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破天の日 その2
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時は三日前に遡る――。
京の都で、鬼童丸は追討軍の将たちの前に立ち、出陣前の訓示(演説)を行っていた。
狙いは一つ、完全な勝利のため。
追討軍の将には永現の乱で功を上げた在京武士たちも名を連ねている。彼らにとって鬼童丸は、どこの馬の骨とも知れぬケダモノに過ぎない。整列こそしているものの、表情は完全に侮っており、命令に従う気もなかった。
「これからやるのは戦だ。だが、お前たちは戦を知らねえ」
鬼童丸は開口一番にこう言った。
将たちは顔を見合わせて笑う。その中の一人が発言した。
「お言葉ですが、我らはもう何度も戦を経験しておりまする。そちらこそ戦を知らぬのでは? 我らがここに参上仕ったのは、貴殿が御堂様の大抜擢を受けたからこそ。ゆえに将として認めたのでは――」
「ごちゃごちゃうるせえ!」
鬼童丸は怒号で場を鎮めた。だが、侮りは消えない。
「いいか、兵ってヤツは率いる頭で性質が変わる。出来そこないの頭がいくつもあっちゃあ困るんだ」
「わ、我らを愚弄する気か!?」
将たちから声が飛ぶ。鬼童丸は鋭く一瞥し、無視して続ける。
「そして、戦ってヤツは何が起こるかわからねえ……例えば」
鬼童丸は人差し指を天に向かって立てた。諸将は戸惑いながら謎の時間を無言で過ごす。
すると突然、一条の矢が降って来て、将の一人の頭を射抜いた。
諸将は何が起こったかわからず、姿勢を低くして次に備える。
「――と、まあこんなふうに、死はいきなりやってくる……で、誰が死んだ?」
射抜かれた将の顔を確認すると、まだ年若く色白の男だった。
「こ、この方は……清原家の憲頼様です!」
清原家は朝廷の中でも有数の名家。追討軍にはこうした貴族の子弟が立派な甲冑を着て混じっていた。むろん前線で戦うことは少ない。名目上の戦功を立てさせ、朝廷内での発言力を強めるためである。
「もし矢が俺を射抜いていたら……戦は終わっていただろう。頭とはそういうことだ。そして敵にも頭はある。今からお前たちは手足だ。生き延びてぇなら頭の命令に従え――いいな?」
誰も異論は唱えなかった。緩みきった空気が、恐怖と緊張で一気に凍えた。
「の、憲頼様のことは……?」
将の一人が鬼童丸に問う。鬼童丸は背を向けて煩わしそうに言った。
「名誉の戦死を遂げた――とでも言っておけ。親も喜ぶ」
鬼童丸は小さく舌打ちした。
将兵の顔ぶれが気に入らない。いるのは貴族の子弟ばかりで、御堂が有する西国武士団は一人も招集していない。もともと兵力は当てにしていないが、戦に怖気づいて勝手に逃げられても困る。
追討軍は京の都を発した。だが、鬼童丸は本隊とはともに進軍せず、かつての手下たちを集めた先遣部隊を別に編成し、早駆けで東に向かった。
わずか一日で近江国(現在の滋賀県)と伊賀国(現在の三重県)の境界にある甲賀村という所にたどり着いた。
甲賀村は伊勢国とは目と鼻の先であり、半日とかからない。
遅れて来る本隊を待つためにもここで宿を取ることにした。
追討軍の総大将とあれば、村人たちは歓迎しないわけにもいかない。村長の屋敷に鬼童丸一行を泊めた。
「またこうしてお頭と村を巡るとは、思いもしませんでしたよ」
かつての黒鬼党の手下が言った。鬼童丸は酒杯を傾け、フッと短く笑う。
「名前や立場が変わろうと、人間そうそう変わらねぇってことだな」
そう言った後で、胸の中で風が吹いた気がした。涼しすぎる風が。
「失礼つかまつる」
そこに、一人の男がやって来た。身なりは修験者。薄汚れた鈴懸(修行用の登山服)に一本歯の下駄、背中には笈(生活用品を入れた箱)を背負っている。奇怪なのは、鈴懸の袖が地面につくほど長く幅広なことと、何より頭部を覆う頭巾に迦楼羅(カルラ・神鳥の化身)の仮面で顔を隠していること。
「何だ貴様は……天狗のおでましか?」
鬼童丸は片膝を立て、男を睨む。
「私は信濃国(現在の長野県)の戸隠から参った蘆名義遠と申す者。帝に仇なす賊を討つと聞き、末席に加えて頂きたく参上仕った」
「そんな遠い所から来たってのか? 都を出たのは昨日だぜ?」
「私には多くの目と耳がありますゆえ」
そう言って、腰に提げた竹筒に視線を落とした。
「この中に管狐という小さな狐がおります。こやつはその身を九十九に分かつことができ、自由に空を飛び、人語まで理解します」
「薄気味悪いヤツだな……おい」
鬼童丸は持っていた酒杯を蘆名に向かって投げつけた。
蘆名は瞬時に太い鉄の針(手裏剣の一種)を放って酒杯を射落とす。が、鬼童丸は酒杯に続いて黒い笄も放っており、次の瞬間には蘆名の迦楼羅面に黒い笄が深々と突き刺さった。蘆名はばたりと背中から倒れた。
「……なんでぇ、大したことのねぇ」
手下が嘲るように蘆名を見下ろす。すると、絶命したはずの蘆名がバネのように跳ね、そのまま起き上がった。
仮面に刺さった黒い笄を、蘆名は何事もなく抜き取る。手下は自分の見間違いだったかと目をこするも、たしかに顔まで刺さったはずだった。
「これが私の修めた『隠れし者の術』――の、一つでございます」
鬼童丸は目を細めた。
「役に立つなら何でもいい。名を売る場を与えてやる」
「有難き幸せ」
「だが忘れるな。敵の大将は俺の獲物だ。もし邪魔しやがったら、お前の修めた技ごと斬り捨ててやる」
「……承知」
蘆名義遠――その秘術はのちに『忍術』と呼び名を変える。
それは代々継承され、術を操る者は『忍び』と呼ばれることになるが、それはまた別の話――。
※
歴史はいつも、今日という日に変わって来た。
鈴鹿の関を前にして、東国武士団の兵士たちは緊張していた。
雲の隙間から日が差し込み、穏やかな風が吹いている。これから犯す大罪を予感させるモノは何もない。
だが、それがやけに恐ろしい。
木で組まれた巨大な関所の門は静かに口を閉じている。先頭で対峙するのは水野実真。身にまとうは白絲威の大鎧。龍を模した鍬形飾りの星兜。携えるは剛の者しか引けぬ重籐の弓。鋭い諸刃のダマスカの剣。
額に一点星の漆黒の馬・夕霧にまたがり、よく通る声で言い放った。
「我は東国武士団の盟主・水野実真――京の都に馳せ参じるためまかり越した。手荒な真似はしたくない。速やかに門を開けられよ」
応答はない。沈黙が続く。
「俺が合図したら番兵を射落とせ。どのみち戦は避けられん」
鍛治谷が脇に控えていた射手に言った。
すると、音を立てて門が開いた。
「あ、開いたぞ……!?」
兵士たちは驚きのあまり互いに顔を見合わせる。門の上から鈴鹿の関の監督官と思われる武将が出て来て言った。
「多勢に無勢だ。降伏する。どうか兵の安全を約束してくだされ」
「当然だ。危害を加えるつもりはない」
そう言って実真は門をくぐろうと夕霧を歩かせた。鍛治谷は馬の腹を蹴り、慌ててそれを追いかける。
「お、おい! 実真! 敵の罠かもしれんのだぞ!」
「堂々としていろ。弱く見える」
鍛治谷は矢が飛んでくるのを警戒し、キョロキョロと周囲を見渡す。一方の実真は威風堂々。当たり前のように門を通過してしまった。
それに兵士たちが続く。あまりの呆気なさにみな半信半疑である。
ついに東国武士が関を越えた。朝廷の命令ではない。自らの意志である。
歴史上誰も行わなかったことを、まさに自分たちが成した。かつて関東で覇をとなえた御堂虎次郎でさえ成し遂げられなかったことだ。
「これより部隊を分ける。鍛治谷殿、予定通り兵を預ける」
鍛治谷は実真に深く頷いて見せる。
「一ついいか? 今後は俺も呼び捨てにしろ。盟主は堂々としているものだ」
実真は鍛治谷のちょっとした意趣返しに短く笑った。
「ふっ……わかったよ、鍛治谷。あとは頼む」
「承知した!」
東国武士団はこれより鍛治谷兵衛が代理で指揮を執る。鈴鹿山脈を抜けて柘植ノ平を目指すため、五千人もの軍団の再編成を行った。
一方、実真の部隊はわずか十名ほど。
「この人数で敵大将を止めるのか……」
祭子が訝しみながら兵士の顔ぶれを見る。いずれも精兵である。が、何とも心許ない。千騎の軍を率いてきた祭子からすれば裸も同然だった。
「多いと鈍る。鬼童丸の狙いはたった一撃。それは鷲の爪、狼の牙」
セナはそう言って山岳用に編んだ草鞋の緒をしっかりと結んだ。左右の手に手甲も装備している。そして黒鬼党の頃に着ていたような黒い衣。
「山での戦いとはこういうものか」
「薙刀はいらない。短い得物を」
「なるほど、木々が邪魔で振りまわせないのだな?」
「そう。軽くて持ちやすいモノを」
祭子は愛用の大薙刀を置いた。兵士たちが意外そうに見る。大薙刀は姫夜叉の代名詞とも言える代物。それを手放すとは。
「支度は出来たか?」
そこに実真がやって来た。さきほどの大鎧をまとった武者振りから一転、なんとも地味な直垂姿である。手甲と脚絆に薄い鉄板を仕込んでおり、甲冑には劣るものの機動性と防御力を両立させた出で立ちであった。
「祭子、そなたの武器を持って来た」
そう言って実真は一振りの打ち刀を差し出した。刀身は幅広で分厚く、さながら鉈のようである。山での戦いに向いている。
だが、祭子は受け取らない。きょとんとしている。
「どうした? 気に入らないのか?」
「いや……そうではなくて」
「ああ、呼び捨てのことか。鍛治谷に言われたのだ。嫌か?」
「い、いや……」
嫌じゃない。そう言おうとして祭子は呑み込んだ。
「やはり嫌か……」
祭子は実真の手から打ち刀を奪い取った。
「す、好きに呼べ! 私は戦の支度がある。ではな!」
そう言ってどこかへ去ってしまった。セナも実真も祭子のなぜか不機嫌な様子に首をかしげ、互いに目を合わせた。
「それと、セナにはコレを」
実真はセナに黒い笄を手渡した。
「これは……」
「セナの物だ。どうしても捨てられなかった」
間違いない。持ち手に蝶を象った彫刻。長さ、重さ、冷たい感触。鬼童丸からもらった黒い笄である。そして、この笄が自分の胸を刺した。
「ありがとう」
セナは長く伸びた髪の毛をきつく束ね、黒い笄を挿した。
京の都で、鬼童丸は追討軍の将たちの前に立ち、出陣前の訓示(演説)を行っていた。
狙いは一つ、完全な勝利のため。
追討軍の将には永現の乱で功を上げた在京武士たちも名を連ねている。彼らにとって鬼童丸は、どこの馬の骨とも知れぬケダモノに過ぎない。整列こそしているものの、表情は完全に侮っており、命令に従う気もなかった。
「これからやるのは戦だ。だが、お前たちは戦を知らねえ」
鬼童丸は開口一番にこう言った。
将たちは顔を見合わせて笑う。その中の一人が発言した。
「お言葉ですが、我らはもう何度も戦を経験しておりまする。そちらこそ戦を知らぬのでは? 我らがここに参上仕ったのは、貴殿が御堂様の大抜擢を受けたからこそ。ゆえに将として認めたのでは――」
「ごちゃごちゃうるせえ!」
鬼童丸は怒号で場を鎮めた。だが、侮りは消えない。
「いいか、兵ってヤツは率いる頭で性質が変わる。出来そこないの頭がいくつもあっちゃあ困るんだ」
「わ、我らを愚弄する気か!?」
将たちから声が飛ぶ。鬼童丸は鋭く一瞥し、無視して続ける。
「そして、戦ってヤツは何が起こるかわからねえ……例えば」
鬼童丸は人差し指を天に向かって立てた。諸将は戸惑いながら謎の時間を無言で過ごす。
すると突然、一条の矢が降って来て、将の一人の頭を射抜いた。
諸将は何が起こったかわからず、姿勢を低くして次に備える。
「――と、まあこんなふうに、死はいきなりやってくる……で、誰が死んだ?」
射抜かれた将の顔を確認すると、まだ年若く色白の男だった。
「こ、この方は……清原家の憲頼様です!」
清原家は朝廷の中でも有数の名家。追討軍にはこうした貴族の子弟が立派な甲冑を着て混じっていた。むろん前線で戦うことは少ない。名目上の戦功を立てさせ、朝廷内での発言力を強めるためである。
「もし矢が俺を射抜いていたら……戦は終わっていただろう。頭とはそういうことだ。そして敵にも頭はある。今からお前たちは手足だ。生き延びてぇなら頭の命令に従え――いいな?」
誰も異論は唱えなかった。緩みきった空気が、恐怖と緊張で一気に凍えた。
「の、憲頼様のことは……?」
将の一人が鬼童丸に問う。鬼童丸は背を向けて煩わしそうに言った。
「名誉の戦死を遂げた――とでも言っておけ。親も喜ぶ」
鬼童丸は小さく舌打ちした。
将兵の顔ぶれが気に入らない。いるのは貴族の子弟ばかりで、御堂が有する西国武士団は一人も招集していない。もともと兵力は当てにしていないが、戦に怖気づいて勝手に逃げられても困る。
追討軍は京の都を発した。だが、鬼童丸は本隊とはともに進軍せず、かつての手下たちを集めた先遣部隊を別に編成し、早駆けで東に向かった。
わずか一日で近江国(現在の滋賀県)と伊賀国(現在の三重県)の境界にある甲賀村という所にたどり着いた。
甲賀村は伊勢国とは目と鼻の先であり、半日とかからない。
遅れて来る本隊を待つためにもここで宿を取ることにした。
追討軍の総大将とあれば、村人たちは歓迎しないわけにもいかない。村長の屋敷に鬼童丸一行を泊めた。
「またこうしてお頭と村を巡るとは、思いもしませんでしたよ」
かつての黒鬼党の手下が言った。鬼童丸は酒杯を傾け、フッと短く笑う。
「名前や立場が変わろうと、人間そうそう変わらねぇってことだな」
そう言った後で、胸の中で風が吹いた気がした。涼しすぎる風が。
「失礼つかまつる」
そこに、一人の男がやって来た。身なりは修験者。薄汚れた鈴懸(修行用の登山服)に一本歯の下駄、背中には笈(生活用品を入れた箱)を背負っている。奇怪なのは、鈴懸の袖が地面につくほど長く幅広なことと、何より頭部を覆う頭巾に迦楼羅(カルラ・神鳥の化身)の仮面で顔を隠していること。
「何だ貴様は……天狗のおでましか?」
鬼童丸は片膝を立て、男を睨む。
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「そんな遠い所から来たってのか? 都を出たのは昨日だぜ?」
「私には多くの目と耳がありますゆえ」
そう言って、腰に提げた竹筒に視線を落とした。
「この中に管狐という小さな狐がおります。こやつはその身を九十九に分かつことができ、自由に空を飛び、人語まで理解します」
「薄気味悪いヤツだな……おい」
鬼童丸は持っていた酒杯を蘆名に向かって投げつけた。
蘆名は瞬時に太い鉄の針(手裏剣の一種)を放って酒杯を射落とす。が、鬼童丸は酒杯に続いて黒い笄も放っており、次の瞬間には蘆名の迦楼羅面に黒い笄が深々と突き刺さった。蘆名はばたりと背中から倒れた。
「……なんでぇ、大したことのねぇ」
手下が嘲るように蘆名を見下ろす。すると、絶命したはずの蘆名がバネのように跳ね、そのまま起き上がった。
仮面に刺さった黒い笄を、蘆名は何事もなく抜き取る。手下は自分の見間違いだったかと目をこするも、たしかに顔まで刺さったはずだった。
「これが私の修めた『隠れし者の術』――の、一つでございます」
鬼童丸は目を細めた。
「役に立つなら何でもいい。名を売る場を与えてやる」
「有難き幸せ」
「だが忘れるな。敵の大将は俺の獲物だ。もし邪魔しやがったら、お前の修めた技ごと斬り捨ててやる」
「……承知」
蘆名義遠――その秘術はのちに『忍術』と呼び名を変える。
それは代々継承され、術を操る者は『忍び』と呼ばれることになるが、それはまた別の話――。
※
歴史はいつも、今日という日に変わって来た。
鈴鹿の関を前にして、東国武士団の兵士たちは緊張していた。
雲の隙間から日が差し込み、穏やかな風が吹いている。これから犯す大罪を予感させるモノは何もない。
だが、それがやけに恐ろしい。
木で組まれた巨大な関所の門は静かに口を閉じている。先頭で対峙するのは水野実真。身にまとうは白絲威の大鎧。龍を模した鍬形飾りの星兜。携えるは剛の者しか引けぬ重籐の弓。鋭い諸刃のダマスカの剣。
額に一点星の漆黒の馬・夕霧にまたがり、よく通る声で言い放った。
「我は東国武士団の盟主・水野実真――京の都に馳せ参じるためまかり越した。手荒な真似はしたくない。速やかに門を開けられよ」
応答はない。沈黙が続く。
「俺が合図したら番兵を射落とせ。どのみち戦は避けられん」
鍛治谷が脇に控えていた射手に言った。
すると、音を立てて門が開いた。
「あ、開いたぞ……!?」
兵士たちは驚きのあまり互いに顔を見合わせる。門の上から鈴鹿の関の監督官と思われる武将が出て来て言った。
「多勢に無勢だ。降伏する。どうか兵の安全を約束してくだされ」
「当然だ。危害を加えるつもりはない」
そう言って実真は門をくぐろうと夕霧を歩かせた。鍛治谷は馬の腹を蹴り、慌ててそれを追いかける。
「お、おい! 実真! 敵の罠かもしれんのだぞ!」
「堂々としていろ。弱く見える」
鍛治谷は矢が飛んでくるのを警戒し、キョロキョロと周囲を見渡す。一方の実真は威風堂々。当たり前のように門を通過してしまった。
それに兵士たちが続く。あまりの呆気なさにみな半信半疑である。
ついに東国武士が関を越えた。朝廷の命令ではない。自らの意志である。
歴史上誰も行わなかったことを、まさに自分たちが成した。かつて関東で覇をとなえた御堂虎次郎でさえ成し遂げられなかったことだ。
「これより部隊を分ける。鍛治谷殿、予定通り兵を預ける」
鍛治谷は実真に深く頷いて見せる。
「一ついいか? 今後は俺も呼び捨てにしろ。盟主は堂々としているものだ」
実真は鍛治谷のちょっとした意趣返しに短く笑った。
「ふっ……わかったよ、鍛治谷。あとは頼む」
「承知した!」
東国武士団はこれより鍛治谷兵衛が代理で指揮を執る。鈴鹿山脈を抜けて柘植ノ平を目指すため、五千人もの軍団の再編成を行った。
一方、実真の部隊はわずか十名ほど。
「この人数で敵大将を止めるのか……」
祭子が訝しみながら兵士の顔ぶれを見る。いずれも精兵である。が、何とも心許ない。千騎の軍を率いてきた祭子からすれば裸も同然だった。
「多いと鈍る。鬼童丸の狙いはたった一撃。それは鷲の爪、狼の牙」
セナはそう言って山岳用に編んだ草鞋の緒をしっかりと結んだ。左右の手に手甲も装備している。そして黒鬼党の頃に着ていたような黒い衣。
「山での戦いとはこういうものか」
「薙刀はいらない。短い得物を」
「なるほど、木々が邪魔で振りまわせないのだな?」
「そう。軽くて持ちやすいモノを」
祭子は愛用の大薙刀を置いた。兵士たちが意外そうに見る。大薙刀は姫夜叉の代名詞とも言える代物。それを手放すとは。
「支度は出来たか?」
そこに実真がやって来た。さきほどの大鎧をまとった武者振りから一転、なんとも地味な直垂姿である。手甲と脚絆に薄い鉄板を仕込んでおり、甲冑には劣るものの機動性と防御力を両立させた出で立ちであった。
「祭子、そなたの武器を持って来た」
そう言って実真は一振りの打ち刀を差し出した。刀身は幅広で分厚く、さながら鉈のようである。山での戦いに向いている。
だが、祭子は受け取らない。きょとんとしている。
「どうした? 気に入らないのか?」
「いや……そうではなくて」
「ああ、呼び捨てのことか。鍛治谷に言われたのだ。嫌か?」
「い、いや……」
嫌じゃない。そう言おうとして祭子は呑み込んだ。
「やはり嫌か……」
祭子は実真の手から打ち刀を奪い取った。
「す、好きに呼べ! 私は戦の支度がある。ではな!」
そう言ってどこかへ去ってしまった。セナも実真も祭子のなぜか不機嫌な様子に首をかしげ、互いに目を合わせた。
「それと、セナにはコレを」
実真はセナに黒い笄を手渡した。
「これは……」
「セナの物だ。どうしても捨てられなかった」
間違いない。持ち手に蝶を象った彫刻。長さ、重さ、冷たい感触。鬼童丸からもらった黒い笄である。そして、この笄が自分の胸を刺した。
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