まひびとがたり

パン治郎

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舞人語り

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 あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
 永遠にも思える時の重圧は兵士たちを苦しめている。日は中天からゆっくり滑り降りているはずだが、足元の影はいまだ濃いままである。
 朝廷軍と東国軍は山科の地で向かい合ったまま、ただ身を焦がしていた。
 上條常正が寿老上人をともなって本陣に到着した。祭子や志郎、鍛治谷といった主だった将たちが出迎える。
「戦況はどうなっている?」
「父上……ご覧の通り――詰みです」
 常正は戦場全体を見晴るかす。紅の軍旗をたなびかせた朝廷軍は新帝を戴き、それに対峙する東国武士団はまごうことなき叛逆者となった。
 仮にこのまま剣を交え、朝廷軍を打ち破ったとしても、新たな帝を擁立するに関わらず天下の悪評からは逃れられない。御堂晴隆の一門を滅ぼすには西国まで遠征せねばならず、東国の経営と京の支配そして遠征軍の指揮までおこなう地力がはたして今の東国武士団にあるだろうか。
 では、ここで退却すればどうか?
 敗北した叛逆者の汚名を一身に受け、水野実真はかつての声望の大きさのぶんだけ逆襲を喰らうだろう。英雄像からの凋落。同情を寄せていた豪族の失望。それらが飛矢となって国中から降り注ぐ。そのとき、水野実真は東国の盟主から逆賊の頭目に成り下がるのは間違いない。
「ここより他に行き場なし――か」
 常正は目を細める。その視線の先に水野実真。戦場の矢面にいた。単騎で朝廷軍と向かい合い、鋭い時の流れにジッと耐えている。
「さて、どうするかね?」
 寿老が誰にとなく問いかけた。沈黙が重みを増す。
「退くしかありますまい」
 そう答えたのは常正である。志郎たちは額に汗を浮かべている。
「では、この日ノ本から肉片残らず消え去るまで戦うかね?」
 常正はゆっくりと首を振る。
「いえ……私はもう十分に生きました。この首を手土産に許しを請います」
「はっはっは――自惚れるな、上條常正」
 寿老の凍てついた声が本陣を震わす。みな一斉に注目した。
「その干からびた首にいかほどの価値があろうか。これは天下分け目の大戦。歴史が動かんとする時に、老いさらばえた貴公の席はない」
 寿老はゆっくりと朝廷軍のほうに向き直り、手をかざして見晴るかす。
「どこへ行こうと死地ならば、前に進むしかあるまいて」
 常正は深々と頭を垂れ、畏まった。
「寿老様のおっしゃる通りでございます。この常正、いささか慢心いたしておりました。ただ――これが私でなければ……どうでしょうな?」
 常正の含みを持った物言いに、寿老はわずかに振り返る。
 そのときだった。祭子が馬に飛び乗って本陣から駆け出した。
「姉上!」
「祭子!」
 志郎と鍛治谷が呼び止めるも、祭子の背中には届かない。
 その行く先には水野実真の姿があった。寿老は感情の昂りを押し殺し、震える息を鼻から吐いた。
「その命をもって嵐を鎮める気か――水野実真!」
 同じころ、朝廷軍の本陣でも実真の動向をうかがっていた。
「水野実真はどうするだろうか……?」
 シュウジンは傍らの御堂晴隆に言った。新帝として自らの姿を戦場に見せたものの、東国武士団は布陣を崩していない。ただ、水野実真一人のみが戦場の中央に進み出て、馬上にあって静寂に身を置いている。
 次の一手で時代が動く。それを理解している者は少ない。
「ご心配には及びませぬ。すでに決着はついております」
 御堂は涼しい顔で言い切った。シュウジンは眉をひそめる。
「それはあの男もよくわかっているのです。ゆえに……動けない。ですが歴史は止まりませぬ。ご覧ください――時が動きまする」
 御堂に促されるようにシュウジンは実真を見た。
 実真はダマスカの剣の柄に手をかけ、すらりと抜刀した。いきみのない澄んだ流水のような動作。陽光を反射して剣の切っ先が煌めいたと思うと、その黒い刃は実真自身の首に当てられた。
 そこに本陣から飛び出した祭子が一人駆けてくる。
「実真!」
 実真は目だけで祭子を振り返る。
「止めるな」
「止めるものか」
「ならば」
「言ったはずだ。私が仕えるのはそなただけ。他の誰にも仕えない。他の誰にも嫁がない。異国だろうが地獄だろうが、私は一緒に行くと決めた」
 祭子の言葉には迷いがない。実真は肺臓をかすかに震わせ、大きく吸い込む。
「……私には妻がいた」
「知っているさ……」
「……守れなかった」
「……ああ」
「…………守りたかった」
 祭子がゆっくりと歩み寄り、剣を握った実真の手に自らの手を重ねる。
「ともに逝こう……私はどこへも行かないよ」
 寄り添う二人の様子を、シュウジンは輦輿の上から見ていた。眉宇に深く皺を刻み、胸に鋭い痛みを覚えた。
 これでいいのか――?
 本当にこれでいいのだろうか――?
 水野実真は死を選びつつある。それは心から望んだものなのか――?
 シュウジンは固く拳を握りしめる。自分は帝の継嗣けいしとして、しきたりどおり帝位を継いだ。そして治天の君として、日ノ本に君臨した。並び立つ者のない唯一無二の存在のはずが、どうして、死にゆく者さえ救えない。
 シュウジンは立ち上がろうとした。が、輦輿から微塵も動くことができない。
(僕は一体なんなんだ……どうしてここにいる……どこで間違えた)
 肉体が足元から凍り付いてゆく。それは徐々に内側に浸食してゆき、逃げ場を失った思考が渦を巻いた。
(最初から――生まれて来なければ――)
 そのときだった。朝廷軍の本陣に息を切らした伝令が駆け込んで来た。
 彼が告げたことはとても短かった。
「何か来ます!!!」
 御堂が伝令に詰め寄る。
「何かとは何だ!? 敵の援軍か!?」
「いえ、それが……わかりません!」
 伝令は御堂に威圧されて震えながらある方を指差す。
 みながその方角を見た。山科の地を取り囲む峰のふもとから、何かがゆっくりと近づいてくる。
 シュウジンはふと気付いた。緩やかに風が吹いている。
「あれは……人……?」
 視界の端にゆらめく影がしだいに像を結び、色づき始めた。
 間違いなく人である。それも多くの人々。列をなし、一歩一歩と戦場に向かって歩んでくる。朝廷軍も東国軍も異変に気付いてざわめき始めた。
 シュウジンも実真も、祭子も御堂も常正も寿老も、そしてすべての将兵たちも乱入者たちの群衆に釘付けになる。
 彼らは鎧も身に着けず、武器も持たず、日常の服装の、ただの人々だった。
 風が少しずつ強くなった。西南の風が――。

          ※

 風は廻った――。京の都の薄暗い小路の片隅で。
「おい、なんか聞こえねえか? 笛だ……笛の音だ!」
 薄汚れてすり切れた着物の少年が、仲間の幼い子供たちに呼びかける。煤で汚れた鼻をこすり、男の子も女の子も耳を澄ました。
「ほんとだ……聞こえる!」
「何だろう、お祭りかな? 行ってみようよ!」
「うん! 行こう!」
 少年たちは駆け出した。

 風は廻った――。閑散とした市場の片隅で。
「これじゃ物も売れねえ。嫌んなるよまったく」
「仕方ねえさ。お上のやることだ」
 買い手のつかない商品をしまいながら、商人たちはふと手を止めた。
「誰だ? 笛なんて吹いてるヤツは」
「こんな時だってのに……なあ?」
「……ちょっと、行ってみるか? どうせヒマなんだ」
「ははは、ちょっくら間抜けヅラでも拝んでみるか」
 商人たちは荷を背負って笛の音のほうへ歩き出した。

 風は廻った――。授業のない大学寮の片隅で。
「なあ、戦はどっちが勝つと思う?」
「君は繊細だな。俺たちには関係ないってのに」
「そうかな? 東国の武士たちは粗野な連中だっていうぜ? ここも打ち壊されるかもしれない」
「ばーか、そんなことあるかよ。こんなに天気が好いのにさ」
 人気のない講堂の縁側で寝転がっていた学生たちは、ふと笛の音を耳にした。
 すると、そこに血相変えた別の学生たちが走って来る。
「お前たちこんなところにいたのか! はやく行くぞ!」
「ええ? 何です?」
「今日は世界が変わる日だ! 僕らが見届けないでどうするんだ!」
「世界が? 変わりっこないでしょう、そんなもん」
「そう思うならかまわん! 来たいヤツだけついて来い!」
 そう言って、後から来た学生たちは駆け出した。残った二人の学生はポカンとして顔を見合わせる。
「世界って、変わるのか?」
「そもそも世界って何だ?」
「わからねえ……習ってねえもん」
「い、行くか……?」
「お、おう」
 二人の学生たちはそわそわして、急いで立ち上がった。

 風は廻った――。五条の東洞院の片隅で。
 弓御前の膝の上でやすらかな午睡を取っていた上帝が、はたと目を覚ます。
「お目覚めですか……」
「ああ、目覚めた!」
 上帝はバッタのようにピンと跳ね起きた。カクシャクとした動作に、かつての面影が蘇る。弓御前はまさかと思った。
「笛の音が聴こえるぞ……これは天上の響きだ!」
 上帝は耳を澄まし、弓御前に振り返った。そのまん丸の瞳には失われたはずの生の光が宿っている。弓御前は思わず息を止めた。
「ようやく……お戻りに」
 そう言いかけた時、上帝は裸足のまま荒れ果てた庭に飛びだす。
「行こうよおばちゃん! きっと舞だよ! 舞が始まるんだ!」
 上帝は屋敷の出入り口を探してきょろきょろしている。その幼子のような姿を見て、弓御前は静かに涙を流した。
「行きましょう……くつを履かせて差し上げますから」

 風は廻った――朱雀大路を往く民衆の行列。
 風は廻った――京の都のあちこちに。
 風は廻った――すべての人々のもとへ。
 なんとも楽しげな音を乗せて。
 そして今、山科の地へ。朝廷軍、東国軍が対峙する戦場に届き、彼らの頬をくすぐった。軍旗をもてあそび、甲冑の中を駆け抜け、軍馬のしっぽを揺らしてまわると、風ははるか頭上を駆け登り、一切の音を連れ去った。
 殺気立っていた戦場に、普段着の人々がゆっくりと進み、足を止めた。
 群衆の中から、一人の少女が前に進み出た。
 りつである。少し緊張した面持ちで、何度も大きく呼吸をしている。
 東国軍の本陣で、寿老はりつに気付いた。
「あの娘……もしやあの時の」
 胸に手を当てて自分の息の深さを確かめるりつの様子を見て、寿老は刻むように引きつった笑みを浮かべた。右に左に戦場を見渡す。
「まさか、間を計っておるのか!?」
 そうと気付いた時、間が成った。りつは顔を上げた。
 無音の広野。時の隙間を縫うように、なめらかな歌声が響き渡る。
 その瞬間、戦場に色が満ちた――。

 月は 出でて 皓々と
 夢に 逢ひ見る あの人へ
 露に濡れた 木々は碧く
 落とす涙は 時雨のしずく
 往くはずだった あの路へ
 往くはずだった あの街へ

 日は 昇りて 燦々と
 胸の 残り火 なおやまず
 あの夜の 契りは遠く
 踊り出でて 参りましょう
 往くはずだった あの街へ
 往くはずだった あの路へ

 悲恋の歌である。なぜ戦場に歌が――とは誰も言わなかった。
 遠い戦地に赴いた恋人の訃報を聞いた女の悲痛な胸の内を歌ったものだ。透き通った歌声は空気をやさしく震わせ、撫でつけるように聞くものすべてに伝わった。兵士たちはみな誰かの顔をまぶたの裏に浮かべた。
「これは……」
 実真は馬上にあって、戦場の雰囲気ががらりと変わったのに気付いた。
 シュウジンもまた、何かが始まる予感を腹底に感じた。
 りつは深々と一礼した。たった一人きりで独唱したにも関わらず、堂々と見事に歌い上げた。芯の通った歌声だった。

 第一幕の終了である。つづいて第二幕が開演する。
 楽人たちが一斉に配置についた。笛、琴、筝、笙、篳篥、琵琶などありとあらゆる楽器を携え、囲むように並んで即席の舞台を作る。それは謡舞寮の女官であり、大学寮の学生でありと、さまざまな年齢や身分の顔ぶれだった。
 広野の舞台に、謡舞寮の生徒たちが進み出た。みな軽やかな足取りで、舞装束をはためかせて方々に散った。
 右と左の二つの集団に分かれる。右はセナ、左は静乃を先頭とし、それぞれ彩糸を垂らした五重の檜扇ひおうぎを手にしている。りつやサギリといった他の生徒たちは神楽鈴という手持ちの鈴を胸に構えた。
 筆頭女官の望月と、そして鬼童丸が互いに目を合わせて頷く。
 二人は同時に篠笛に息を吹き込んだ――。
 凛とした音が響き、空気が透き通った。シャン、と鈴が鳴った。
 楽人たちが笛の音に導かれるように、それぞれの楽器を奏で始める。
 一つ一つの異質な音が重なり、たちまち色づき、はたして音色となった。
 広野の舞台に音が満ちた時、再び鈴が鳴る――シャン――シャン。
 少女たちがまったく同時に動き出した。二つの集団は合わせ鏡のように対称的でありながらわずかな遅れもなく、静かに、しっとりと舞う。
 文の舞である。ゆったりとした調べに乗り、『陰』を体現せしめる舞。
 まるでしとしと雨が降るようだった。戦場に土の匂いが充満し、草木が緑の光沢を放つ。艶やかに、瑞々しく。
 やがて二つの集団は一つになった。右と左が混在する。
 寸分でも違えばぶつかって乱れるそれを、少女たちは華麗にやってのけた。色の違うさまざまな糸が、縦に横に、そして斜めに交差して、一つの綾絹になるように舞を織りなしたのである。
 二つの集団は再び離れ、右と左が入れ替わった。
 実に見事。実に優雅。実に美しい流れだった。
(わかる……みんなの息づかいが、胸の鼓動が……)
 セナは不思議な感覚に包まれた。たくさんの人々がいるにも関わらず、そのすべてを自分の肉体のように感じている。心が一つになったのか、それとも心が無数にわかれたのか、定かではない。
 ただ、一つだけ確かなことがある。
(ああ……楽しい――!)
 それは初めての感覚だったかもしれない。鬼童丸に舞を教わった時、幼心のままに手足を動かした。理屈もわからず、言われた通りにした。それが鬼童丸のためになると信じて。
 だが、今は違う――。

 どこからか再び、風が吹いて来た。
 異国の風か、大海の風か、天上の風か。そのどれでもないのか。名前を持たない無限の風があらゆる場所で人々を撫でつけた。
 少女たちによる舞がいったんの幕を閉じる。
 無音の隙間に光が差し込み、兵士たちをやさしく抱く。槍を握る手が、弓を携える指が、ゆっくりと緩み始めた。
 御堂晴隆は底知れない異変を感じていた。兵気がほぐされてゆき、徐々に小さくなっているのがわかる。
「何だこれは……ただちに騎馬隊を送り、あの者たちを追い払え!」
 朝廷軍の本陣に御堂の命令が飛ぶ。
「し、しかし、彼らは武器を持たない民衆で……」
「ここは戦場だ! いくらか射殺してもかまわん!」
 怯えた伝令兵が本陣から去ろうとした。その時、頭上から声が走った。
「待て――」
 シュウジンだった。苛立ちを噛み殺した御堂が振り向く。
 シュウジンの目ははるか先を捉えている。戦場に押し寄せた群衆の中、謡舞寮の女官や生徒たちの中、セナという少女ただ一人に。
 セナもまた、シュウジンの目を正面から受け止めていた。
(思い出せシュウジン……本当の強さを……!)
 シュウジンは静かに長い息を吐く。かすかに震えていた胸は、再び空気で満たされた時にはピタリと止んでいた。
「下がるんだ……御堂晴隆」
「なりませぬ。今は戦の総仕上げ。邪魔する者は――」
「静かに」
 御堂は驚いて目を見開いた。
「私を誰だと思っている? 日ノ本にただ一人の――帝だ」
 シュウジンの言葉は鋭い。声に武威が備わっているようである。御堂の額から汗がすべり落ちた。背筋に冷たい畏怖が走ったのだ。
「出過ぎた真似を……いたしました」
「あの者たちの舞台は、まだ終わっていない」
 高らかに笛の音が鳴った。鬼童丸の独奏である。
 絹糸のようになめらかに滑り出し、無音の間を繋ぐ。たっぷりと余韻を含んだ情感豊かな音調が、聞き果てぬ奥行きと広がりを見せ、それは音色の深みとなって観衆の耳から腹の底にじわりと染み渡った。
 細い糸は次第に太く、大きくなり、うねりを見せる。
「来世……その笛は……」
 実真は久方ぶりに聴いた笛の音が、浮世の舞の時と同じだと気付く。いや、あるいはそれ以上に鬼童丸の笛は生き生きとして力強い。
 セナが笛に導かれて舞台の中央に躍り出た。
 風を孕んだ黒衣がはためき、そのまま宙を舞うように躍動的な舞が始まる。舞装束の裾が弧を描き、白い肌がキラッと輝く。
 武の舞である。強く雄々しい調べに乗り、『陽』を体現せしめる舞。
 セナのしなかやか肉体が、衝動のままに音を絡める。それは型を持たない千変万化の乱気流。それでいて淀みなく、自然なるままに舞を形成している。
 跳躍の一つ、手首の返し、腰のひねり。すべての筋肉の活動。小さな風が渦を巻き、巻いたと思えばほどけて消える。まるで競い合うようにセナの舞と鬼童丸の笛の音が、地上に根を張る大樹のごとき伸びを見せた。
 これが舞か? 舞なのか? いや、舞に違いない。
 観衆は初めて見る舞に戸惑い、だんだんとそれは確信に変わり、ついには昂揚感となって声に漏れた。
「実真……殿……?」
 祭子は実真の吐く息がかすかに震えているのに気付く。それはたちまち小さな嗚咽になり、ひと筋の涙が頬を伝った。祭子はすべてを察し、目を背けた。
(ここで生きていたのか……浮世……)
 実真は手で何度も涙を拭う。泣きべそをかく子供のように。
 もはや見ることの叶わないと思っていた浮世の舞が、迦陵頻伽のごとき無垢の舞が、ふたたびこの目に出来た。
(やっとわかった……お前の言っていたことが。この手にしかできないことが)
 実真はゆっくりとダマスカの剣を鞘に納めた。
「すべてはつながっていたのだな……ああ、風が見える……」

 第三幕から間断なく第四幕が始まる。
 鬼童丸はついて来いと言わんばかりに楽人たちに合奏を促す。
 そうと気付いた彼らは懸命に自分の楽器から音を生み出した。額から汗が噴き出し、それでも楽しそうに演奏が深く大きくなってゆく。
 謡舞寮の生徒たちもまた自由に音に乗った。頭の中で作った舞ではない。身体の奥底から湧き出る情動、想いそのものだった。
 想いは次第に声になった。声は言葉になった。
 そして歌になる――。

 青雲はるけき 春の空
 花かがやかに 咲きあふれ
 おみなもおのこも 踊れや踊れ
 七たびめぐれ 七たび走れ
 雲や降らせや 地を濡らせ
 こなたに落ちた 雨しずく
 薪もやせや 虫送り
 豆ふさふさと
 稲すいすいと
 麦もうもうと
 瓜ごろごろと
 永き命の短さよ
 永き命の短さよ

 永き命の短さよ
 永き命の短さよ

 気付けば誰もが口ずさんでいた。老いも若きも男も女も。
 ある兵士が槍を捨てた。一緒になって歌い、踊り出す。
「戦なんてどうでもいいや! やめだやめだ!」
 まわりの兵士が不安そうに咎める。
「お、おい、いいのか?」
「戦なんていつでも出来らぁ! 今日は今しかねえんだ!」
 あちこちで声が上がった。そして歌声が生まれた。
 兵士たちは次々に武器を捨て、しばし戦を忘れた。気付けばすべての兵士や民衆が、歌を歌い、舞を差す――舞人となった。

 そのとき戦場は、舞台となった。

 朝廷軍の本陣では、御堂晴隆が眉宇に焦りを浮かべていた。
「何をやっている!? これは戦なのだぞ!」
 そのすぐそばで、輦輿の上にいたシュウジンが腰を上げた。と、思った次の瞬間には、シュウジンは軽やかに輦輿から飛び降りた。そのまま迷うことなくセナたちのいる舞台の中央に向かって歩いていく。
 突然の行動に近習やお付きの官人たちは目を丸くした。
「お戻りください、主上!」
 御堂もまた叫び、自らシュウジンを制そうと前に飛び出す。
 すると、その行く手を遮る者たちが現れた。そのうちの一人がぼそりと御堂の耳元でささやく。
「それ以上はなりませぬ」
 戸勘解衆である。頭目の底知れない冷たい声。
 御堂はゆっくりと視線を移す。
「帝の御身をお守りするのがお前たちの使命であろう」
「否――帝室の威光をお守りするのが我らの使命ゆえ……それを貶める者であれば何人たりとも容赦は致しませぬ」
 頭目の声はさらに低く、冷えを増した。
「太政大臣ごときが……思い上がるな」
 御堂は奥歯をぎりぎりと噛みしめた。
 シュウジンはそんな背後のやり取りなどまったく気にも留めていなかった。
 ただひたすら、想いのままに前に進む。セナたちのもとへ。
 そして、たどり着いた。広野の舞台へ。
 セナはシュウジンと目を合わせた。互いに小さく頷く。
 深く通じ合った。もう大丈夫。それがわかった。
 セナは小さく踵を返すと、そばにいた静乃に言った。
「帰ろう。おなかすいた」
「いいの?」
「うん、私たちの演目は終わった」
「ええ……わかった」
 静乃は満面の笑みでセナを迎え、二人は並んで歩き出した。りつやサギリもそれに続き、謡舞寮の生徒たちは舞台から降りた。終幕である。
 舞人たちが去った舞台の上で、シュウジンと実真は向かい合った。
 朝廷軍、東国軍のすべての人々が彼らの動向に注目している。
「祭子、これを頼む」
 実真は鞘に納めたダマスカの剣を祭子に預けた。祭子は実真の表情が晴れやかになっているのを見て深く頷き、微笑を浮かべた。
「はい――後のこと、お任せいたします」
 その言葉を背中で受けた実真は馬から降りた。
 シュウジンと実真はほんの数歩の距離で向かい合った。
 日ノ本を統べる帝と、東国の声望を受ける武者として。実真は静かに黙礼をしたものの、けっして膝は突かなかった。
「終わりにしよう、水野実真」
 先にシュウジンが口を開いた。いつもの微笑を浮かべている。
 実真は敬意を示すためにわずかに視線を下げた。
「今日は素晴らしいものを見た。大事にしたいと思う」
「同感です。あれほどの舞――久々に見ました」
「……すまなかった」
 実真はハッとしてシュウジンの顔を見た。微笑は消えていた。
「君に重荷を背負わせた」
「過ぎたお言葉です……」
「望みはあるだろうか?」
 実真は背中の向こうにいる東国の武士たち、そして彼らの治める領地の人々を心に浮かべた。そして、言った。
「私に東国をお任せいただきとう存じます」
「荷はさらに重くなる。いいのかい?」
「もとよりその覚悟――そう申し上げたいところですが、彼女たちの舞を見ていて決心が付きました。いささか、遅すぎましたが……」
「そうだね……ぼくも同じだよ」
 では、水野実真よ――と、シュウジンは張りのある声で言った。
「君を『東国大将軍』に任ずる。見ての通り、私はまだまだ力不足だ。思慮の及ばないことも多いだろう。そこで東国の地の安寧を任せたい」
「はっ――謹んで拝命いたします」
 シュウジンは再び微笑を口元に浮かべた。
「ありがとう――」
 そのとき、やわらかい風が二人の間を駆け抜けた。
 シュウジンと実真は風の行く先を同時に見上げる。
 そこにはどこまでも青い空が広がっていた。

          ※

 京の都は大きな喜びと賑わいの中にあった。
 新帝の即位から五年が経った日を祝して、朱雀大路には昼夜を問わず炬火が焚かれ、お祭りのようにさまざまな飾りつけがなされている。
 東西の市には露店が並び、安全になった街道から運ばれた彩り豊かな品々にあふれている。道往く人々の顔ぶれも様々で、みな活気と熱気に包まれて自然と笑顔になった。
「はやく来いよ!」
「待ってよう!」
 幼い子供たちが、往来の大人たちの間を縫って駆けてゆく。
「おっと、危ない危ない」
 大きな千駄櫃を背負った行商が、子供たちをすんでのところでかわした。振り返って笠をちょいと上げ、子供たちの背中を遠くに見やる。
 その顔の下半分は布で覆われていた。ホオヅキである。
「はは、やっぱり都は苦手だ」
 ホオヅキは六条の一画にある小さな邸宅を訪れた。門を叩くと、中から小さな男の子が出てきた。恐々とホオヅキを見上げ、門の後ろに隠れてしまう。
 すると、奥から女性の声がした。
「お客様に失礼でしょう、虎弥太こやた。門を開けて差し上げなさい」
 ゆっくりと門が開く。そこにいたのはかつての筆頭女官・望月だった。望月は身重らしく、大きなおなかを抱えている。
「やあ、あなたが奥方でしたか」
「伊藤佐門さまですね――どうぞ」
 ホオヅキが奥の座敷に入ると、そこには隻眼の景平がいた。
「来たか、佐門!」
 景平は嬉しそうにホオヅキを抱き締めようとするが、ホオヅキは手をひらひらさせてそれを拒んだ。
「や、よせ、暑苦しい。所帯を持つと性格まで変わるのか?」
「そうだな。夫になり、父となった。変わりもする」
「そうか、世も末だ」
「ほんとにな」
 しばしの沈黙のあと、二人は大いに笑い合った。
「で、東国はどうだった? 見て来たのだろう?」
「ああ、水野実真はまさに英雄だ。東国の領主たちはみな臣従している。表向きであっても、それで十分だ。妻に迎えた上條の娘、アレも相当効いている」
「あの女傑か」
「ああ、夜叉将軍と呼ばれていた」
「おお怖い」
「彼らが健在なうちは東国も朝廷も安泰だろう。だが……」
「だが?」
「時代が英雄を失う時、大きな不幸が来るもんだ」
「……なあ、お前は武士に戻らんのか?」
「やはり性に合わん。それに、探し物をするには身軽なほうがいい」
「探し物……お前のもう一人の主か」
「鬼童丸は別れ際、こう言っていた。『薄明の地に行く』と」
「薄明の地? どこだそれは?」
「さあ? だから探している」
 そこに望月が茶を持って来た。ホオヅキはにっこりと笑う。
「やあ奥方、私なんぞに茶はもったいないですよ」
「いいえ、主人の御友人ですから。それに、東国からたくさん送られて来るのだそうです。謡舞寮に」
「謡舞寮……」
 景平は一つだけ残った左目でホオヅキを見た。
「姫には会わんつもりか」
「まあな。さいきん涙もろくなったから」
「老いたな、佐門」
「前にもアイツに同じことを言われた。五年も経てば否定もできん」
「今、どこにいる?」
 ホオヅキはフッと笑って首を横に振った。
「時おり、あの頃が夢じゃないかと思う時がある。特にあの日のことは」
「夢か……」
 そのとき、庭から春のあたたかい風が吹き込んだ。
 ホオヅキと景平、そして望月は遠い空を見つめた。

          ※

 即位五年を記念した内宴(内裏で行われる酒宴)が、盛大に執り行われた。左大臣、右大臣、八卿など主だった貴族たちがずらりと並んでいる。
 参列者は数百名を数え、幸福な治世を寿ことほいだ。
 酒宴では、和歌の名手と称された貴人たちの歌くらべや、諸国の力自慢による相撲などが行われ、人々を大いに楽しませた。
 もちろん舞人たちの謡と舞も披露される。
 宴席の中央に座るシュウジンは微笑を浮かべ、酒杯をかたむけている。
 隣席にいた左大臣のもとに従者の官人が駆け寄って耳打ちした。
「うむ? よくわからぬが、そのままお伝えすればよいのだな?」
 左大臣はシュウジンのそばに寄り、耳元でささやく。
「主上、流しの舞人が来たようです。飛び入りで舞を披露したいと」
「飛び入り?」
「はあ、なんでも謡舞寮の静御前の推薦だそうで」
「謡舞寮か……フフッ」
 シュウジンは子供のように笑った。左大臣はわけがわからず戸惑っている。
「いいだろう。是非とも見たい」
 左大臣が従者に手で指図し、流しの舞人による舞が急遽、決まった。
 内裏で行われる内宴に、予定外の客人が来ることはまずない。それも身分の低い流しの舞人など。前代未聞の出来事に、参列者たちはざわついた。
「入れ――」
 左大臣の従者が宴席の外に声をかけた。
 ゆっくりと、流しの舞人なる女が入ってくる。
 けっして華美とはいえない黒い舞装束に身を包み、化粧気もあまりなく、装飾品も黒い笄を束ねた髪に挿しているのみ。
 そんな異形の舞人が、宴の舞台に立った。
 帝たるシュウジンに目礼し、目元に艶やかな笑みを浮かべる。
「見せてほしい、そなたの舞を」
 シュウジンの言葉とともに舞が始まった。宮中の楽人たちは、打ち合わせなしの演奏にも関わらず舞う姿に驚きつつも、異形の舞についてゆく。
 最初は流しの舞人を侮っていた貴族の面々は、舞が始まった途端、その美麗さと妖艶さに圧倒され、息を呑んだ。
「素晴らしい……主上、あの舞人を手元に置かれては?」
 左大臣はシュウジンにささやく。シュウジンは真面目な顔で問いを返す。
「彼女を妻に迎えるということかい?」
「いえ、身分が違いますゆえ、それはなりませぬ」
「身分か……私はしょせん帝だからね、相手にされないだろう」
 シュウジンはフッと小さく笑った。左大臣はその反応に戸惑う。
「風を箱にはしまっておけない。そういうものさ」
「はぁ……」
 舞が終わった。流しの舞人は深々と一礼した。宴席は幸福な夢から醒めたような浮遊感に包まれていた。
 流しの舞人とシュウジンが正面から視線を絡ませる。
 そのわずかな時間に、さまざまな情景や記憶が二人の間で色づいた。
(死が二人を分かつまで)
(今宵のことは)
 誰にも言わない――。
 満たされた沈黙の中、シュウジンが口を開いた。
「素晴らしい舞であった。そなた、名はなんという?」
 流しの舞人は答える。
世名セナ――と、申します。かつて私は――鬼でした」
 そうして、舞人は語り始めた。

              おわり
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