まひびとがたり

パン治郎

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京へ その1

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 大内裏から離れた左京の五条に、東洞院とうどういんという屋敷がある。
 つい最近まで内大臣の邸宅であったが、往時を忍ぶ影はない。戸も床も蹴破られ、庭園は荒らされ、折れた矢が立ち、柱には無数の刀傷が入っている。
 されど警備は厳重だった。打ち壊された築地塀のまわりを、多くの衛士たちが巡回している。炬火も夜どおし灯されていた。
 シュウジンは、衛士の目をかいくぐって邸内に侵入した。暗闇に紛れて奥へと進んでいく。そのうちシュウジンは顔をしかめた。
(片づけられているけど……血のニオイは漂っている)
 灯火の薄明かりが広廂ひろびさしの外に漏れ出している。目的の部屋が近い。
 すると巨大な物体が回廊を塞いでいた。それを見て絶句する。
「ああ……そんな……」
 蛾王だった。正確には、蛾王の死骸――である。
 その巨体には、矢と刀と槍が針山のように突き刺さっている。両目を見開いたまま、部屋を守るように力尽きて崩れていた。
「ごめん蛾王……ゆっくり眠っておくれ……」
 シュウジンは蛾王の顔を撫でてまぶたを閉じてやった。しばらく瞑目していたシュウジンだったが、静かに立ち上がり、火の灯る部屋の前に立つ。
 遣戸やりどに手をかけると、中から老女の歌声が響いた。

 遊びを せんとや 生れけむ 戯れ せんとや 生れけん

 シュウジンはゆっくりと遣戸を開けた。
 そこには、老女の膝を枕にして、背中を丸めて小さくなっている男の姿があった――弓御前と帝その人である。
「父……上……?」
 シュウジンは言葉を失くした。まるで別人だった。ふくよかだった頬はこけ、ギラギラしていたまん丸の目は萎み、その姿はまるで、まるで――。
(死人じゃないか……)
 それが幼子のように弓御前の膝に甘えている。両膝を胸に抱き、自分の指をくわえて。眠っているのか、死んでいるのか、定かにならない瞳を濡らし。
「お見えになると思っておりました――宗人親王」
 弓御前は帝の頭をやさしく撫でながら言った。
 シュウジンは部屋に入る一歩をためらった。見てはいけないモノを見てしまった気さえした。
 威厳に満ちあふれた父が、日ノ本の日輪であるはずの父が、今はただ自分よりも老いた女に身を任せ、うつろな目で虚空を捉えている。
「父上――私です。宗人です」
 シュウジンの必死な呼びかけにも帝は反応を示さない。
「お静かに、宗人親王。声は届きませぬ」
「何だって……」
「お慰めに歌をお聞かせしておりますが、それすら届いているのか」
「一体何があったんだ、弓御前」
「ご覧のとおりでございます。いささか、やりすぎではありますが」
「……御堂か」
「はい。なれど、半分は帝が御自ら望まれたこと」
「バカな」
「このお方はその身の輝きにより、どこにもお隠れすることが出来なかった。今やっと、ほんのささやかな安らぎを得たのです」
 シュウジンは部屋に踏み入るどころか、一歩後ずさってしまう。呼びかける言葉も、想いも、そして子の名ですら父には届かない。そう気付いてしまった。
 静かに遣戸を閉める。この場からはやく立ち去りたかった。
 しかし、どこに行けばいいのか。わからない。何もわからない。
「宗人親王……」
 夜の闇から呼び声がする。聞き覚えがある。
「戸勘解衆か。今ごろ父を迎えに来たのか?」
「否。あなた様を」
「僕を? 僕は帝ではないのに」
「我らがお仕えするのは帝であり、帝ではございませぬ」
 我ら――その言葉どおり、いつの間にかシュウジンを取り囲むようにあちこちの陰に気配が潜んでいる。
「戯言を……」
「否。戯言ではございませぬ。我らは帝の血にお仕えするだけのこと。すなわち宗人親王。そして――弟君にも」
 シュウジンの顔が一瞬にして強張った。
「弟はまだ幼い! 関係ないだろう!」
「否。十分おわかりのはず。ゆえに、帝は滅びぬのです」
「ああ……父上……」
 シュウジンの視界を浸食するように闇がはびこる。めまいがする。夜空を流れる風の囁きもしだいに遠ざかり、すべては無に包まれた。

          ※

 太政大臣には仕事がない。
 百官の頂点に立つ官職ではあるが、その実、何をしているのか、古来からとくにこれと言って決められても知られてもいない。そのため常設もされず、なくとも朝廷の運営には困らない。
 だが、名誉がある。
 それは帝と同じく、日ノ本で唯一ならぶ者がいないということ――。
 そんな御堂晴隆の邸宅に、怒号が響き渡った。
「御堂! どういうことだ!」
 鬼童丸である。制止する衛士や家来を振り払い、廻廊の板を破らんばかりの勢いで歩いていた。そのまま晴隆の居室に踏み入る。
「何事だ……騒々しい」
 晴隆は鬼童丸に冷たい一瞥を投げた。戦場から戻ったばかりの鬼童丸の土足を見て、鋭い目をさらに細める。
「なぜ兵を退いた!? 答えろ!」
「ならば……答える前に聞こう。あの兵で勝てたか?」
「貴族どもの弱兵でか?」
「鬼童丸、質問をしているのはこの私だ」
「それが何だ? 軍を率いているのはこの俺だ!」
 しばらく睨み合いが続くかと思われた。
 だが、晴隆の不意の笑みで沈黙は破られる。
「何がおかしい」
「私もお人好しだ……お前が水野実真を討つと、少し――期待をしていた」
「何だと」
「鬼童丸。貴様は少なからず理解があると思っていた。陰と陽は混濁し、善悪定かならぬその果てにあるものが見えているのだと。だが、しょせんはただの鬼だったようだ。私もまだまだ……甘い」
「言葉遊びはいい、お前の兵を寄こせ! 正面から殺してやる!」
「よいか、お前を緋獄から出した理由は二つある。一つは京の人間に忌み嫌われてもらうこと。お前が目立ってくれて仕事がやりやすかった」
 それと――と、晴隆は言う。
「水野実真を戦場に引きずり出すこと。あの武力は帝の権威を脅かす。この意味がわかるか? もう一つの権威になり得るということだ。政治で排しても声望は失われぬ。それどころか、ますます強くなるだろう。それゆえ、あの男には大罪人になってもらう必要があった。そしてまもなく、それは成る」
 晴隆は立ち上がり、鬼童丸の目の前に立つ。
「今、水野実真は京に攻め上っている――お前の役割は終わった」
 その瞬間、居室に武装した兵士がなだれ込み、二人を取り囲む。剣の切っ先はすべて鬼童丸に向けられていた。
「日ノ本を変える大仕事が始まる。緋獄で耳でもすましていろ」
「御堂ォ!!」
 鬼童丸の凄まじい咆哮を涼しい顔で無視し、晴隆は悠然と居室を後にした。
 その去り際に少しだけ振り返る。
「鬼童丸――新しき世に、お前の居場所はない」

          ※

「な、なんだァ!? 俺たちゃ日ノ本の果てに来ちまったのか!?」
 鍛治谷は目の前に広がる光景に愕然としていた。視界に見切れないほどの水面が陽射しを受けて煌めいている。
 これはまさしく――。
「海ではないか!!」
「馬鹿、これは湖だ」
 祭子は半ば呆れて言った。
「とはいえ……広いな。噂には聞いていたが」
 鍛治谷が勘違いしたそれは『琵琶湖』である。鼻を鳴らして嗅いでみるも潮の香りはしない。風に煽られて細波が立つ程度で、海原のような大きなうねりはどこを見渡してもない。なるほど、海ではない――と、鍛治谷は思った。
「一体どうしたんです?」
 そこに志郎がやって来た。
「なに、鍛治谷の馬鹿めがコレを海と早とちりしたのだ」
「ははは、無理もない。琵琶湖は広いですからね」
 現在――東国武士団は、琵琶湖の南東部沿岸にまで軍を進めていた。
 鈴鹿山脈を越え、柘植ノ平を確保すると北西に進路を取ったのである。
 途中、幾度かの小競り合いがあったものの、進軍は速やかに行われ、いよいよ最後の難所となる逢坂の関の目前にたどり着いた。
 ここを突破すれば京に隣接している山科やましなの地に出る。山科は平野部であり、ほぼ確実に野戦での全面対決が予想されている。決戦は近い――。
「それで、そちらの首尾はどうだ?」
「湖族と交渉して協力を得ました。全軍とは行きませんが、ある程度なら兵を運ぶ船が使えます。これで逢坂の関に向けて南北に展開できる」
「待て志郎、湖族とは?」
「ええ、僕も初めて知ったのですが、琵琶湖の水運は彼らが一手に握っているそうです。むろんそのための武力もあるので、まあ、水軍ですね」
「水軍か! 面白い!」
 鍛治谷は拳を握って昂った。が、祭子はどうにも訝る表情である。
「信用出来るのか?」
「出来ます――とは言えません。彼らが水運を掌握しているのは、帝の後ろ盾あってのものですし。ただ、湖族もまた一枚岩ではないということです」
「大義は一つではない……か」
「どれも脆い船です」
「たとえそうでも往くしかあるまい。あとは実真殿だが……」
 祭子は手をかざし、琵琶湖の頭上に輝く太陽を見上げた。
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