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孤立
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高位貴族は下位貴族や平民に対して頭を下げる必要はない──その言葉を頭の中だけで反芻するが、それを打ち砕くかのように、元・乳母は言葉を続けた。
「ですからわたくしも『精一杯務めさせていただきます』と返礼いたしました。使用人の礼で」
「えっ?!」
思わずルエナはポリエットを見つめた。
彼女は伯爵夫人である。
当時赤ん坊を死産したポリエットはまずアルベールのために乳母として雇われ、その一年後に産まれたルエナに父は与えなかったものの、そのまま屋敷に残ってふたりをそれぞれ五歳まで面倒を看ていてくれたのだが、その彼女が離縁されたのをきっかけに、父の友人であるサフェント伯爵が後妻にと望まれて嫁いだ。
歳は十歳以上離れていたが仲の良い夫婦で、伯爵は今回ルエナのために妻がディーファン公爵家に出向くのを快く承諾してくれたほどである。
その伯爵夫人が頭を下げた──格下の、しかも『子爵令嬢』という未成年だからこそ名乗れる、爵位とは認められていない通称の地位の者に。
「な……ぜ……?」
「『何故?』でございますか?わたくしとて、元はただの農婦でございます。たまたま坊ちゃまがお生まれになった時に乳が出る女として雇われ、そしてルエナお嬢様を女家庭教師にお渡しするまでのただの乳母でございます。見初められて伯爵様の後添えとして迎え入れられましたが、わたくしにも屋敷の者たちは皆使用人としての品格と線引きを持って接してくださいました。誰ひとりとして『ただの農婦のくせに』と蔑む者はおりませんでしたよ」
伯爵家ならば、使用人とて下位貴族の爵位をもらえぬ子息令嬢たちであろう。
それならばポリエットが平民でも気付かずに敬うはずだ。
ルエナはその喩えではさっぱり理解も共感もできず、逆に高位貴族の端にある伯爵夫人が何故格下の者にまで丁寧なのかと、意固地な気持ちが湧いてくる。
「……まだおわかりになりませんか?」
「何よ」
思わず子供のように頬を膨らませるルエナに、ポリエットはわからないように小さく溜め息をつく。
「わたくしはこの公爵家でも乳母として敬意を払われ、平民ではあってもきちんと礼を尽くされ、お嬢様たちが公の場でご挨拶に出る際の付き添い人として人前に出ても恥ずかしくないほどの礼儀作法を、奥様の専属侍女方に仕込んでいただきました」
「え」
「どなたもわたくしの生まれを蔑み、『やっても身につくはずがない』などとはおっしゃいませんでした。お嬢様はお小さい頃、わたくしと共にご挨拶をされて、わたくしが平民であることを馬鹿にされたり意地悪をされましたか?」
「え……い、いいえ……」
むしろその逆で、彼女がいなくなって女家庭教師がついてからルエナが格下の者に挨拶されても自分は名乗らず、軽く頷くだけで話すらしないことを『親の地位があるだけの礼儀知らずの子供のくせに…』とヒソヒソと小声で話す嫌な表情をした大人たちがいたことを思い出す。
彼ら彼女らはルエナがその声が聞こえた方へ顔を向けると、頭を下げるのではなく、そそくさとその場を離れていったが、その際にルエナを馬鹿にしたような笑みを浮かべており、そのことを不快だと自分が従えた侍女を通して主催者に言いつけるようにと命じたこともあった。
しかもそんな態度のルエナを煽るかのように、周囲に近付いてきた者たちがさらに下位の者を貶めすような言動も──
そうですわ、ルエナ様。あんな者に微笑みかけるなんて、思い上がってしまうんですから、無視して当然ですわ!
さすがルエナ様ですわ!下位貴族は礼儀作法も知らないんですもの。話しかけるだけ無駄ですわ!
将来の王太子妃に対して気軽に話しかけるなんて、自分が何様かと思っているのかしらねぇ~?
そう言って笑い合う高位貴族令嬢たちが、今度はルエナのいない場所で貶められた者を慰め、自分たちの意思ではなくルエナに命じられて嫌々ながらあんな態度を取ったのだと言いくるめていることを、ルエナ自身は知らなかった。
そうやって孤立させられ、味方どころか敵すら近付かないひとりぼっちで守る者も守ってくれる者もいなかったのに、ルエナはそれにすら気付かないほど視界も思考も狭くなっていたのである。
「ですからわたくしも『精一杯務めさせていただきます』と返礼いたしました。使用人の礼で」
「えっ?!」
思わずルエナはポリエットを見つめた。
彼女は伯爵夫人である。
当時赤ん坊を死産したポリエットはまずアルベールのために乳母として雇われ、その一年後に産まれたルエナに父は与えなかったものの、そのまま屋敷に残ってふたりをそれぞれ五歳まで面倒を看ていてくれたのだが、その彼女が離縁されたのをきっかけに、父の友人であるサフェント伯爵が後妻にと望まれて嫁いだ。
歳は十歳以上離れていたが仲の良い夫婦で、伯爵は今回ルエナのために妻がディーファン公爵家に出向くのを快く承諾してくれたほどである。
その伯爵夫人が頭を下げた──格下の、しかも『子爵令嬢』という未成年だからこそ名乗れる、爵位とは認められていない通称の地位の者に。
「な……ぜ……?」
「『何故?』でございますか?わたくしとて、元はただの農婦でございます。たまたま坊ちゃまがお生まれになった時に乳が出る女として雇われ、そしてルエナお嬢様を女家庭教師にお渡しするまでのただの乳母でございます。見初められて伯爵様の後添えとして迎え入れられましたが、わたくしにも屋敷の者たちは皆使用人としての品格と線引きを持って接してくださいました。誰ひとりとして『ただの農婦のくせに』と蔑む者はおりませんでしたよ」
伯爵家ならば、使用人とて下位貴族の爵位をもらえぬ子息令嬢たちであろう。
それならばポリエットが平民でも気付かずに敬うはずだ。
ルエナはその喩えではさっぱり理解も共感もできず、逆に高位貴族の端にある伯爵夫人が何故格下の者にまで丁寧なのかと、意固地な気持ちが湧いてくる。
「……まだおわかりになりませんか?」
「何よ」
思わず子供のように頬を膨らませるルエナに、ポリエットはわからないように小さく溜め息をつく。
「わたくしはこの公爵家でも乳母として敬意を払われ、平民ではあってもきちんと礼を尽くされ、お嬢様たちが公の場でご挨拶に出る際の付き添い人として人前に出ても恥ずかしくないほどの礼儀作法を、奥様の専属侍女方に仕込んでいただきました」
「え」
「どなたもわたくしの生まれを蔑み、『やっても身につくはずがない』などとはおっしゃいませんでした。お嬢様はお小さい頃、わたくしと共にご挨拶をされて、わたくしが平民であることを馬鹿にされたり意地悪をされましたか?」
「え……い、いいえ……」
むしろその逆で、彼女がいなくなって女家庭教師がついてからルエナが格下の者に挨拶されても自分は名乗らず、軽く頷くだけで話すらしないことを『親の地位があるだけの礼儀知らずの子供のくせに…』とヒソヒソと小声で話す嫌な表情をした大人たちがいたことを思い出す。
彼ら彼女らはルエナがその声が聞こえた方へ顔を向けると、頭を下げるのではなく、そそくさとその場を離れていったが、その際にルエナを馬鹿にしたような笑みを浮かべており、そのことを不快だと自分が従えた侍女を通して主催者に言いつけるようにと命じたこともあった。
しかもそんな態度のルエナを煽るかのように、周囲に近付いてきた者たちがさらに下位の者を貶めすような言動も──
そうですわ、ルエナ様。あんな者に微笑みかけるなんて、思い上がってしまうんですから、無視して当然ですわ!
さすがルエナ様ですわ!下位貴族は礼儀作法も知らないんですもの。話しかけるだけ無駄ですわ!
将来の王太子妃に対して気軽に話しかけるなんて、自分が何様かと思っているのかしらねぇ~?
そう言って笑い合う高位貴族令嬢たちが、今度はルエナのいない場所で貶められた者を慰め、自分たちの意思ではなくルエナに命じられて嫌々ながらあんな態度を取ったのだと言いくるめていることを、ルエナ自身は知らなかった。
そうやって孤立させられ、味方どころか敵すら近付かないひとりぼっちで守る者も守ってくれる者もいなかったのに、ルエナはそれにすら気付かないほど視界も思考も狭くなっていたのである。
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