まって兵の士気を落としてしまう可能性もあるのだ。


 それゆえ追撃しながら劉秀も伸び上がって前方の敵軍を目を細めて見やる。
 敵軍の「色」を見るためだ。それが敗色であるのか、別の色であるのか。
「……」
 劉秀の見るところ、その逃走に余裕はなかった。真の逃走である。だとすれば伏兵や罠を仕掛ける余裕もなかっただろう。あるいはこの敗色すらも漢軍をだますための擬態かもしれないが、そのような精緻せいち極まる用兵は、希代の名将にしか不可能である。これまでの用兵を見て、敵将は良将だがそこまでの天才であるとは思えなかった。
 自軍は安全である。
 それを確信した劉秀は安堵とともに今一度会心の笑みを浮かべた。が、すぐに表情を引き締める。
 柏人まであと少し。劉秀にも余裕や猶予はなかった。
「よし、行け」
 敵の逃走の真偽を確かめるまで出せなかった命令を、劉秀は短く発した。


 劉秀の命令を李育は聞くことができない。しかしその意図は李育にとって戦慄すべきものだった。
「敵の騎馬隊のみが突出! みるみる追いついてきます!」
 その報告に李育は総毛立った。
 軍隊は一つの兵種で構成されているわけではない。騎兵、歩兵、工兵、兵站兵など、様々な部署が混在している。そしてそれらは歩む速度、走る速度が異なるため、軍全体の行軍速度はすべての部隊・兵の兼ね合いで決まってくる。
 そしてこの時代、最も速く走れるのは当然騎兵である。それだけに彼らにとって全軍の行軍速度は自らの足を縛っていることになるのだが、劉秀はそのかせを取り払ってしまったのである。


 兵種ごとに速度が違うのは李育の軍も同様である。どれほど速く走っても、歩兵や工兵に騎兵以上の速度が出せるはずがなかった。まして普段以上に肥満している輜重隊では。
「輜重を捨てろ! 全速力で柏人へ走れ! 殺されるぞ!」
 ついに李育は輜重の放棄を決断した。
 だが遅すぎた。
 兵たちも突進してくる騎馬隊のあげる砂塵と地響きに戦慄すると、李育の命令を聞くか聞かないかのうちに輜重を捨て、柏人へ向けて全速力で走り始める。
 反転して迎撃するには、すでに時間も士気も乏しすぎた。いや、それどころか逃げるための時間すら存在しなかった。
 漢騎馬隊は、李育軍最後尾へ、重く、鋭く、なにより残忍なほどの勢いをもって激突した。


 鄧禹の前軍がそうであったように、今度は李育軍が後方からつんのめり、くつがえりそうになる。兵は悲鳴を上げ、三々五々逃げはじめた。
 だがそれを、蒼白でありながら重く力強い李育の命令が引き止めた。
「まっすぐ進め! もうすぐ郭門(外郭の門)ぞ。城門はすでに開いている。そこへ逃げ込めば助かるぞ!」
 柏人まで指呼の距離である。城壁は目の前で、先行させた騎兵の連絡により城門の一つはすでに開かれている。そこへ飛び込めば命は助かるのだ。
 兵たちは恐怖に蒸発しそうになる理性を必死にたぐり寄せ、郭門めがけて全力で疾走する。
 と、そこへさらなる衝撃とさらなる悲鳴が波及してきた。一撃した漢騎馬隊が距離を取ると、もう一度突撃してきたのだ。李育軍は再度つんのめり、前方へ転覆しそうになるが、将も兵も歯を食いしばって前を見据え、突進してゆく。
「入った!」
 そしてついに李育軍の先陣が郭門へ飛び込み、その後を続々と兵が突入していった。


 李育も命からがら郭門へ飛び込む。
 が、一息つくこともなく、間髪入れずに城門を守備する兵に命令する。
「敵の騎馬隊が突入してきたらすぐに城門を閉じろ。やつらを閉じこめて鏖殺おうさつしてやれ!」
 李育の目は恐怖と同等の憤怒に血走っていたが、曇ってはいなかった。
 漢騎馬隊は強力だが、決して数は多くない。現にほぼ無防備だった自分たちの後背へ一方的な攻撃をしかけながら、致命傷を与えることはできなかったのだ。開いている城門へ自分たちと並行に突入してくるなら、門を閉じて袋の鼠にしてやれる。李育軍は壊滅はしなかったが大打撃を喰らったことは事実で、せめて騎馬隊だけでも叩き潰さなければ李育の気がすまなかったのだ。


 だがその危険は漢騎馬隊も自覚していたらしい。李育軍が郭門へ飛び込むのを見るとそれ以上は深入りせず、彼らが逃げ込むに任せていた。
 そのため李育軍の兵はかなりの数が戦死をまぬがれたが、ここまでの被害だけで相当なものであった。少なくとも漢前軍に対する勝利で得たものはすべて失い、それどころか足が出るほどである。
 李育は冷静な敵騎馬隊を強烈ににらみつけながら歯噛みする。その眼前で郭門は閉じられた。


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