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23話 ブラックダリア
しおりを挟む私は急いで受付へと向かった。鉄球を鎖で繋いでるかのように足が重たい。
「怜奈さん!」
私が視界に捉えるより先に鋭い声が耳に突き刺さった。受付から少し離れた場所に立っていた彼女はなぜか着物を着ていた。そういえば着付け教室に通い出したとか聞いたような気がする。それ終わりで直接来たのだろうか。なんでも最近、高い着物を何枚も買っているという話だ。
「こんにちは八重子さん。あの、少し場所を移してもいいでしょうか?」
「あら、もうお義母さまとは呼ばないのね。まあいいでしょう」
彼女は背筋をピンと伸ばし、私の後について歩く。コーヤ達は兄弟揃ってどちらも顔が整っている。おそらく母親に似たのだろう。彼女はすでに五十を過ぎているが、非常に若々しくおキレイな方だ。昔はどこぞの劇団で女優をやっていたという話を聞かされたことがある。
できれば穏便に話をしてすぐに帰ってほしいけど、きっとそうはいかないだろう。私は相手のペースにならぬよう、あえて会社の近くのお洒落なカフェに入った。そしてなるべく人目につくテラス席に案内してもらった。
「天助から聞きました。あなた警察に被害届を出すと息子を脅しているそうね?」
「脅している訳ではないです。襲われたのは事実なので。彼はどういう風に言ってるんですか?」
「テンちゃんはあなたが誤解してると言ってたわ。あれはそういうプレイのひとつで――あなたはそういうのが好きなんでしょう?」
やや馬鹿にしたような嗤いを浮かべ、彼女は口元をハンカチで押さえた。奥歯を強く噛んで怒りをぐっと堪える。
「映像は見て頂けました? あれはれっきとした犯罪行為です」
「ええ見たわよ。天ちゃんもなかなかの迫真の演技よね。きっと私の才能を受け継いだのね」
「不同意わいせつ罪というのはご存知ですか? あれは誰がどう見ても無理矢理です」
私がそう言い返すと、彼女は眉根を寄せ不機嫌さを露《あらわ》にした。上品な仕草でカップの紅茶を一口飲むと小さく咳払いをした。
「あなたはもともとテンちゃんとそういう関係にあったのよね? それでいきなり襲われたとか言われても警察は取り合ってくれるかしら? しかも、あなたはてっきり光矢とお付き合いしていると思っていたのだけど、テンちゃんまで誑《たぶら》かして……。そんな人の言い分が信じてもらえるかしら」
「浮気に関しては申し開きのしようはございません。その点は謝ります。ただそれとこれとは――」
「なにが謝りますよあなた! うちの大事な二人の息子を傷付けておいていけしゃあしゃと! こっちが慰謝料貰いたいくらいよ! この尻軽女が! まさかうちの主人にも色目使ってないでしょうね!?」
さすがは元舞台女優。彼女の声は遠くまで響き渡った。周囲の視線が一斉に私たちの方へと集まる。すると彼女はまるでシーンが変わったように、今度はほろほろと涙を流し始めた。
「きっと光矢は辛かったでしょう……テンちゃんも兄を裏切ってしまったことをとても悔やんでいたわ。あなたはこんなにも周りの人を傷付けたのよ? それでもまだ足りないの? お願いだからこれ以上、私の家族を苦しめないで……」
目頭をハンカチで拭い、彼女は肩を震わせていた。私は唖然として何も言葉が出てこなかった。いつしか自分自身でも、まるで私が椋木家を食い荒らす害虫のように思えてきてしまった。そしてなおも彼女の一人芝居は続く。
「テンちゃんは親思いの優しい子なの。テンちゃんの優しさはあなたも知ってるわよね? ね? 光矢も昔は自慢の息子だったけど、今は碌な仕事もしてないで……あなたもそんな光矢が嫌だったんでしょう? だからテンちゃんに心変わりしたのよね? いいのよ。あなだって立派な会社に勤めているし、もう光矢を養ってくれなくてもいいの。あなたはテンちゃんと一緒になるのが一番良いのよ。そしたら私たちはきっと素敵な家族になれる」
その後も彼女の話は延々と続き、気が付けば会社の就業時間はとっくに過ぎていた。私は上司にこっぴどく怒られた挙句、遅くまで残業する羽目となった。
午後4時を回り僕はようやく物件探しを終えて家路へと着いた。一日中不動産巡りをしたが、結局希望に合うものは見つからなかった。一つだけ格安で部屋も広く築四年のいい物件があったので内見をしたのだが、不動産屋の人がぽろっと言った一言がとても気になった。
「いい部屋でしょう。三年くらい誰も住んでないのでまだまだ新築みたいなもんですよ」
確か事故物件の告知義務は三年だったような……。僕は不動産屋さんが席を外した隙を見てナクトを取り出した。日時をちょうど三年前の今日の日付に設定してみる。
そして恐る恐る部屋の壁にナクトを押し当てる。するとそこにはロフトからロープが吊るされ、そこにぶら下がっている男性らしき姿があった。思わずナクトを落としそうになり慌ててキャッチする。そしてしばらく固まったまま、僕はその場を動くことが出来なかった。
戻って来た不動産屋の人と部屋を出る際、僕は見られないように手を合わた。もちろん契約の方は丁重にお断りした。
ナクトが不幸を呼ぶのか、はたまた僕が呼んでいるのか。最近は心休まる時間がない。憂鬱な気分のまま僕は電車に揺られていた。帰宅ラッシュは避けようと思ってはいたが、車内はわずかに混み始めていた。
「きゃー! 痴漢!」
突然女性の声が鳴り響く。悲鳴を上げたのは僕の斜め前に立っていた女性だった。
「こいつだ! こいつが触ってたぞっ!」
その女性の真後ろにいたスーツ姿の男性が僕の腕をいきなり掴んだ。そしてまるでボクシングの勝者のように僕の手を高々と掲げていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
第23話を読んで頂きありがとうございます。
ブラック・ダリア事件とはかつてハリウッドで起きた未解決事件です。
ちなみにダリアは通常八つの花弁からなり、八重咲きの美しい種類もあります。
花言葉は「華麗」「気品」「移り気」そして「裏切り」。
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