まひびとがたり

パン治郎

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謡舞寮、誕生(むかしがたり) その3

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 季節は廻り、戦火に晒された大地にも実りの秋が到来した。
 実真は浮世にこんなことを言った。
「風の姿を見たことがあるか?」
「風の姿? はて……風にそのようなものが?」
「あるんだよ。行こう、浮世」
 実真が浮世の手を引いて連れて行った場所は、村の近くだった。
 そこには視界いっぱいに稲穂が広がっていた。柔らかい日差しを受け、重たく実った稲がそよ風に揺れている。
 秋の黄金、黄金の海だった――。
「ごらん、浮世。風が見える」
「風が……あっ」
 浮世は見た。風の姿を。
 波打つ稲穂がくっきりとその輪郭を写している。背後から通り過ぎる風が、大きすぎて見切れないほどの姿をほんの少しだけ、稲穂を撫でるその瞬間に。
「先日、父が亡くなった」
 思わぬことを実真は言った。浮世は静かに横顔を見る。
「前の日まで元気だったのに、わからぬものだ。これで私は水野家の当主となった。もう、ここには来れぬ」
「そう……でしたか」
 実真はゆっくり振り向き、浮世の視線を受け止めた。
「浮世、私の妻になってはくれぬか?」
 浮世はかすかに唇を開く。
「……妻に」
「ああ。この申し出が、そなたの自由を奪うのは知っている。だが、どうしても言わずにいられなかった」
「しかし実真様。私は流しの舞人。下賤の者にございます。とても妻としてあなたのおそばにいられるような身分では……」
「よいのだ。私が浮世を求めた。それだけで十分であろう。なぜなら私の心は今とても自由なのだから」
 浮世は口をぽかんと開けた。
「……浮世? どうした? ダメか?」
「あっ、いえ、あんまり驚いてしまって」
「私の求婚が? それとも、自由を口にしたことが?」
「それもありますけど、違います」
「では……?」
「あれほど自由を求めた私が……今とても、不自由に心ひかれている」
「そ、それでは!」
「……はい」
 その時だった。村へと続く道を駆け抜ける来世の姿が目に入った。額に汗を浮かべ、必死の形相で走って来る。
「浮世! 逃げろ! はやく!」
 来世の後ろに、直垂姿の男たちの集団がぞろぞろと早足で歩いていた。
 実真は浮世と来世を背にかばい、前に出た。
「そなたらは何者だ? 何の目論見があってここにいる?」
 集団の中から一人、いかにも温和な風貌の男が進み出る。
「帝の命により、そこな舞人を内裏にお招きする。邪魔立てするとあらば、謀反人として始末いたす――水野実真殿」
「帝の……戸勘解衆か」
「いかにも。道を開けよ」
「ならぬ。浮世は私の妻になる人だ」
 実真は太刀の柄に手をかけた。緊張が走る。
 温和な風貌の男が目で指図すると戸勘解衆の二人が実真の前に立ちはだかる。二人はじりじりと間を詰めると、左右から一瞬で飛び込んだ。
 実真の目は二人の動きを瞬時に捉え、わずかな動作で左右の迫撃を避け、一方には太刀の柄頭を、もう一方にはこじり(鞘の先端)を、半分だけ抜刀することによって双方の喉に打ち込んだ。太刀を大きく動かすために、問答の最中に密かに太刀緒を緩めていたのだった。
「我ら相手に手加減とは……恐ろしき武よ。帝のためにその武が振るわれればよし。もし、そうでないならば……」
「よく見ろ、私は刀を抜き切ってはいない。だが、出方によっては切っ先を見せることになるだろう」
「それは謀反の意志ありと……?」
「私に刀を抜かせるな」
 実真の戸勘解衆の男が静かに睨み合う。すると、浮世が前に進み出た。
「帝の御遣いと申しましたね? すぐに参りましょう」
「浮世!」
 実真と来世が同時に名前を呼んだ。浮世は振り返って微笑む。
「帝は私の舞をご所望なのでしょう。だったらお見せしない理由はない」
「し、しかし、もし帝が浮世を留め置くつもりなら……」
 浮世は首を横に振った。
「命を粗末にしてはいけません」
 さきほどまで太刀の柄を握っていた実真の手をやさしく両手で包む。
「私はこの手が大好きです。どうか実真様、この手にしか出来ないことを」
 浮世はそう言うと、振り返らずに実真と来世のもとから去って行った。

          ※

 それからひと月が過ぎ、冬の気配がそこここに忍び寄っていた。
 浮世は戻ってこなかった。来世もまた姿を消した。
 実真は正式に水野家の当主となり、多くの郎党を率いる身分となった。
 その武勇を高く評価され、若くして検非違使(軍事・警察組織)の佐(副長官)に大抜擢された。
 実真の屋敷の庭に来世が訪れたのは、その年の瀬のことだった。
「来世! 無事だったか!」
 夜陰から浮かび上がるように姿を現した来世に、実真は駆け寄る。
 すると来世は実真の頬を打った。
「何をやっているんだテメェは!」
「来世……」
「浮世は帝の舞人になった。帰ってこない」
「どういうことだ」
「俺は今、浮世の楽人として内裏にいる。浮世はもう、帝の前でしか舞を差すことが出来ねえ。全部……わかってたことだろうが……クソッ」
 来世は口元を歪め、それから背を向けた。
「来世」
「気安く呼ぶな。お前はあの時、相手が誰だろうと斬り捨てて、浮世を守るべきだった。たとえそれが帝でもな。もう俺たちのことは忘れろ」
 そう言って来世は屋敷から去った。実真は立ち尽くすしかなかった。

          ※

 その頃、清涼殿の東庭に浮世はいた。
 殿上の間に設えた殿上御椅子に帝は腰掛け、炬火を煌々と焚き、庭で舞い踊る浮世を静かに見つめている。
 広い空間にあって、ただ二人きりの宴だった。
 空には鈍色の雲が垂れ込め、それほど寒くないにもかかわらず、小雪が舞い始めた。泡のような雪は地上に落ちる前に溶けて消えた。
「浮世……もう、よい」
 帝はふと漏らした。浮世は舞いを止めて振り向くと、帝は泣いていた。
「どうなされました」
「のう、天女はこの世にいると思うか……」
「天女……」
「わしは、幼い頃からずっと天女を探しておる。乳母の寝物語の中に、任を終えて帰還した者の土産話に、異国から訪れた商人の伝え聞きに……だが、どこにもいなかった。ならばせめて、天女を感じたいと思ったのだ。天女の美しい声、麗しき舞。その一端を、少しでも……」
 帝は崩れるように椅子から落ち、さめざめと泣いた。浮世は静かに歩み寄り、その背中をそっと撫でる。すると帝は浮世の膝に顔をうずめた。
「お前こそが天女だと思うたのに……どうしてお前は天女ではないのだ」
「私は……」
「たしかにお前はどの舞人よりも美しく、麗しく舞う。だが、噂通りの天女ではない。どうすれば天女になる!? 教えてくれ、浮世!」
 帝は泣きながら、必死に浮世にしがみついた。まるで幼子のようだった。
「すまぬ……無理を言うた」
「いえ……」
「わしは自分がわからぬ。父の死に涙も流せず、実の弟をこの手で追いやり、家臣の多くを殺した。一体、何がしたいのだろう」
 浮世はやさしく背中を撫で続けた。ふと月を見上げる。皓々と輝く月がたった一つで浮かんでいる。途切れ途切れの灰色の雲。とても寂しげに映る。
「お前は水野家の実真と契りを交わしていたそうだな」
 不意に実真の名を聞き、浮世の心臓が跳ねた。
「……はい」
「わしはお前に何でも与えよう。お前の望むものすべてを。だから、わしのそばにいてほしい。どうか……頼む」
 帝は溺れる者が救いを求めるように、浮世にその身を委ねた。
「お風邪を召しますよ……」
 浮世はただ黙って背中を撫で続けるだけだった。

          ※

 芽吹きの春が訪れた。
 帝は行幸先に海を選んだ。京の都の北にある若狭の海である。
 多くの武士を引き連れて、女官、楽人、そして舞人も同行させた。帝は鳳凰を象った意匠の輦輿に乗り込み、何十人もの力者に担がせた。
 一団の中に、浮世と来世、そして実真の姿もあった。
 帝は山道を整備し、森を切り開き、崖の上に朱塗り柱の飛翔殿を作らせた。酒宴のための大広間、そして歌舞のための板張りの舞台が、広大な空と海とが一望できる展望台にもなっている。
 実に二年ぶりの海だった。
「遠くが見える……紺碧の海だのう」
 その日は柔らかな風が吹き、水平線がくっきり見渡せる。
「どれ、ひとつ歌を聞かせてくれ」
 帝を慰めるために、多くの歌が披露された。楽人は優雅に龍笛や篳篥、筝を奏で、女官や法師が琵琶をかき鳴らした。
 そして、帝は浮世をそばに侍らせた。他に聴こえない声でぼそりと言う。
「お前に今日だけ、実真のために舞うことを許そう」
「実真様が……」
 浮世はとっさに周囲を探した。警固の武士の中、ひと目で実真を見つける。
「天女の舞を見せてみよ」
 浮世が舞を差す。舞台にただ一人、進み出た。
 太陽を模した天冠、白綾の狩衣、薄色の袴――衣の裾が海風を孕んだ。そばに控えた来世が篠笛を唇に当てる。
 涼やかな音が鳴った。耳朶を優しく撫でる。
 浮世は実真を見つめた。近い。なのに遠い。
(あなたのために――)
 笛の音に乗って浮世が足を踏み出した。さらりさらりと手を返すと、鳥の翼のように白い衣がはためいた。
 音の中にあって、音がしない。
 稲穂のようにいきみなく、柳のように芯は強く。
 観衆は春の風を見た。華が薫った。音が色づいた。
 芽吹き、彩り、咲き誇る。たおやかに、煌めいて、そして――。
「麗しい……これが……天女の舞か」
 帝は感動に胸を打たれ、はらはらと涙を流した。
 まったく何ということか。これまで見て来た浮世の舞は木偶そのものだった。それがどうだ。命が吹き込まれ、生き生きと、瑞々しく、そこにある。
 実真もまた、浮世の舞を見ていた。
(ああ、再び浮世の舞が見られようとは……しかし)
 しかし――なんと悲しい舞だろう。これまで見て来た浮世の舞は、遊ぶのが楽しくて仕方のない童の無垢そのものだった。
 それが、こんなにも孤独になれるのか。実真は太刀の柄に触れた。
 今、この手ですべてを斬り捨てようか――。
 何もかもを消し去って、ここではないどこかに二人で逃げよう。海を渡り、異国を歩き、あの空の向こうまで。二人ならば、どこだって故郷になる。
 実真の手が震えた。唇を噛む。
 主君を斬った武士は大逆の魔道に堕ちる。家に仕える郎党たちは謀反人として処刑され、その家族もまた首を斬られることだろう。幼子までも。
 それが、自分に出来るだろうか――自分のこの手で――。
 浮世は実真の痛みを感じていた。裸の心が重なったように、指の先までその苦しみが伝わってくる。
(実真様……私が終わらせてあげますね)
 そして、舞をやめた。静かに涙がこぼれ落ちる。浮世は帝に言った。
「帝……今、私の望みを頂戴いたします」
 そっと太陽の天冠を外し、足元に置いた。舞装束の帯を解き、観衆の目にさらされているにもかかわらず、一糸まとわぬ姿になった。
「浮世、どうしたんだよ!?」
 来世が立ち上がる。浮世はそれを目で制止した。
「ごめんね来世。私、また甘える」
 浮世は舞台の端まで歩を進めた。空と海を背にして、実真に振り返る。
 大きく息を吸い込んだ。震えてしまうのを必死に堪えて。
「実真様! 風は……いつでも吹いているから!」
 浮世は空に向かって――飛んだ。

          ※

「実真様はあちこちを探し回ったが、ついに浮世は見つからなんだ」
 安長は長い話を終え、息を吐いた。酷く疲れているようだった。
「それから実真様は郎党たちに暇を出した。他家に仕えられるよう、頭を下げてまわり、誰も食いはぐれることのないようにしてな。家に残ったのは、わしただ一人だ。九馬を迎え入れたのは、それから十年も後だ。身分はわしの養子。実真様を説得するのに苦労したぞ」
 実真が東国に派遣されたのは、事件後まもなくのことである。
 兵士を一人も連れず、身一つで戦乱の地に足を踏み入れた。
 その頃、京の都では帝が新たな屋敷を作った。
 歌と舞の才にあふれる者が、その芯から志せるように。
 心から、舞人になりたいと願う者のために。
 そして、謡舞寮は誕生した――。
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