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京へ その2
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懐かしさは細波のようにやって来た。
実真が京の都から逃れて数か月のはずが数年にも思える。
供もつけずに東国に赴き、死線に身をさらして過ごしたあの頃よりも、永い旅路だったような気さえしている。
逢坂の関を抜け、山科の地を過ぎれば、京の都にたどり着く。
あの時は安長と九馬、静乃と景平、そして眠り続けるセナを背負って進んだ逃避行だった。
それが今や大軍勢を引き連れている。
一体、何の目的で京に向かうのか――時おり、めまいのように見失いそうになる。幽閉された帝を救出し、首謀者・御堂晴隆の罪を問う。たしかにそうだ。その大義のためにここまで来た。
だが、本当にそうなのか。
身体は一つなのに、無数の自分が中にいる気がする。その一つ一つにあらゆる感情、思惑、そして掲げる大義がある。
そのどれもが正解でいて、間違いでもある気がする。
「この手にしか出来ないこと……」
かつて浮世と交わした言葉がよみがえる。
そのつもりで今まで生きて来た。
東国の平定も、血まみれの赤子を抱えて走ったことも。
それなのに――それだからこそ――浮世は。
「ヒヒィィン!」
夕霧のいななきで実真は我に返った。
東の空が白む時。馬房で一人。水にひたした藁束でこすって身体を洗っている最中だった。今日の決戦に備え、英気を養う意味もある。
「すまぬ、夕霧。お前がいた。いつも一緒だったな」
夕霧はブルルと鼻を鳴らし、そっぽを向く。
実真は苦笑いを浮かべるしかなかった。
そのとき、馬房を訪れる人影が実真の背後に立った。
「セナ……やはり来たか」
実真は振り向くことなく言葉を投げ掛ける。たしかにセナである。
「水野実真――お願いに来た」
「京に戻るのか。鬼童丸に会いに」
「……ええ」
「死ぬ気か」
セナは眉間に皺を寄せる。
「どうしてそう思う?」
「鬼童丸はお前のすべてだった」
「たしかに……命令ならいつでも死ぬつもりでいた。でも、今は違う」
「違う……?」
「今、私の中にはたくさんの人がいる。静乃、りつ、サギリ、謡舞寮のみんな、望月に弓御前、そしてシュウジン――私のすべてだった鬼童丸は、今ではたくさんの中の一つになった。だから、私は死なない」
実真は振り向き、思わず息を止めた。ゆっくりと目を見開く。
あのセナが笑ったように見えたのだ。
そして、その笑みの中になぜか浮世の面影を見た。
「夕霧」
セナは名を呼んで夕霧の前に立つ。夕霧はまっすぐセナを見下ろした。
「京の都に行きたいの。力を貸して」
大きな澄んだ瞳がセナを映してしばらく、夕霧はゆっくりと首を傾け、鼻をセナの前に近づけた。いいでしょう――そう言っていた。
セナは夕霧の顔をやさしく撫でてやった。
実真は夕霧が自分から離れ、セナに心を許すのを見て思わず藁束を落とす。
「私は夕霧の主人だ……だが、夕霧が行くというのなら……」
その時だった。馬房の外から何やら喧騒が聴こえる。
「実真様!」
物々しい兵士の声。セナたちが外に出てみると、後ろ手に縄を打たれて項垂れた男が、兵士たちに両脇を固められていた。
「この者、陣中にいたところを捕えました。おそらく間者かと」
兵士は男の髪の毛を鷲掴みにして、顔をムリヤリ上げさせた。
「ホオヅキ!」
セナは声を張った。無精髭姿で汚れているが、間違いなくホオヅキだった。
「お前たちは下がっていい。あとは私が引き受ける」
実真は兵士たちに下がるよう目で促す。兵士たちが去ると、セナはホオヅキの縄を解いてやった。
「ホオヅキ、何があった」
「セナ……本当にお前か!」
ぼんやりとしていたホオヅキの瞳に光が宿る。
「目が覚めたのか……そうか……!」
「うん。私は平気。ホオヅキはなぜここに?」
「お前を探していた。ここにいるってことは事の成り行きは知っているな?」
成り行き――東国武士団と追討軍の衝突。そして実真と鬼童丸。
「お頭……いや、鬼童丸が投獄された。じきに処刑されるだろう」
「鬼童丸が……!」
「俺はもう、あの男とは袂を分かった。これからどうしたらいいのか俺にはわからん。ただ、お前にだけは伝えなきゃならんと思ったんだ」
セナはキッと唇を真横に結び、実真を見た。実真は頷いて見せる。
「ホオヅキ――ありがとう」
「セナ……お前……」
ホオヅキはセナの顔つきに以前にはないものを感じた。それを成長と呼んでいいのか変化と呼ぶのか、ホオヅキにはわからない。だが、何となく肩が軽くなった気がした。危険を冒してまで伝えに来てよかった。そう思った。
セナは手綱を引いて夕霧を馬房から連れて来た。
「水野実真――もう一つ頼みがある」
「ああ」
「静乃に言伝を。京で会おう、と」
「静乃に?」
「静乃は来る。きっと」
「……わかった」
セナは鐙に足を掛けて、ひょいと夕霧にまたがった。
「それから――あなたも私の中にいるよ。ありがとう」
セナは実真に微笑みかけた。今度は気のせいではない。実真はたしかにセナのほほえみをその目で捉えた。
「行こう、夕霧」
朝焼けの中、夕霧は駆け出した。まるで一陣の旋風のように。
実真はセナの姿が小さくなるまで見届けるうち、知らない間に自分が微笑を浮かべていたことに気付く。これから戦だというのに。
「さて、ホオヅキ。京で別れて以来だな」
実真はホオヅキに向き直る。ホオヅキは膝を突き、その首を差し出した。
「水野実真殿。この首、あんたに任せる。俺は黒鬼党に与して、さんざん自由を謳歌してきた。そのツケを支払わなきゃなんねえ」
「ツケを?」
「ああ。つくづく感じたよ。自由には代償がいる。鬼童丸の名のもとでいっぱしに生きて来たつもりだったが、何のことはねえ、ごっこ遊びをやってただけの、ただのガキだったよ」
ホオヅキは地面を向いたまま、さあ、と実真に斬首を迫る。
だが、実真が剣の柄頭に手を掛けることはなかった。
「お前を裁くのは私ではない」
そう言って、ある方を見つめた。
そこにやって来たのは、静乃と景平だった。
「佐門!」
静乃はホオヅキに駆け寄り、着物の裾が汚れるのも気にせず、自らも膝を折って視線を同じくした。その目には涙が浮かんでいた。
「姫様……」
「無事だったのですね。こんなに汚れて……」
静乃はホオヅキの顔の汚れを指で拭った。頬の傷痕を撫でるように。
「姫様……俺はもう」
ホオヅキが言いかけた時、景平が言葉をかぶせた。
「おい佐門、お前からも姫様に言ってくれ。このお方は、どうにも無理難題を命じなさる。ここまで来るのも大変だったんだ」
「……無理難題?」
「ああ、京の都まで連れて行けというのだ」
ホオヅキは驚いて静乃の顔を正面に見据えた。
「姫、それは危険です! 私は京からここまで来ましたが、郊外には殺気立った兵が集結しつつあり、その目をかいくぐるのは至難の業でした」
「ならば佐門、あなたは抜け道を知っているのですね?」
「あ――」
目を爛々と輝かせる静乃。ホオヅキはしまったと目を背ける。
「このバカ……」
景平はやれやれと短くため息を吐いた。
「佐門――あなたに命じます。私を京の都に連れて行きなさい」
「し、しかし……」
「姫の言うことが聞けぬのですか!」
「い、いえ! 滅相もない! あっ……」
「よろしい」
静乃はホオヅキにやさしく微笑みかけた。すると、ホオヅキの胸の中を支配していた黒いしこりが、ほろりほろりと崩れていく気がした。
「実真様――この伊藤佐門を私にお預けくださいますね?」
「預けるも何も、もとよりそなたの家臣のはずだが」
「そのとおりです……感謝いたします」
「だが、一つ解せぬことがある。渡会殿の屋敷にいるはずでは?」
「そ、それは……そのぉ……」
決まりの悪い顔をした静乃の代わりに景平が答える。
「至極単純なことではないか? 実真殿。家に帰るのだ」
「家に?」
「京は我らの家。貴殿も同じではないのか?」
「私が……」
大軍勢を引き連れて、たどっているのは単なる家路――まったく思ってもみなかった。だが、そう言われればそんな気もする。
「ならば止める理由はないな。そうだ、セナから言伝を預かっていた」
「セナから!?」静乃は声を上げた。
「京で会おう――と。出発したのは今しがただ」
「セナが……」静乃の口の端に喜びが浮かぶ。
「我らはこのまま京に向かう。間違いなく戦になるだろう――無事を祈る」
静乃は実真に深々と礼をした。すぐに出発の支度をし、陣を後にする。
その別れ際、静乃はある真実を実真に打ち明けようとした。
「実真様――」
「どうした?」
しかし――ここで自分が伝えるべきか、静乃は大いに迷った。
このことは実真と鬼童丸、そして浮世の物語――。
「いえ……行って参ります。ありがとうござました!」
静乃は真実を呑み込み、京の都に向かって歩き出した。実真は短い間にセナと静乃を見送り、なぜか一抹の寂しさを覚えた。
どうしてだろうか、これから同じ場所に向かうというのに――。
「よろしかったのですかな?」
声がして振り返ると、安長と九馬がいた。
「来ていたのか」
「主君の戦に駆け付けぬ家臣がおりますか」
安長の頼もしい言葉に、九馬もうんうんと緊張気味に頷く。
「じき都は戦場になりまする。あの娘たちは……」
「たとえ止めても止められん……あれは、そういうものだ」
※
砂塵が巻き起こり、街道に蹄の音が響き渡る。
「夕霧――はやく、もっとはやく」
黒衣の少女が漆黒の駿馬を巧みに駆る姿は、まるで黒い旋風だった。
夕霧はますます速度を上げてゆく。その凄まじい力に振り落とされないよう必死にしがみつきながら、セナはなおも速さを求める。
やがて、逢坂の関が見えてきた。
巨人の口のような門は、複雑に組まれた重厚な造りである。こちらに迫ってくるほどの威圧感は、さすがに京の都を守る最後の門にふさわしい。遠目からでもその大きさがわかる。これを突破するには万を超える兵が必要だろう。
あたりに見張りの兵士がちらほらと姿を現した。
「おい! 何者だ、止まれ!」
身を切るような疾風のごときセナに、その言葉は届かない。
夕霧の巨体が通ったあとにはゆるやかな風が吹いた。
正体不明の黒い騎馬に気付いた兵士たちが続々と動き始めた。
「何ヤツだ! 名を名乗れ!」
逢坂の関でも、門の上に弓兵が揃い始める。
とうとう前後の道は塞がれた。守備兵の包囲が狭まり始める。
それでも突き進むセナだったが、先に足を止めたのは夕霧だった。
「ヒヒィィィン!」
前足を高く上げ、後ろ足で立ってゆっくりと一回転し、勢いを殺す。
「どうした夕霧」
セナは懸命にしがみつきながら呼びかける。しかし夕霧は答えない。
それもそのはず、すでに前方は門に塞がれて道はない。徐々に包囲網が完成しつつある。夕霧の肉体が小刻みにうごめく。恐れているのか――。
するとセナは夕霧の首筋を撫で、その耳元でささやいた。
「聞いて、夕霧――心で風を感じるの」
荒かった夕霧の呼吸がしだいに落ち着いてきた。
「そう、わかるはずよ……風の姿が」
セナと夕霧は同時に前を向き、その視線が重なった。
見える――風のカタチが。
わかる――風の行方が。
「大丈夫……風はいつでも、吹いているから」
セナはやさしく言った。夕霧の身体に力がみなぎる。
そうして、大地が揺れるほどの巨大な一歩を踏み出した。その衝撃は近くにいたすべての兵たちの臓腑に響いた。
「な、何事だ!?」
守備隊の将が手すりを掴んで叫ぶ。漆黒の馬に乗った少女がこちらに向かって駆けてくると同時に、大気を震わす音が迫って来た。
「弓兵かまえーッ! うてェッ!!」
号令とともに雨のような矢が降り注ぐ。しかし、風に乗って速度を得た夕霧を狙うころには、矢は虚しく地上に突き刺さるだけだった。
「たかが小娘だぞ!? どうして当たらん!?」
困惑する弓隊に怒声が飛ぶ。
「第二射かまえーえ、え、ええ!?」
守備隊の将は、すでに門前に肉迫した夕霧の姿を眼下に捉えた。
そして、見た――。
大地を貫かんばかりに踏み込み、夕霧の巨体がふわりと宙を舞う。その背にまたがったセナはただ前だけを見つめている。
静かに時が流れた。門の守備兵たちは、漆黒の天馬が空の階段を駆け上がる様子をゆっくりと視界に収めていた。
「と、飛んだ……」
守備隊の将はぽっかりと口を開けて、見たままをつぶやく。その視線はとうとう関所の内側に向けられた。
ずん、と夕霧の蹄が、再び地上にその痕跡をつける音がした。長い長い時間だった。守備兵たちは呆気に取られ、自分が何を目撃したのか戸惑っている。
そうこうしているうちに、セナと夕霧は遥か遠くに駆け去っていた。
まるでひと時の夢のようだった。
実真が京の都から逃れて数か月のはずが数年にも思える。
供もつけずに東国に赴き、死線に身をさらして過ごしたあの頃よりも、永い旅路だったような気さえしている。
逢坂の関を抜け、山科の地を過ぎれば、京の都にたどり着く。
あの時は安長と九馬、静乃と景平、そして眠り続けるセナを背負って進んだ逃避行だった。
それが今や大軍勢を引き連れている。
一体、何の目的で京に向かうのか――時おり、めまいのように見失いそうになる。幽閉された帝を救出し、首謀者・御堂晴隆の罪を問う。たしかにそうだ。その大義のためにここまで来た。
だが、本当にそうなのか。
身体は一つなのに、無数の自分が中にいる気がする。その一つ一つにあらゆる感情、思惑、そして掲げる大義がある。
そのどれもが正解でいて、間違いでもある気がする。
「この手にしか出来ないこと……」
かつて浮世と交わした言葉がよみがえる。
そのつもりで今まで生きて来た。
東国の平定も、血まみれの赤子を抱えて走ったことも。
それなのに――それだからこそ――浮世は。
「ヒヒィィン!」
夕霧のいななきで実真は我に返った。
東の空が白む時。馬房で一人。水にひたした藁束でこすって身体を洗っている最中だった。今日の決戦に備え、英気を養う意味もある。
「すまぬ、夕霧。お前がいた。いつも一緒だったな」
夕霧はブルルと鼻を鳴らし、そっぽを向く。
実真は苦笑いを浮かべるしかなかった。
そのとき、馬房を訪れる人影が実真の背後に立った。
「セナ……やはり来たか」
実真は振り向くことなく言葉を投げ掛ける。たしかにセナである。
「水野実真――お願いに来た」
「京に戻るのか。鬼童丸に会いに」
「……ええ」
「死ぬ気か」
セナは眉間に皺を寄せる。
「どうしてそう思う?」
「鬼童丸はお前のすべてだった」
「たしかに……命令ならいつでも死ぬつもりでいた。でも、今は違う」
「違う……?」
「今、私の中にはたくさんの人がいる。静乃、りつ、サギリ、謡舞寮のみんな、望月に弓御前、そしてシュウジン――私のすべてだった鬼童丸は、今ではたくさんの中の一つになった。だから、私は死なない」
実真は振り向き、思わず息を止めた。ゆっくりと目を見開く。
あのセナが笑ったように見えたのだ。
そして、その笑みの中になぜか浮世の面影を見た。
「夕霧」
セナは名を呼んで夕霧の前に立つ。夕霧はまっすぐセナを見下ろした。
「京の都に行きたいの。力を貸して」
大きな澄んだ瞳がセナを映してしばらく、夕霧はゆっくりと首を傾け、鼻をセナの前に近づけた。いいでしょう――そう言っていた。
セナは夕霧の顔をやさしく撫でてやった。
実真は夕霧が自分から離れ、セナに心を許すのを見て思わず藁束を落とす。
「私は夕霧の主人だ……だが、夕霧が行くというのなら……」
その時だった。馬房の外から何やら喧騒が聴こえる。
「実真様!」
物々しい兵士の声。セナたちが外に出てみると、後ろ手に縄を打たれて項垂れた男が、兵士たちに両脇を固められていた。
「この者、陣中にいたところを捕えました。おそらく間者かと」
兵士は男の髪の毛を鷲掴みにして、顔をムリヤリ上げさせた。
「ホオヅキ!」
セナは声を張った。無精髭姿で汚れているが、間違いなくホオヅキだった。
「お前たちは下がっていい。あとは私が引き受ける」
実真は兵士たちに下がるよう目で促す。兵士たちが去ると、セナはホオヅキの縄を解いてやった。
「ホオヅキ、何があった」
「セナ……本当にお前か!」
ぼんやりとしていたホオヅキの瞳に光が宿る。
「目が覚めたのか……そうか……!」
「うん。私は平気。ホオヅキはなぜここに?」
「お前を探していた。ここにいるってことは事の成り行きは知っているな?」
成り行き――東国武士団と追討軍の衝突。そして実真と鬼童丸。
「お頭……いや、鬼童丸が投獄された。じきに処刑されるだろう」
「鬼童丸が……!」
「俺はもう、あの男とは袂を分かった。これからどうしたらいいのか俺にはわからん。ただ、お前にだけは伝えなきゃならんと思ったんだ」
セナはキッと唇を真横に結び、実真を見た。実真は頷いて見せる。
「ホオヅキ――ありがとう」
「セナ……お前……」
ホオヅキはセナの顔つきに以前にはないものを感じた。それを成長と呼んでいいのか変化と呼ぶのか、ホオヅキにはわからない。だが、何となく肩が軽くなった気がした。危険を冒してまで伝えに来てよかった。そう思った。
セナは手綱を引いて夕霧を馬房から連れて来た。
「水野実真――もう一つ頼みがある」
「ああ」
「静乃に言伝を。京で会おう、と」
「静乃に?」
「静乃は来る。きっと」
「……わかった」
セナは鐙に足を掛けて、ひょいと夕霧にまたがった。
「それから――あなたも私の中にいるよ。ありがとう」
セナは実真に微笑みかけた。今度は気のせいではない。実真はたしかにセナのほほえみをその目で捉えた。
「行こう、夕霧」
朝焼けの中、夕霧は駆け出した。まるで一陣の旋風のように。
実真はセナの姿が小さくなるまで見届けるうち、知らない間に自分が微笑を浮かべていたことに気付く。これから戦だというのに。
「さて、ホオヅキ。京で別れて以来だな」
実真はホオヅキに向き直る。ホオヅキは膝を突き、その首を差し出した。
「水野実真殿。この首、あんたに任せる。俺は黒鬼党に与して、さんざん自由を謳歌してきた。そのツケを支払わなきゃなんねえ」
「ツケを?」
「ああ。つくづく感じたよ。自由には代償がいる。鬼童丸の名のもとでいっぱしに生きて来たつもりだったが、何のことはねえ、ごっこ遊びをやってただけの、ただのガキだったよ」
ホオヅキは地面を向いたまま、さあ、と実真に斬首を迫る。
だが、実真が剣の柄頭に手を掛けることはなかった。
「お前を裁くのは私ではない」
そう言って、ある方を見つめた。
そこにやって来たのは、静乃と景平だった。
「佐門!」
静乃はホオヅキに駆け寄り、着物の裾が汚れるのも気にせず、自らも膝を折って視線を同じくした。その目には涙が浮かんでいた。
「姫様……」
「無事だったのですね。こんなに汚れて……」
静乃はホオヅキの顔の汚れを指で拭った。頬の傷痕を撫でるように。
「姫様……俺はもう」
ホオヅキが言いかけた時、景平が言葉をかぶせた。
「おい佐門、お前からも姫様に言ってくれ。このお方は、どうにも無理難題を命じなさる。ここまで来るのも大変だったんだ」
「……無理難題?」
「ああ、京の都まで連れて行けというのだ」
ホオヅキは驚いて静乃の顔を正面に見据えた。
「姫、それは危険です! 私は京からここまで来ましたが、郊外には殺気立った兵が集結しつつあり、その目をかいくぐるのは至難の業でした」
「ならば佐門、あなたは抜け道を知っているのですね?」
「あ――」
目を爛々と輝かせる静乃。ホオヅキはしまったと目を背ける。
「このバカ……」
景平はやれやれと短くため息を吐いた。
「佐門――あなたに命じます。私を京の都に連れて行きなさい」
「し、しかし……」
「姫の言うことが聞けぬのですか!」
「い、いえ! 滅相もない! あっ……」
「よろしい」
静乃はホオヅキにやさしく微笑みかけた。すると、ホオヅキの胸の中を支配していた黒いしこりが、ほろりほろりと崩れていく気がした。
「実真様――この伊藤佐門を私にお預けくださいますね?」
「預けるも何も、もとよりそなたの家臣のはずだが」
「そのとおりです……感謝いたします」
「だが、一つ解せぬことがある。渡会殿の屋敷にいるはずでは?」
「そ、それは……そのぉ……」
決まりの悪い顔をした静乃の代わりに景平が答える。
「至極単純なことではないか? 実真殿。家に帰るのだ」
「家に?」
「京は我らの家。貴殿も同じではないのか?」
「私が……」
大軍勢を引き連れて、たどっているのは単なる家路――まったく思ってもみなかった。だが、そう言われればそんな気もする。
「ならば止める理由はないな。そうだ、セナから言伝を預かっていた」
「セナから!?」静乃は声を上げた。
「京で会おう――と。出発したのは今しがただ」
「セナが……」静乃の口の端に喜びが浮かぶ。
「我らはこのまま京に向かう。間違いなく戦になるだろう――無事を祈る」
静乃は実真に深々と礼をした。すぐに出発の支度をし、陣を後にする。
その別れ際、静乃はある真実を実真に打ち明けようとした。
「実真様――」
「どうした?」
しかし――ここで自分が伝えるべきか、静乃は大いに迷った。
このことは実真と鬼童丸、そして浮世の物語――。
「いえ……行って参ります。ありがとうござました!」
静乃は真実を呑み込み、京の都に向かって歩き出した。実真は短い間にセナと静乃を見送り、なぜか一抹の寂しさを覚えた。
どうしてだろうか、これから同じ場所に向かうというのに――。
「よろしかったのですかな?」
声がして振り返ると、安長と九馬がいた。
「来ていたのか」
「主君の戦に駆け付けぬ家臣がおりますか」
安長の頼もしい言葉に、九馬もうんうんと緊張気味に頷く。
「じき都は戦場になりまする。あの娘たちは……」
「たとえ止めても止められん……あれは、そういうものだ」
※
砂塵が巻き起こり、街道に蹄の音が響き渡る。
「夕霧――はやく、もっとはやく」
黒衣の少女が漆黒の駿馬を巧みに駆る姿は、まるで黒い旋風だった。
夕霧はますます速度を上げてゆく。その凄まじい力に振り落とされないよう必死にしがみつきながら、セナはなおも速さを求める。
やがて、逢坂の関が見えてきた。
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「おい! 何者だ、止まれ!」
身を切るような疾風のごときセナに、その言葉は届かない。
夕霧の巨体が通ったあとにはゆるやかな風が吹いた。
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「何ヤツだ! 名を名乗れ!」
逢坂の関でも、門の上に弓兵が揃い始める。
とうとう前後の道は塞がれた。守備兵の包囲が狭まり始める。
それでも突き進むセナだったが、先に足を止めたのは夕霧だった。
「ヒヒィィィン!」
前足を高く上げ、後ろ足で立ってゆっくりと一回転し、勢いを殺す。
「どうした夕霧」
セナは懸命にしがみつきながら呼びかける。しかし夕霧は答えない。
それもそのはず、すでに前方は門に塞がれて道はない。徐々に包囲網が完成しつつある。夕霧の肉体が小刻みにうごめく。恐れているのか――。
するとセナは夕霧の首筋を撫で、その耳元でささやいた。
「聞いて、夕霧――心で風を感じるの」
荒かった夕霧の呼吸がしだいに落ち着いてきた。
「そう、わかるはずよ……風の姿が」
セナと夕霧は同時に前を向き、その視線が重なった。
見える――風のカタチが。
わかる――風の行方が。
「大丈夫……風はいつでも、吹いているから」
セナはやさしく言った。夕霧の身体に力がみなぎる。
そうして、大地が揺れるほどの巨大な一歩を踏み出した。その衝撃は近くにいたすべての兵たちの臓腑に響いた。
「な、何事だ!?」
守備隊の将が手すりを掴んで叫ぶ。漆黒の馬に乗った少女がこちらに向かって駆けてくると同時に、大気を震わす音が迫って来た。
「弓兵かまえーッ! うてェッ!!」
号令とともに雨のような矢が降り注ぐ。しかし、風に乗って速度を得た夕霧を狙うころには、矢は虚しく地上に突き刺さるだけだった。
「たかが小娘だぞ!? どうして当たらん!?」
困惑する弓隊に怒声が飛ぶ。
「第二射かまえーえ、え、ええ!?」
守備隊の将は、すでに門前に肉迫した夕霧の姿を眼下に捉えた。
そして、見た――。
大地を貫かんばかりに踏み込み、夕霧の巨体がふわりと宙を舞う。その背にまたがったセナはただ前だけを見つめている。
静かに時が流れた。門の守備兵たちは、漆黒の天馬が空の階段を駆け上がる様子をゆっくりと視界に収めていた。
「と、飛んだ……」
守備隊の将はぽっかりと口を開けて、見たままをつぶやく。その視線はとうとう関所の内側に向けられた。
ずん、と夕霧の蹄が、再び地上にその痕跡をつける音がした。長い長い時間だった。守備兵たちは呆気に取られ、自分が何を目撃したのか戸惑っている。
そうこうしているうちに、セナと夕霧は遥か遠くに駆け去っていた。
まるでひと時の夢のようだった。
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minohigo-
歴史・時代
戦国時代の九州。舞台装置へ堕した肥後とそれを支配する豊後に属する人々の矜持について、諸将は過去と未来のために対話を繰り返す。肥後が独立を失い始めた永正元年(西暦1504年)から、破滅に至る天正十六年(西暦1588年)までを散文的に取り扱う。
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
下級武士の名の残し方 ~江戸時代の自分史 大友興廃記物語~
黒井丸
歴史・時代
~本作は『大友興廃記』という実在の軍記をもとに、書かれた内容をパズルのように史実に組みこんで作者の一生を創作した時代小説です~
武士の親族として伊勢 津藩に仕える杉谷宗重は武士の至上目的である『家名を残す』ために悩んでいた。
大名と違い、身分の不安定な下級武士ではいつ家が消えてもおかしくない。
そのため『平家物語』などの軍記を書く事で家の由緒を残そうとするがうまくいかない。
方と呼ばれる王道を書けば民衆は喜ぶが、虚飾で得た名声は却って名を汚す事になるだろう。
しかし、正しい事を書いても見向きもされない。
そこで、彼の旧主で豊後佐伯の領主だった佐伯權之助は一計を思いつく。
浅井長政は織田信長に忠誠を誓う
ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
新選組誕生秘録ー愛しきはお勢ー
工藤かずや
歴史・時代
十八才にして四十人以上を斬った豪志錬太郎は、
土方歳三の生き方に心酔して新選組へ入る。
そこで賄い方のお勢の警護を土方に命じられるが、
彼の非凡な運と身に着けた那智真伝流の真剣術で彼女を護りきる。
お勢は組の最高機密を、粛清された初代局長芹沢 鴨から託されていた。
それを日本の為にとを継承したのは、局長近藤ではなく副長の土方歳三であった。
機密を手に入れようと長州、薩摩、会津、幕府、朝廷、明治新政府、
さらには当事者の新選組までもが、お勢を手に入れようと襲って来る。
機密は新選組のみならず、日本全体に関わるものだったのだ。
豪士は殺到するかつての仲間新選組隊士からお勢を護るべく、血みどろの死闘を展開する。
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