鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

奇襲を受ける

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 突然であった。鄧禹は自軍にいきなり何かが激突し、軍全体が大きく揺動したように感じた。
「何だ」
 驚きに硬化した顔で鄧禹は後ろを振り向く。と、斜め後ろの兵が悲鳴を上げながら激しく乱れている。さらにその後ろに、見知らぬ騎馬の群が見えた。
「柏人か!」
 とっさに鄧禹は何が起こったのかを察した。このあたりにあれほどの騎馬隊が隠れられる場所は柏人以外なかった。やはり伏兵がいたのだ。
 そして次の瞬間、鄧禹は愕然とした。
「なぜ後方を警戒しておかなかった!」
 たとえ偵察を怠ったとしても、伏兵の可能性があると考えたなら、安全な場所へ至るまで後方を最大限警戒しておくべきだったのだ。
 そもそもなぜ朱浮とは関係なく独自に偵兵を放たなかったのか。それですむ話だったではないか。
 鄧禹は自身の一連の迂闊さと愚かさに愕然としたのだ。
 が、状況はすぐに彼を正気へ戻す。
「朱将軍へ…!」
 自分たちが先に奇襲を喰らったのは明らかだった。もし朱浮の軍が先に攻撃されていたなら、すぐ近くにいる自分たちが気づかないはずがない。
 とすれば朱浮たちもこちらの異変に気づいているだろうが、彼は前しか見ていない。また並進といっても、朱浮軍の方が前に出て、自分たちはやや後方に続いていた。それもあって敵将はこちらを先に攻撃してきたのだろうが、もし朱浮が敵襲に気づいていないとすれば早く知らせねばならなかった。


 が、敵襲を実際に受けた鄧禹軍後陣はすでに潰乱状態となっていて、混乱を全軍へ波及させつつあった。朱浮に構うどころの話ではない。
「持ちこたえられぬか」
 鄧禹の顔は蒼ざめ、口を真一文字に引き結んだ。漢軍といっても兵の大半は他の叛乱勢力と同様、農民や流民である。訓練をほどこす時間などほとんどなく、不利な状況になればあっさりと恐慌に陥ってしまう。
 潰乱と潰走は鄧禹も飲み込んだ。
 彼にはもうどうすることもできなかった。


 朱浮の耳に後方から喧噪が聞こえてくる。顔をしかめながら無造作に振り向いた彼が見たものは、後ろから押され、くつがえるようにつんのめる鄧禹軍の姿だった。
「敵襲か!」
 さすがに朱浮もこれが鄧禹の意思でおこなわれているとは思わなかった。鄧禹軍の後方に砂塵が見えるのもおそらく敵兵であろう。
「柏人か」
 この近辺で伏兵を置けそうな場所といえば柏人しかないとすぐに思い至るあたり、朱浮もまったく能がないわけではない。だが彼の思考は自分本位が基本のため、柏人の存在は知覚していても敵がそこに伏兵を置くだろうとはまったく考えなかった。また仮に鄧禹が「柏人へ偵騎を」と進言しても、感情のまま激怒するか、わずらわしげに黙殺しただけであろう。
 それが朱浮の器量の限界と言えた。


 しかし今は朱浮の、人ではなく将としての器が試される状況だった。彼は自軍へ命令した。
「このまま前進!」
 それは意外なものであった。後方で奇襲を受け、為す術なく蹂躙されている友軍を見捨ててゆくつもりなのだろうか。
 だが朱浮にも考えがあった。
「ここで反転し、鄧禹を直接救けに向かっても逃げてくる兵に飲み込まれ、入り乱れ、自分たちも潰走に巻き込まれてしまう。であればこのまま前進し、大回りにまわって敵兵の後背を撃つ方がいい」
 正確な状況判断であり用兵であった。これが実行されれば朱浮に将才があることも証明されただろう。


 だがその命令は、下級指揮官や兵たちを混乱させた。
「将軍は味方を見捨てて逃げるのか」
 朱浮は言葉が足りなかった。
 いや、本来、軍隊の命令はそれでいい。だが朱浮の軍は士官もまだ未熟で、将の命令に従う前にその意図を深読みしてしまう。
 また兵の大半が農民・流民あがりなのは朱浮の兵も同様である。どのような命令でも鉄の意思でおこなえる精兵ではないのだ。
 混乱と困惑の中、彼らの足は止まり、進軍も停滞し、よどんでしまった。


 それでも敵兵が完全に勝ち戦となった鄧禹軍への攻撃に酔っていれば、朱浮が麾下の兵へ自らの意図を伝えなおす時間は得られたかもしれない。
 だが李育は目的を見失っていなかった。
「こちらはもういい。今度はもう一方の部隊だ!」
 潰乱状態になった鄧禹軍は放置しても勝手に崩壊してゆく。そう見切った李育は、間髪入れず攻撃目標の変更を指示した。
 意気揚がる李育の兵たちは、勝利の高揚感を戦意に変えて、今度は朱浮軍の後背に襲いかかる。
 友軍の救援にも行かず、前進もせず、混乱と困惑のなか立ちすくんでいた朱浮軍ではひとたまりもない。
 彼らもまた鄧禹軍と同じ運命にたたき落とされた。
 

 劉秀軍と李育軍の緒戦は、後者の完勝だった。
 彼らは鄧禹と朱浮が置き去りにした輜重を戦利品に、悠々と柏人へ帰還していった。


「なに、仲華と叔元(朱浮のあざな)が」
 本隊にも前軍の鄧禹と朱浮が、王郎の将の奇襲に大打撃を被った旨が届き、劉秀も表情を硬化させる。
「それで、二人は無事か」
「申し訳ありませぬ、わかりませぬ」
 兵のことも気になるが、やはり指揮官二人の安否も同等以上に気になる。劉秀は敗報を持ってきた兵に尋ねるが、彼自身が敗残兵で、命からがら本隊へ逃げ込んできた身である。将のゆくえを確認する余裕などなかった。


「そうか、わかった。行軍速度を上げよ。急ぎ鄧将軍と朱将軍を救援に向かう」
 奇襲を受け潰乱した以上、すでに勝敗は決まっている。だがすべての兵が殺傷されるわけもなく、逃げる彼らを急ぎ保護しなくてはならない。また鄧禹と朱浮が生きていれば、彼らの復命を受け、細かな戦闘の報告を聞く必要もあった。
 さらに自分たちの進軍が速まれば、鄧禹たちを奇襲した敵軍への牽制にもなるし、うまくゆけば捕捉・殲滅の好機を得られる可能性もある。
 このように諸々の理由から発した劉秀の命令は充分に合理的で客観性に富んだものだったが、押し隠した理由もあった。
「生きていろよ、仲華」
 言葉にも表情にも出さないが、私人としての劉秀が最も気になるのは、やはりそのことであった。


 増速した劉秀本隊の行軍速度は、李育の予想を上回った。
「なんだと、もうそれほど近くへ来たか」
 鄧禹と朱浮が置き捨てていった輜重を得て悠々と柏人への帰路を進んでいた李育だが、逃げてくる鄧・朱の敗残兵を収容しつつ近づいてくる劉秀本隊の位置を聞いて驚く。勝利に乗じて鄧禹たちを深追いしすぎたのと、勝ち戦に酔って劉秀本隊に対する偵察を怠ったことが響いてきたらしい。
 このままでは柏人に逃げ込む前に劉秀本隊に捕捉されるおそれがあった。
「輜重を捨てて逃げるのも惜しいしな…」
 戦利品として得た輜重を置いてゆけば行軍速度は上がり、柏人へ逃げ込める可能性は高まる。だが兵たちも敵の輜重を得たことは知っており、それが自分たちへの褒賞の一部になることも知っている。その期待を裏切れば、彼らの士気は大いに下がってしまうだろう。
「ここは一つ、兵の士気に賭けてみるか」
 李育軍はいま、漢軍の前軍を完全撃破し意気揚がっている。そして前軍だけとはいえ自軍が完敗したことは劉秀本隊にもすでに伝わっていることだろう。存在が知られた上に伏兵を敷く時間的余裕もなく奇襲もできないが、前軍の敗報は劉秀本隊のこちらに対する恐怖心をわずかには刺激しているはずである。
 勝ちに乗じた勢いのある自軍と、負けにより腰が引けたとまでは言わないがやや受け身になっているであろう漢軍。たとえ敵が数にまさろうと、勢いに任せて撃ち破ることも不可能ではないはずだ。そうなれば李育の武名は大いに揚がり、あるいは王郎陣営で劉林らを蹴落とし最上位に登りつめることも夢ではない。
「よし、劉秀本隊を討つぞ。なにしろ本隊だ。前軍以上に輜重も財宝も充実しているに違いない。おぬしらへの褒賞もどれだけ増えるかわからぬぞ。励めよ!」
 李育は兵の欲望を刺激する形で鼓舞し、兵たちも手にした武器や拳をかかげ、喚声をあげて応えた。


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