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第一章 北州編
乱世開始
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新野へ帰った鄧禹だが、仕官することもなく、実家で無為の日々を送っていた。
一つにはいかに聡明で博学でも、鄧禹は仕官するには若すぎるという事情がある。また一つには、前述の通り彼の家は地元の名家で、無理に働く必要もなかった。
だが鄧禹自身にはもう一つ存念があった。時流が風雲を告げてきていると感じていたのだ。
復古政策を推し進めた王莽の政は混乱を極めていた。周代の理想に戻そうとするだけでなく、土地、役職などの名称を変更。貨幣も抜本から造り変えるなど、漢のすべてを刷新していた。それらが社会にとって必要なものであるならまだしも、まったく不要の変更であるため、各地の混乱と混迷は加速度的に深まっていたのだ。
そんな中、天鳳四年(西暦17年)、息子を役人に殺されたことを怨んだ呂母と呼ばれる女が、土地の若者を集めて蜂起。彼女の念願はかない、役人を殺して息子の仇を討ったが、若者たちはそこで解散せず勢力を保ったまま、時代の先駆けとして叛乱の狼煙を挙げた。
彼らは敵味方を見分けるため自らの眉を赤く塗ったため、「赤眉(軍)」と称されることになる。
赤眉の蜂起は、新王朝崩壊の蟻の一穴となった。なにしろ中華全土が新に対する不満と憤懣に満ちていたのだ。針でつつけばはじける風船のように、各地に同様の蜂起が起こるのは、むしろ自然な流れと言えた。
それら叛乱勢力に対して新も討伐軍を発し、時代は混沌と混迷を深めてゆく。
が、鄧禹は動かなかった。彼の異才は近隣でも有名であり、天下に名を馳せるため、あるいは人民の平穏のため、鄧禹に蜂起をうながす者、叛乱勢力への合流を勧める者は多数いた。
しかし鄧禹は頑として動かない。
「人がいない」
自邸の一室に寝ころび、天井を見上げながら鄧禹はつぶやく。彼が動かない理由はこれだった。
彼の言う「人」とは兵のことではない。首領たる人物のことだった。彼の見るところ、叛乱勢力の首領たちには器量も志もなかった。ただただ暴れ、殺し、奪い、むさぼるだけである。これでは鄧禹も身命を賭して仕えるなど不可能だった。
そのようなわけで鄧禹は、晴耕雨読あるいは無為徒食に近い生活を送っていたが、一つだけ熱心におこなっていたことがあった。情報収集である。
といって独自の情報網を所有しているわけではないし、私設の諜報機関を持っているわけでもない。いくら名家の子弟と言えど、あくまで一地方のこと、そこまでの人脈も権力もなかった。
だが名家である以上、客人は多いし、旅人や商人が寄ることも多かった。鄧禹はそのような人物が訪れるたび、必ず歓待し、彼らが知っていることを可能な限り細大漏らさず聞かせてもらったのである。
中には根も葉もない噂話もあるし、そうでなくともあやふやで根拠の乏しい情報も少なくない。だが玉石混淆のそれらを鄧禹は精査し、事実と思われるものを集めてゆく。また噂話にも意味はある。そこには必ず人々の願望や心情が加味されている。「人心のおもむくところ」というもので、それらの方向性を感知できれば、次の予測も立てやすくなる。
それでもやはり、鄧禹の元へやってくる情報は、玉どころか「石」の数すら少ないのが現実であるが、時には完全なる事実として伝わってくる確報もあった。
「ついに劉氏が立ったか」
断片的に聞こえてくる戦乱の噂。その中で地皇4年(西暦23年)、劉玄という劉氏が皇帝を自称し、漢王朝の再興を宣言した。
歴史上、更始帝と呼ばれる皇帝である。これにより地皇4年は更始政権が制定した元号で更始元年とも呼ばれる。
漢の再興といっても実態は数ある叛乱勢力の一つに過ぎず、いまだ新王朝の方が巨大な存在であることに変わりはない。
だがこの宣言には大きな意味があった。前述の通り、新王朝の政は王莽の行き過ぎた理想を根幹としているため、中華全土を混乱と混沌に落とし込むものだった。また王莽の建国は漢からの簒奪であり、彼に不満を持つ新の廷臣=漢の遺臣も多かったのだ。
臣下に不信を、民衆に不満を抱かれる国家が支持を得られるはずもなく、畢竟、人々は漢の世を懐かしみ、復興を望むようになる。
「漢の世もひどかったが今よりはましだ」
というわけである。
ゆえに劉玄の即位は、大義名分においても、民意においても、新の治世を打ち割る巨大な一石だったのだ。
だがこれにより、時代は明確に乱世へ陥ってゆく。
劉玄は在野に降った数多ある皇族の末裔であり、名目上、帝位に就くのに問題はない。だが彼は人となりに難があり、ありていに言えば卑小な俗人でしかなく、むしろそれゆえに叛乱勢力の首領たちに「皇帝」に選ばれたのだ。優秀すぎる人物では傀儡(かいらい)にできないからである。
実はもう一人、皇帝候補はいた。劉玄と同じ劉氏の末裔で、氏名は劉縯、あざなは伯升である。
諸勢力の中では彼を推す声も大きかった。
劉縯は若い頃から大度であり、多くの賓客(子分)を連れ歩く侠客でもあった。それゆえこの乱世において彼を慕って集まる者も多く、少なくとも劉玄よりははるかに勇敢で人望があり、その評判は新の皇帝・王莽にすら恐れられるほどであった。
だがそれゆえに彼は傀儡には向かず、首領たちから避けられ、帝位に就くことができなかったのだ。
鄧禹の耳にも劉縯の評判は届いていた。が、彼にとってその名は別の意味も持っていた。
劉縯は長安で親しくかわいがってくれた劉秀の兄だったのだ。正確には劉縯が長男で、劉秀は三男である(次男は起兵直後の戦いで戦死)。そして劉縯の陣営には、当然のように劉秀がいた。
「文叔どのがいるのか…」
それは鄧禹の心を浮き立たせ、同時に失望も味わわせた。
「文叔どのが自由な裁量を働かせられる立場になればおもしろいのだが…」
鄧禹は劉縯を詳しく知らない。だが評判を聞くだけであれば、そして評判通り真の大器であれば、いかにも皇帝らしい皇帝になるだろうと思われる。
それはそれで鄧禹にも不満はない。彼に臣従し、乱世を収め、漢王朝を復興させ、民に平安をもたらす。きっと意義があり、やりがいもあることだろう。
だが鄧禹は劉秀を知ってしまった。彼の不思議な器量は、あるいは皇帝らしくない皇帝を生み出すかもしれない。劉秀に従って新たな王朝を創り出す仕事は、きっととてもおもしろい。
そして何より、鄧禹は劉秀が好きであった。
しかし現に帝位に就いたのは劉玄である。仮に劉縯が皇帝になったとしても、その地位が劉秀に回ってくる可能性は低い。そもそもいま劉秀が皇帝になったとしても、それは首領たちの傀儡に成り下がるということである。下手に自主性を出せば、あっさりと帝位から引きずりおろされるだけでなく、悪くすれば殺されるかもしれないのだ。
これでは鄧禹が彼のもとへ参じても、何もできはしないだろう。
結局、鄧禹はまだ動かなかった。というより動けなかった。
だが事態は、あるいは時代は、鄧禹の思惑を越えて動いてゆく。その中の一つに、歴史に特筆される戦いがあった。
昆陽の戦いである。この戦いの主役は劉秀であった。
一つにはいかに聡明で博学でも、鄧禹は仕官するには若すぎるという事情がある。また一つには、前述の通り彼の家は地元の名家で、無理に働く必要もなかった。
だが鄧禹自身にはもう一つ存念があった。時流が風雲を告げてきていると感じていたのだ。
復古政策を推し進めた王莽の政は混乱を極めていた。周代の理想に戻そうとするだけでなく、土地、役職などの名称を変更。貨幣も抜本から造り変えるなど、漢のすべてを刷新していた。それらが社会にとって必要なものであるならまだしも、まったく不要の変更であるため、各地の混乱と混迷は加速度的に深まっていたのだ。
そんな中、天鳳四年(西暦17年)、息子を役人に殺されたことを怨んだ呂母と呼ばれる女が、土地の若者を集めて蜂起。彼女の念願はかない、役人を殺して息子の仇を討ったが、若者たちはそこで解散せず勢力を保ったまま、時代の先駆けとして叛乱の狼煙を挙げた。
彼らは敵味方を見分けるため自らの眉を赤く塗ったため、「赤眉(軍)」と称されることになる。
赤眉の蜂起は、新王朝崩壊の蟻の一穴となった。なにしろ中華全土が新に対する不満と憤懣に満ちていたのだ。針でつつけばはじける風船のように、各地に同様の蜂起が起こるのは、むしろ自然な流れと言えた。
それら叛乱勢力に対して新も討伐軍を発し、時代は混沌と混迷を深めてゆく。
が、鄧禹は動かなかった。彼の異才は近隣でも有名であり、天下に名を馳せるため、あるいは人民の平穏のため、鄧禹に蜂起をうながす者、叛乱勢力への合流を勧める者は多数いた。
しかし鄧禹は頑として動かない。
「人がいない」
自邸の一室に寝ころび、天井を見上げながら鄧禹はつぶやく。彼が動かない理由はこれだった。
彼の言う「人」とは兵のことではない。首領たる人物のことだった。彼の見るところ、叛乱勢力の首領たちには器量も志もなかった。ただただ暴れ、殺し、奪い、むさぼるだけである。これでは鄧禹も身命を賭して仕えるなど不可能だった。
そのようなわけで鄧禹は、晴耕雨読あるいは無為徒食に近い生活を送っていたが、一つだけ熱心におこなっていたことがあった。情報収集である。
といって独自の情報網を所有しているわけではないし、私設の諜報機関を持っているわけでもない。いくら名家の子弟と言えど、あくまで一地方のこと、そこまでの人脈も権力もなかった。
だが名家である以上、客人は多いし、旅人や商人が寄ることも多かった。鄧禹はそのような人物が訪れるたび、必ず歓待し、彼らが知っていることを可能な限り細大漏らさず聞かせてもらったのである。
中には根も葉もない噂話もあるし、そうでなくともあやふやで根拠の乏しい情報も少なくない。だが玉石混淆のそれらを鄧禹は精査し、事実と思われるものを集めてゆく。また噂話にも意味はある。そこには必ず人々の願望や心情が加味されている。「人心のおもむくところ」というもので、それらの方向性を感知できれば、次の予測も立てやすくなる。
それでもやはり、鄧禹の元へやってくる情報は、玉どころか「石」の数すら少ないのが現実であるが、時には完全なる事実として伝わってくる確報もあった。
「ついに劉氏が立ったか」
断片的に聞こえてくる戦乱の噂。その中で地皇4年(西暦23年)、劉玄という劉氏が皇帝を自称し、漢王朝の再興を宣言した。
歴史上、更始帝と呼ばれる皇帝である。これにより地皇4年は更始政権が制定した元号で更始元年とも呼ばれる。
漢の再興といっても実態は数ある叛乱勢力の一つに過ぎず、いまだ新王朝の方が巨大な存在であることに変わりはない。
だがこの宣言には大きな意味があった。前述の通り、新王朝の政は王莽の行き過ぎた理想を根幹としているため、中華全土を混乱と混沌に落とし込むものだった。また王莽の建国は漢からの簒奪であり、彼に不満を持つ新の廷臣=漢の遺臣も多かったのだ。
臣下に不信を、民衆に不満を抱かれる国家が支持を得られるはずもなく、畢竟、人々は漢の世を懐かしみ、復興を望むようになる。
「漢の世もひどかったが今よりはましだ」
というわけである。
ゆえに劉玄の即位は、大義名分においても、民意においても、新の治世を打ち割る巨大な一石だったのだ。
だがこれにより、時代は明確に乱世へ陥ってゆく。
劉玄は在野に降った数多ある皇族の末裔であり、名目上、帝位に就くのに問題はない。だが彼は人となりに難があり、ありていに言えば卑小な俗人でしかなく、むしろそれゆえに叛乱勢力の首領たちに「皇帝」に選ばれたのだ。優秀すぎる人物では傀儡(かいらい)にできないからである。
実はもう一人、皇帝候補はいた。劉玄と同じ劉氏の末裔で、氏名は劉縯、あざなは伯升である。
諸勢力の中では彼を推す声も大きかった。
劉縯は若い頃から大度であり、多くの賓客(子分)を連れ歩く侠客でもあった。それゆえこの乱世において彼を慕って集まる者も多く、少なくとも劉玄よりははるかに勇敢で人望があり、その評判は新の皇帝・王莽にすら恐れられるほどであった。
だがそれゆえに彼は傀儡には向かず、首領たちから避けられ、帝位に就くことができなかったのだ。
鄧禹の耳にも劉縯の評判は届いていた。が、彼にとってその名は別の意味も持っていた。
劉縯は長安で親しくかわいがってくれた劉秀の兄だったのだ。正確には劉縯が長男で、劉秀は三男である(次男は起兵直後の戦いで戦死)。そして劉縯の陣営には、当然のように劉秀がいた。
「文叔どのがいるのか…」
それは鄧禹の心を浮き立たせ、同時に失望も味わわせた。
「文叔どのが自由な裁量を働かせられる立場になればおもしろいのだが…」
鄧禹は劉縯を詳しく知らない。だが評判を聞くだけであれば、そして評判通り真の大器であれば、いかにも皇帝らしい皇帝になるだろうと思われる。
それはそれで鄧禹にも不満はない。彼に臣従し、乱世を収め、漢王朝を復興させ、民に平安をもたらす。きっと意義があり、やりがいもあることだろう。
だが鄧禹は劉秀を知ってしまった。彼の不思議な器量は、あるいは皇帝らしくない皇帝を生み出すかもしれない。劉秀に従って新たな王朝を創り出す仕事は、きっととてもおもしろい。
そして何より、鄧禹は劉秀が好きであった。
しかし現に帝位に就いたのは劉玄である。仮に劉縯が皇帝になったとしても、その地位が劉秀に回ってくる可能性は低い。そもそもいま劉秀が皇帝になったとしても、それは首領たちの傀儡に成り下がるということである。下手に自主性を出せば、あっさりと帝位から引きずりおろされるだけでなく、悪くすれば殺されるかもしれないのだ。
これでは鄧禹が彼のもとへ参じても、何もできはしないだろう。
結局、鄧禹はまだ動かなかった。というより動けなかった。
だが事態は、あるいは時代は、鄧禹の思惑を越えて動いてゆく。その中の一つに、歴史に特筆される戦いがあった。
昆陽の戦いである。この戦いの主役は劉秀であった。
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