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幼子
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気持ちを落ち着けたシーナは、いつの間にか馬車の揺れで眠ってしまった。
前世で乗っていたハイブリッドカーのような静かで振動が来ないように設定された乗り物ではないため、時折道端の小石を車輪が踏んで馬車が少しばかり乱暴に傾いでも、まったく気にせずに眠り込んでいる──アルベールの膝の上で。
けっきょく肩を抱くこともできずにあわあわとしていたアルベールに気付くことなく、ゆっくりとシーナは呼吸を繰り返し、そのままずるずると寄りかかっていた逞しい胸から落ちて、勝手に膝の上に落ち着いたのである。
子供の時のままの無防備な寝姿は姿かたちが違うにも拘らず、窮屈なはずの座席の上で猫のように少し丸くなっているのが『詩音』の時のままで、リオンは少しだけ鼻の奥が痛くなった。
眠ったふりをしていてよかった。
少しだけ涙が滲みかけたが、シーナに気を取られているアルベールはこちらに気付くことなく、馬車の揺れでその細い身体が床に落ちないことだけを気にするようになったらしい。
いい傾向だ──ふっと笑って気を抜いた瞬間に、不覚にもリオン自身もそのまま寝入ってしまった。
前世では男女の双子だったというリオン王太子とシーナ嬢。
仕えるべき主君と決めたのはいったいいつだったのか──
ルエナより先に王太子と初対面したのは、アルベールが四歳と半年の頃、リオン王太子は三歳の誕生日を迎えて少し経ってからだった。
利発そうな顔をしながらも恥ずかしそうにこちらを伺い、お茶会を開催した王妃様に促されて、ようやくぺこりと挨拶をしたその王太子殿下をすぐに『我が主』と認めたわけではない。
逆に「こんなオドオドしたおうじがしょうらいおうさまになるなんていやだな」と生意気に思ったぐらいで、四歳の子供が三歳になったばかりの幼児に将来性を見出すのは難しかった。
むろん大人たちから見たふたりの印象はそれぞれ違い、アルベールは年齢の割に剣術に才能があり、リオンはリオンで実はこの頃からアルベールが日頃乳母に読んでもらうような絵本はすべて読破しきるほどの読書家であることが、その日の話題であった。
「ありゅべーりゅ」
「アルベール」
「あ…る…べりゅ!」
「ですから……」
幼児独特の発音で名前を呼ばれたアルベールは、ガリガリと地面を引っ掻く音に気が付いた。
「えっ……」
そこには小さい指で小さい石を掴み、噴水の側の石畳に線がのたくっているが──間違いなく「アルベール」の綴りと思われる形をしている。
「ありゅ…おうちのにゃまえ?」
「えっ…あ…あの……せ、せんれいは『ラダ』、かめいは『ディーファン』……です」
「りゃ…だぁ…でぃ…ふぁ……れきた!」
少し間違いはあるものの、やはりリオン王子は聞いたとおりに文字を綴り、アルベールに向かって得意そうに笑顔を向けてきた。
これは少し前に誕生日プレゼントとしてもらった、王国初の顔料を蜜ろうで固めた『クレヨン』的な物を使って文字や数字を本の見様見真似で書いたら大人たちがめちゃくちゃ騒ぎ、知らせを受けた父と母がめちゃくちゃ親バカ丸出しで『天才だ!』と喜んでくれたのを学習したリオンが、同じようにしたらアルベールも喜んでくれると思ってやったのである。
「ありゅ……?」
ところが『おにいさん』は喜んでくれるどころか、何かわなわなと震えている。
しかも顔を赤くして少し目を潤ませているが、喜びの顔ではなく、何となく怒っているようにも見えた。
「なっ…なっ…何でっ……」
「んにゃ?」
「なんでっ!そんなのかけるんだっ?!」
「ふ……」
「ぼっ…ぼくだって…ま、まだっ……」
気持ち良く会話していた大人たちが気が付いた時には、座り込んだリオンとその傍に立っているアルベールが揃って大泣きしていた。
前世で乗っていたハイブリッドカーのような静かで振動が来ないように設定された乗り物ではないため、時折道端の小石を車輪が踏んで馬車が少しばかり乱暴に傾いでも、まったく気にせずに眠り込んでいる──アルベールの膝の上で。
けっきょく肩を抱くこともできずにあわあわとしていたアルベールに気付くことなく、ゆっくりとシーナは呼吸を繰り返し、そのままずるずると寄りかかっていた逞しい胸から落ちて、勝手に膝の上に落ち着いたのである。
子供の時のままの無防備な寝姿は姿かたちが違うにも拘らず、窮屈なはずの座席の上で猫のように少し丸くなっているのが『詩音』の時のままで、リオンは少しだけ鼻の奥が痛くなった。
眠ったふりをしていてよかった。
少しだけ涙が滲みかけたが、シーナに気を取られているアルベールはこちらに気付くことなく、馬車の揺れでその細い身体が床に落ちないことだけを気にするようになったらしい。
いい傾向だ──ふっと笑って気を抜いた瞬間に、不覚にもリオン自身もそのまま寝入ってしまった。
前世では男女の双子だったというリオン王太子とシーナ嬢。
仕えるべき主君と決めたのはいったいいつだったのか──
ルエナより先に王太子と初対面したのは、アルベールが四歳と半年の頃、リオン王太子は三歳の誕生日を迎えて少し経ってからだった。
利発そうな顔をしながらも恥ずかしそうにこちらを伺い、お茶会を開催した王妃様に促されて、ようやくぺこりと挨拶をしたその王太子殿下をすぐに『我が主』と認めたわけではない。
逆に「こんなオドオドしたおうじがしょうらいおうさまになるなんていやだな」と生意気に思ったぐらいで、四歳の子供が三歳になったばかりの幼児に将来性を見出すのは難しかった。
むろん大人たちから見たふたりの印象はそれぞれ違い、アルベールは年齢の割に剣術に才能があり、リオンはリオンで実はこの頃からアルベールが日頃乳母に読んでもらうような絵本はすべて読破しきるほどの読書家であることが、その日の話題であった。
「ありゅべーりゅ」
「アルベール」
「あ…る…べりゅ!」
「ですから……」
幼児独特の発音で名前を呼ばれたアルベールは、ガリガリと地面を引っ掻く音に気が付いた。
「えっ……」
そこには小さい指で小さい石を掴み、噴水の側の石畳に線がのたくっているが──間違いなく「アルベール」の綴りと思われる形をしている。
「ありゅ…おうちのにゃまえ?」
「えっ…あ…あの……せ、せんれいは『ラダ』、かめいは『ディーファン』……です」
「りゃ…だぁ…でぃ…ふぁ……れきた!」
少し間違いはあるものの、やはりリオン王子は聞いたとおりに文字を綴り、アルベールに向かって得意そうに笑顔を向けてきた。
これは少し前に誕生日プレゼントとしてもらった、王国初の顔料を蜜ろうで固めた『クレヨン』的な物を使って文字や数字を本の見様見真似で書いたら大人たちがめちゃくちゃ騒ぎ、知らせを受けた父と母がめちゃくちゃ親バカ丸出しで『天才だ!』と喜んでくれたのを学習したリオンが、同じようにしたらアルベールも喜んでくれると思ってやったのである。
「ありゅ……?」
ところが『おにいさん』は喜んでくれるどころか、何かわなわなと震えている。
しかも顔を赤くして少し目を潤ませているが、喜びの顔ではなく、何となく怒っているようにも見えた。
「なっ…なっ…何でっ……」
「んにゃ?」
「なんでっ!そんなのかけるんだっ?!」
「ふ……」
「ぼっ…ぼくだって…ま、まだっ……」
気持ち良く会話していた大人たちが気が付いた時には、座り込んだリオンとその傍に立っているアルベールが揃って大泣きしていた。
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