鄧禹

橘誠治

文字の大きさ
上 下
4 / 81
第一章 北州編

北へ

しおりを挟む
 更始帝の即位を知った王莽は、彼を討つため麾下の将軍に百万の兵を率いさせ、派兵した。
 この大軍を、劉秀がわずか三千の兵で撃ち破ってしまったのである。
 これと前後して兄の劉縯りゅうえんえん城を落とし、武名を輝かせたが、をもって衆を撃つほど鮮やかな勝利はない。ましてやこれほどの兵力差を覆してとなれば、戦史にも稀である。
 劉秀の名は同時代と歴史とに、華々しく登場した。


 昆陽の戦いの結果は当然鄧禹にも届き、劉秀をよく知る彼をすら驚倒させた。いや、よく知るからこそより驚き、そして劉秀の不可思議な器量により魅せられてしまっていた。
「いったい文叔どのは何者なのか」
 ますます自身の人物鑑定眼に収まらない器を示し始めた劉秀に、鄧禹は快哉とともに苦笑に似た表情で独りごちた。


 だが狭量な主君を持つ者に美名は諸刃の剣でもあった。
 劉縯りゅうえんが更始帝に殺されたのだ。やはり有能すぎる、あるいは評判のよすぎる男は、更始帝や側近(首領)たちにとって危険であり、目ざわりだったのである。
「文叔どのはご無事だろうか…」
 鄧禹の明敏さは劉縯りゅうえんのこの結末をある程度予想していたため、彼の死に対する衝撃はさほどではなかったが、それより心配なのは劉秀の身辺である。
 劉縯りゅうえんが殺された以上、劉秀に同じことが起こる可能性は充分あった。それどころか彼は昆陽の英雄なのだ。劉縯りゅうえん以上に危険な境遇かもしれない。
 だが今の鄧禹が劉秀のためにせることは何もなかった。彼は劉秀の無事を祈ることしかできなかった。


 その祈りは天ではなく劉秀本人に届いていたのかもしれない。
 彼は兄を殺害した更始帝と彼の側近を何一つ責めることはせず、不平すら漏らさず、むしろこれまで以上に従順に従っていた。
 これは当然、おのれの身の危険を強く感じたからである。少しでも彼らに逆らう素振りを見せればもちろん、不満を一言漏らしただけで誅殺する理由にされかねない。そうとわかっていれるだけに劉秀は、涙と怒りを全霊で押し殺しながら、兄の仇に膝を屈するしかなかったのである。
 こらえた涙は、夜、しょう(寝台)の枕に顔を押しつけながら声を殺して流した。それを知った臣下から同情を告げられても、感謝を隠して叱声を浴びせることまでした。せざるを得なかったのだ。
 この時期、長安では王莽おうもうが臣下に殺され、ついに新は滅亡したが、劉秀にそれを喜ぶ余裕はどこにもなかった。


 そのように劉秀の毎日は薄氷を踏むような危うさに満ちていたが、ついに好機がやってきた。
 更始帝が黄河以北(河北)を平定する将軍に、劉秀を任命したのだ。
 現在更始帝はえんを根拠地としていたが、ここにとどまっているだけでは天下に覇をとなえられない。彼は帝位に就いたとはいえ、実状は前述の通り各地に盤踞ばんきょする群雄の一人に過ぎず、他の勢力に逆転され、滅亡する恐れは大いにあったのだ。
 ゆえに名に実をともなわせるため、更始帝は天下を平定する具体的な行動を起こさなければならないのだが、その一つが河北制圧であった。河北は北州とも呼ばれ、多くの人が住む重要な地域である。そこを平定できれば、強大な勢力圏を得られるだけでなく、天下統一へ大きく前進することにもなるのだ。


 だが河北は遠く広い。更始帝や側近が遠隔で指示を与えるわけにはいかない。そもそも彼ら自身、別の地域の攻略に心血を注がなければならず、そんな余裕はなかった。ゆえに河北平定には、それが可能な力量を持つ優秀な将軍に、一定の軍事力とその指揮権、そして統治におけるまつりごとのほぼ全権を与える必要があったのだ。


 しかしこれには大きな危険をともなう。力量はあれど忠誠心の乏しい将軍に強大な軍事力を与えれば、簡単にそむかれ、分離独立されてしまう恐れがあるのだ。それだけでも自分たちの勢力が減殺されるし、それどころか叛いた将軍に自分たちの方が敗北し、吸収・滅亡させられる可能性すらある。
 河北平定の将軍候補には、劉秀の名もしばしば挙げられていた。だがその都度更始帝の側近たちが反対してきた。
 劉秀の能力には何の問題もない。だが彼の兄を殺した自分たちへの忠誠心。それは大いに問題があったのだ。


 だがついにそれが認められたのは、兄を殺された後の劉秀の従順さに更始帝たちが安堵を見たからだだった。
 これ以上北河平定を先延ばしにすることもできず、彼以上の人物が他にいなかったためという事情もあったが、それでも劉秀の謹慎が彼らの警戒を緩めさせる一因だったのは間違いない。


 更始元年(23年)十月。劉秀は破虜将軍・大司馬として黄河を渡る。
 彼はついに行動の自由を得たのだ。


 新野でこの報を聞いた鄧禹は、またしても驚倒し、歓喜した。なにしろ「劉秀が殺された」という報がいつやってくるかを恐れる毎日だったのが、まったく逆の「劉秀、行動の自由を得る」という、ほとんどあきらめていた朗報に変じてやってきたのである。
「まったく文叔どのは、どこまで私を驚かせてくれるのか」
 と、鄧禹が大笑するのも無理はなかった。


 だがこれは鄧禹の人生を決する報でもあった。彼が唯一臣従したいと考えていた男が、ついに自由を手にしたのである。この機を逃すわけにはいかなかった。
 鄧禹は急ぎ旅支度を終えると、家族に別れを告げ、一路北を目指して出発した。


 河北と言っても広い。だが鄧禹は初動が早く、また道々劉秀軍がどこにいるかの情報も集めていた。
 更始帝のもとを離れた劉秀の鎮撫ちんぶ隊が各部県ですることは以下の事柄である。
 役人の成績を精査し、功績の無い者をめさせ、有る者を昇進させ、無実の罪で捕らわれていた者を釈放し、王莽がおこなった煩雑はんざつで無意味な制度を前漢時代のものへ戻してゆく。
 まつりごとの基礎や初歩ばかりであるが、初歩を堅実にこなしてゆくことが乱世の民にとってこれ以上ない善政であった。
 当然これらは各地の人々に歓迎され、噂として鄧禹の耳にも届き、彼はさほどの苦労もなくぎょうへたどり着いたのだ。
 それでも劉秀との再会は思わぬ形で、そのことからも鄧禹は彼との縁をおもしろく感じていた。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

廃后 郭聖通

橘誠治
歴史・時代
約二千年前の中国。 前漢王朝が滅ぼされ、簒奪した新王朝も短い治世を終えようとしている頃、地方名家の娘である郭聖通は、一人の武将と結婚することになった。 武将の名は劉秀。 後漢王朝初代皇帝・光武帝となる男であり、彼の妻である聖通は皇后となる。 だが彼女は将来、ある理由から皇后を廃されることになり…… -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。 歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。 上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。 ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。 そんな風に思いながら書いています。

延岑 死中求生

橘誠治
歴史・時代
今から2000年ほど前の中国は、前漢王朝が亡び、群雄割拠の時代に入っていた。 そんな中、最終勝者となる光武帝に最後まで抗い続けた武将がいた。 不屈の将・延岑の事績を正史「後漢書」をなぞる形で描いています。 ※この作品は史実を元にしたフィクションです。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

陣借り狙撃やくざ無情譚(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)

牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)猟師として生きている栄助。ありきたりな日常がいつまでも続くと思っていた。  だが、陣借り無宿というやくざ者たちの出入り――戦に、陣借りする一種の傭兵に従兄弟に誘われる。 その後、栄助は陣借り無宿のひとりとして従兄弟に付き従う。たどりついた宿場で陣借り無宿としての働き、その魔力に栄助は魅入られる。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

北宮純 ~祖国無き戦士~

水城洋臣
歴史・時代
 三国時代を統一によって終わらせた晋(西晋)は、八王の乱と呼ばれる内紛で内部から腐り、異民族である匈奴によって滅ぼされた。  そんな匈奴が漢王朝の正統後継を名乗って建国した漢(匈奴漢)もまた、僅か十年で崩壊の時を迎える。  そんな時代に、ただ戦場を駆けて死ぬ事を望みながらも、二つの王朝の滅亡を見届けた数奇な運命の将がいた。  その名は北宮純。  漢民族消滅の危機とまで言われた五胡十六国時代の始まりを告げる戦いを、そんな彼の視点から描く。

処理中です...