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義務
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アルベールは妹と向かい合わせで座り、砕けた口調だった少女が、だんだんと大人びていくのを見て不思議と姿勢を正した。
一種講義を受けているような──ルエナとは違い、まだまともな家庭教師を複数つけてもらった彼だからこそ感じる、どこか講師じみた口調。
それはシーナが『詩音』だった頃、小中学校の教師やオンライン講義で見聞きした講師を、自然と真似ているにすぎなかったのだけれど。
そうやって凛音や友人たちと教師の物真似をしたり、勉強を教え合っていたのは前世──どれくらい前になってしまったのだろうか。
それは知らずとも、アルベールは確かにシーナの言葉に考え込む。
家の中で働く使用人たちのことではなく、王都内の平民でも引き受けたがらない汚れ仕事を『貧民』と言われてしまうほど生活に困窮した彼らが行い、そして『学がない』という理由で搾取されるだけ搾取されて、ますます貧困に陥るように仕向けている『平民』のことを。
いや──それは平民に限ったことではなく、本来ならば正当な報酬がされているかどうかを、この王都を支配しているはずの王侯貴族が見逃していたという事実はどうなるのだろう?
「……ルエナにはこの問題は難しかろうな」
「なっ……」
バカにしたわけではなく、単純に与えられた教育の範疇の問題だ。
アルベールは経済学や経営学、歴史や法制度まで家庭教師だったり学園で教わっているが、女児であったルエナには精神的悪影響を及ぼした女家庭教師がほぼ密着し、貴族学園にあがるまでは教養を中心とし読み書きができるぐらいで、『道徳経済』や『貴族の義務』という部分にはほとんど触れてこなかったのだから。
そうは言っても、女家庭教師に歪められた『選民思考』は本来貴族学園に上がった時点で矯正されるべきだったし、自ら気付いて矯正しなければならなかったルエナの欠点でもあるのに──
「……暗示が、強すぎたのでしょうね」
シーナ嬢がそっとカップに手を伸ばし、優雅に紅茶を飲む。
そしてまた音を立てずにソーサーをテーブルに置く仕草はとても子爵令嬢とは思えない洗練さだが、ルエナはその矛盾に気付いているだろうか?
アルベールは妹に視線を投げかけるが、ルエナは睨みつけるようにテーブルに視線を落としているだけで、シーナ嬢の動きを目に止めている様子はない。
薬物入りのお茶を絶ってからあまり時間が経っていないとはいえ、この態度はあまりにひどいと思った。
「……ルエナ」
「………って……」
「ん?」
「お部屋に……連れて行って……」
ポタ、ポタ、と沁みがルエナの握りしめた手の甲に落ちる。
「みっ……惨めですわっ……こんな……こんな、低位貴族の娘にっ……元は平民……いえっ……それ以下の娘に、こんなふうにっ……わけのわからないことを言われるなんてっ……おっ…お兄様は理解してっ……」
「ああ、しているよ。シーナ嬢が話す内容も、お前がどうしようもなく歪んでいることも」
「なっ……?!わっ……わたくしがっ……歪んでるなんて……」
兄の言葉に激昂し、やつれて少しばかり大きく見える目を見開いたルエナが強く睨み上げるのを、立ち上がったアルベールはさらに冷たく見下ろした。
「公爵家は確かに高位貴族だ。王家の血を引く、王家の次に位置する家系だ。もっとも我が家は単なる姻戚だが……しかし、それは国民に対して報酬を得る代わりに義務を負うという役目を引き受けることだ。決して他人を、『自分より格下だ』と見下す権利を得ることじゃない」
「な……何を……おっしゃっているの……お兄様……?」
「『貴族の義務』だよ、ルエナ。俺たちは、他家の貴族、平民、貧民、皆が幸せに、騙されて正当な報酬をもらえないということがないように監視し、誰かを害してのうのうと生きる輩を許さず、平和と平等……いや、少なくとも皆の『生きる権利』を守る義務を負うんだ。それが貴族だ」
「わ、わかりませんわぁ……」
アハハ、アハハ…と気がふれたように、ルエナは身体を小刻みに揺らして笑い始めた。
その顔からは表情が抜け落ち、兄が言ったこと、シーナ嬢が話したこと、そのすべてを理解することを拒否しているのがわかる。
「……今日はもう、戻られた方がいいでしょう」
そう、まだ先は長い。
一種講義を受けているような──ルエナとは違い、まだまともな家庭教師を複数つけてもらった彼だからこそ感じる、どこか講師じみた口調。
それはシーナが『詩音』だった頃、小中学校の教師やオンライン講義で見聞きした講師を、自然と真似ているにすぎなかったのだけれど。
そうやって凛音や友人たちと教師の物真似をしたり、勉強を教え合っていたのは前世──どれくらい前になってしまったのだろうか。
それは知らずとも、アルベールは確かにシーナの言葉に考え込む。
家の中で働く使用人たちのことではなく、王都内の平民でも引き受けたがらない汚れ仕事を『貧民』と言われてしまうほど生活に困窮した彼らが行い、そして『学がない』という理由で搾取されるだけ搾取されて、ますます貧困に陥るように仕向けている『平民』のことを。
いや──それは平民に限ったことではなく、本来ならば正当な報酬がされているかどうかを、この王都を支配しているはずの王侯貴族が見逃していたという事実はどうなるのだろう?
「……ルエナにはこの問題は難しかろうな」
「なっ……」
バカにしたわけではなく、単純に与えられた教育の範疇の問題だ。
アルベールは経済学や経営学、歴史や法制度まで家庭教師だったり学園で教わっているが、女児であったルエナには精神的悪影響を及ぼした女家庭教師がほぼ密着し、貴族学園にあがるまでは教養を中心とし読み書きができるぐらいで、『道徳経済』や『貴族の義務』という部分にはほとんど触れてこなかったのだから。
そうは言っても、女家庭教師に歪められた『選民思考』は本来貴族学園に上がった時点で矯正されるべきだったし、自ら気付いて矯正しなければならなかったルエナの欠点でもあるのに──
「……暗示が、強すぎたのでしょうね」
シーナ嬢がそっとカップに手を伸ばし、優雅に紅茶を飲む。
そしてまた音を立てずにソーサーをテーブルに置く仕草はとても子爵令嬢とは思えない洗練さだが、ルエナはその矛盾に気付いているだろうか?
アルベールは妹に視線を投げかけるが、ルエナは睨みつけるようにテーブルに視線を落としているだけで、シーナ嬢の動きを目に止めている様子はない。
薬物入りのお茶を絶ってからあまり時間が経っていないとはいえ、この態度はあまりにひどいと思った。
「……ルエナ」
「………って……」
「ん?」
「お部屋に……連れて行って……」
ポタ、ポタ、と沁みがルエナの握りしめた手の甲に落ちる。
「みっ……惨めですわっ……こんな……こんな、低位貴族の娘にっ……元は平民……いえっ……それ以下の娘に、こんなふうにっ……わけのわからないことを言われるなんてっ……おっ…お兄様は理解してっ……」
「ああ、しているよ。シーナ嬢が話す内容も、お前がどうしようもなく歪んでいることも」
「なっ……?!わっ……わたくしがっ……歪んでるなんて……」
兄の言葉に激昂し、やつれて少しばかり大きく見える目を見開いたルエナが強く睨み上げるのを、立ち上がったアルベールはさらに冷たく見下ろした。
「公爵家は確かに高位貴族だ。王家の血を引く、王家の次に位置する家系だ。もっとも我が家は単なる姻戚だが……しかし、それは国民に対して報酬を得る代わりに義務を負うという役目を引き受けることだ。決して他人を、『自分より格下だ』と見下す権利を得ることじゃない」
「な……何を……おっしゃっているの……お兄様……?」
「『貴族の義務』だよ、ルエナ。俺たちは、他家の貴族、平民、貧民、皆が幸せに、騙されて正当な報酬をもらえないということがないように監視し、誰かを害してのうのうと生きる輩を許さず、平和と平等……いや、少なくとも皆の『生きる権利』を守る義務を負うんだ。それが貴族だ」
「わ、わかりませんわぁ……」
アハハ、アハハ…と気がふれたように、ルエナは身体を小刻みに揺らして笑い始めた。
その顔からは表情が抜け落ち、兄が言ったこと、シーナ嬢が話したこと、そのすべてを理解することを拒否しているのがわかる。
「……今日はもう、戻られた方がいいでしょう」
そう、まだ先は長い。
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