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朝な夕なの霧
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サギリは昔を思い出していた。
朝から晩まで馬の世話。来る日も来る日も糞のにおい。
子守唄は馬のいななき。さすが馬乳は飲まなかったが。
まったく藁というモノは便利だ。束ねれば馬の毛並みを整える櫛になり、洗いのタワシにもなる。編めば馬の草鞋になり、集めて敷けば寝床になる。火起こしの燃料にもなるし、灰になっても畑の肥料になる。
こんなに役立つモノがこの世にあるだろうか?
だが、便利な藁でさえ、日々の不安は拭ってくれなかった。
一体、いつまでこの生活が続く? 死ぬまで馬小屋にいるのか?
朝も、夜も、不安の霧は絶え間なくサギリの顔を曇らせていた。
サギリの本当の名は『朝霧』という。
夜明け前、霧の深い日に生まれたのでその名をつけたと母は言ったが、その母も幼いころに流行り病で死んだ。
地方貴族の屋敷で働き続けた母は、最期まで父の名前を言わずに死んだ。
朝霧から『あさ』を奪ったのは、その貴族の息子だった。サギリより三つ四つ年上の少年は、サギリにとって、とてもイヤなヤツだった。
「お前にその名は勿体ない。今日からお前は『ギリ』だ」
以来、ギリと呼ばれ続けた。
「ギリ、肩を揉め」
「ギリ、豚の真似をしろ」
「ギリ、馬になれ」
少年は四つん這いになったサギリの上に乗り、盛大に尻を叩いた。
屈辱とは思わなかった。これが普通だった。物心ついた時から少年はサギリにとって絶対的な主人であり、王であり、すべてだった。
屈辱とは思わなかった。思わないはずなのに、何故だか涙が出た。
馬糞にまみれ、少年に罵られ、母のいなくなった襤褸家で一人、朝が来るのに怯える日々を過ごした。
そして、サギリが京の都に上る三日前――いつものように馬小屋で馬草を準備しているサギリのもとに少年がやって来た。
その日は普段と様子が違った。いつもなら汚い言葉を投げるか、後ろから蹴飛ばしてくる少年が、物言わずにすぐ背後に立ったのだ。
サギリが恐怖を感じたのと同時に、背中から抱きつかれた。
「おやめください!」
身をよじって抵抗すると羽交い絞めにされ、その場に組み敷かれる。
少年は馬乗りになり、サギリの両手を封じた。荒い鼻息が顔にかかる。足をバタバタと振っても、大人に近い少年の身体を動かすことは出来なかった。
「ギリ、声を出すなよ」
少年はサギリの着物の前を乱暴に開く。胸があらわになった。
「ひ、人を呼びますよ!」
「声を出すなと言っただろ」
少年はその場にあった藁を掴み、握り固めてサギリの口に押し込む。そして酷く興奮した様子でサギリの首筋に唇を這わせた。
「お前を見てると何だかイライラするんだよ。いいからおとなしくしろ」
馬小屋の天井がぼやけていく。意識が遠のき、少年の鼻息も遠ざかる。
ああ、藁にはこんな使い方もあったのか――。
そんなことを思った瞬間、サギリの中でカッと火花が散った。
屈辱だ――!
サギリは少年の股間を蹴り上げた。きゅうっ、と悲鳴を上げて身悶える少年。
脱ぎ捨てられた絹の着物を拾い上げ、サギリは貴族の屋敷から逃げ出した。
とにかく走った。道などわからぬ。前へ前へとひた走る。
やがて日が暮れ、川辺で夜を明かした。もうあそこには戻らない。そう決めた時、心を覆っていた不安の霧が晴れた。だが、それもつかの間、進んでいるはずの前を見ても、また黒い霧が覆っている。
そのとき、一人の行商人に出会った。奪って来た少年の高価な着物をお金に替えていると、こんなことを言われた。
「娘が一人で何処へ行く?」
「それがわかってたら苦労しない……」
「ここに居ても、鬼どもにさらわれるだけだぞ」
「鬼か……それもいいわ、どうでもいい」
「どうでもいいなら都に行け。謡舞寮という所がある。そこでは帝が娘を集めて舞人を育てている。むろん、合格すればの話だが」
「謡舞寮……?」
「帝はわしら行商人にある御触れを出した。旅商いの先々で、才ある娘がいれば謡舞寮に来るよう勧めること」
「私には才能がある?」
「知らん。それを確かめに行ってみるのもいいだろう」
行商人から路銀を受け取り、京の都に向かって走った。
目の前に広がっていた黒い霧が晴れ、何だか光が差している。身も心も軽い。
謡舞寮に到着し、受付で名前を書く段になって、サギリは躊躇した。
朝霧――と、何故だか素直に書けない。
「お前にその名は勿体ない」
少年の言葉が脳裏に響く。波のように何度も何度も。
私はもうギリではない。でも朝霧でもない。
だからこう書いた――サギリ。
眠った才能を開花させ、帝の舞人となり、みじめな人生とはおさらばだ。
そう心に決めると、黒い霧は光る風に吹き飛ばされ、世界は晴れ渡った。
そして現在――霧は再びサギリの心を真っ黒にしていた。
謡舞寮は帝が作った場所。その生徒が帝に刃を向けたのだ。もしこのまま謡舞寮が潰されることになったら、自分はどこに行けというのか。
「才能か……」
静乃のいなくなった部屋で、ぼーっと天井を眺めた。
自分に才能がないのは百も承知だ。
才能とは、セナや静乃のように、一挙手一投足からにじみ出るものだ。頭でわかっていることでも、実際に出来るかというとまた別の話だ。
りつにも才能があると思えないが、いつも自信ありげで疑うことを知らない。手足もすらりと伸びて、背も高いからそうなるのだろうか。チンチクリンの自分には見えない世界がりつには見えているのか。
サギリは部屋で日がな一日ゴロゴロしていた。
「私の得意なことなんて、何もない……せいぜい馬の世話ぐらい」
ハッとして、サギリは跳ね起きる。
「ぼやぼやしてられない!」
サギリは謡舞寮を飛び出して、都大路を駆け抜けた。あの汚い襤褸家に戻るのだけは死んでも嫌だ。
もう二度と、ギリと呼ばれてなるものか――。
向かった先は水野実真の邸宅である。再び無断で屋敷に入り込む。安長という癇癪持ちの老人もいないらしい。今の謡舞寮以上に屋敷は静かだった。
サギリは辺りを見回してから、厩舎に入った。
「アンタが……夕霧」
薄暗い馬房で横たわる巨大な影。サギリはあまりの迫力に唾を飲む。
長らく馬の世話をしてきたが、こんな馬は見たことがない。雌だが雄々しく、気高く、誰に媚びへつらうこともない。だから、美しい――。
夕霧はサギリの姿を認め、ぶるると鳴いて立ち上がった。
「あんた夕霧でしょ? たいそうな名前よね。おいで、お世話してあげる」
サギリは夕霧の頭を撫でようと手をかざす。すると夕霧はサギリの手を噛もうとした。驚いて手を引っ込めるサギリ。
「こらっ、おとなしくなさいよ! 馬のくせに!」
そこに、所用から戻って来た安長が現れる。
「夕霧、何事だ――む、お前は……」
サギリは安長の姿を認めると、すぐさまその場に跪いた。
「謡舞寮の生徒・サギリです! 安長様! お願いがあります!」
「な、なんだいきなり」
「どうか私を雇ってください! 私にこの馬の世話をさせてください!」
何とか事情を呑み込んだ安長は、白いヒゲを指でしごく。
「ともかく表に出よ。ここでは話も出来ぬ」
二人は縁側に並んで腰を下ろした。サギリが訥々と語ったことは――謡舞寮が無くなれば天涯孤独の自分は野垂れ死に確実。そこで馬の世話をここでやらせてもらえないか――という、つまりは仕事探しだった。
「なるほどのう……」
安長は気の毒そうにサギリを見た。
「私どうしたらいいか……セナはいなくなっちゃうし、りつとも話せないし……お願いです! ここで働かせてください。でないと私……」
「ううむ、とはゆうても、人手は十分足りておるからのう。それに、謡舞寮が無くなると決まったわけでもないのであろう?」
「そうですけど……あんなことが起こった後だから。あの、私、物心つく前から馬の世話をやっていて、とても得意なんです!」
安長は、ふむ、と言ってヒゲをしごく。
「わしはてっきり、静乃を助けてくれと頼みに来たかと」
サギリは視線を逸らし、俯く。
「自分が……わかりません。ほんとは静乃が憎いはずなのに、どうしても憎み切れない……いっそ憎めたらどんなに楽か」
「馬の世話が得意と言ったな」
「は、はい!」
「だが、馬の世話が得意だからとて、あの夕霧の世話が出来るか――いや、そもそも馬という馬がこの世におると思うかね?」
サギリは首をかしげた。安長はゆったりとした口調で続ける。
「夕霧はな、もともと帝の馬だった」
「帝の……」
「あるとき、帝が主催した大きな巻狩りがあった。巻狩りとは、武士たちを集めて行う狩り比べのことだ。弓の名手である実真様も招かれた。結果は実真様の一人勝ち。むろん巧みな腕前もあったが、そのとき帝より貸し与えられた夕霧が素晴らしい働きをしたのだ。帝はたいそう驚いた。あの駄馬が――と」
「駄馬……? 夕霧が?」
「そうだ。夕霧は誰にも懐かず、教えも身につかず、大内裏の厩舎で食っては寝るだけの厄介者だった。体躯こそ立派だが、中身はどうしようもない駄馬だと思われていたのだ。それが、まさに稀代の名馬だった」
安長は、夕霧よ、と厩舎に呼びかける。すると、なんと夕霧が小屋の中から出て来た。馬房には柵がかかっていたはずである。
「ど、どうやって……」
「夕霧は賢い。柵などただの飾りだ。夕霧は自分の意思で大内裏の大きな厩舎を出て、この小さな馬小屋に、実真様のもとにやって来たのだ」
「自分の意思で?」
「巻狩りが終わった後、帝は夕霧の真の力を知り、手元に戻そうとした。しかし夕霧は実真様のおそばを少しも離れようとしなかった。その頑固さにあの帝も根負けし、巻狩りの褒美として実真様に夕霧を下賜されたのだ」
「そんなことが……」
「もう一度問う。馬という馬がこの世におると思うかね?」
サギリは安長の問いを正面から受けた。そして夕霧の目を見る。黒く澄んだ大きな瞳である。巨体に似合わず、長い睫毛がとても愛らしい。
「夕霧……」
サギリは夕霧に近づき、ごく自然に手を伸ばして顔を撫でた。夕霧は先ほどとは違い、サギリの手を受け入れた。
夕霧は夕霧だ。たしかに馬だが『馬』じゃない。もし、所詮は馬だという気持ちで接していたならば、噛み殺されていたかもしれない。
ずっと馬の世話は得意だと思っていた。これは才能でも何でもない。ただやらされていたから出来るようになったに過ぎない。
じゃあ、自分からやろうと決めたことは?
そうだ、舞だ。謡舞寮に行くと決心したのだ。朝霧でもなく、ギリでもない、このサギリが――だから、才能の有無なんて些末なこと。
自分で自分の居場所を決めた――夕霧のように!
サギリは夕霧の顔を抱き締めた。夕霧は少し居心地が悪そうだったが、おとなしくしている。
「夕霧……アンタすごいわ。でも、私だって……」
そうして、サギリは安長に深々とお辞儀をして帰っていた。
むろん帰る場所は謡舞寮である。その表情は晴れ晴れとしていた。
安長はサギリの去った方を見て、やれやれと息を吐く。
「厄介払いが済んだわい。まったく若には女難の相が……」
安長はその背に鋭い視線を感じて寒気を覚えた。
ハッとして振り返ると夕霧がじーっと見ている。
「わ、わかったわかった! 撤回する! すまん!」
西の空では日が沈みかかっていた。
朝から晩まで馬の世話。来る日も来る日も糞のにおい。
子守唄は馬のいななき。さすが馬乳は飲まなかったが。
まったく藁というモノは便利だ。束ねれば馬の毛並みを整える櫛になり、洗いのタワシにもなる。編めば馬の草鞋になり、集めて敷けば寝床になる。火起こしの燃料にもなるし、灰になっても畑の肥料になる。
こんなに役立つモノがこの世にあるだろうか?
だが、便利な藁でさえ、日々の不安は拭ってくれなかった。
一体、いつまでこの生活が続く? 死ぬまで馬小屋にいるのか?
朝も、夜も、不安の霧は絶え間なくサギリの顔を曇らせていた。
サギリの本当の名は『朝霧』という。
夜明け前、霧の深い日に生まれたのでその名をつけたと母は言ったが、その母も幼いころに流行り病で死んだ。
地方貴族の屋敷で働き続けた母は、最期まで父の名前を言わずに死んだ。
朝霧から『あさ』を奪ったのは、その貴族の息子だった。サギリより三つ四つ年上の少年は、サギリにとって、とてもイヤなヤツだった。
「お前にその名は勿体ない。今日からお前は『ギリ』だ」
以来、ギリと呼ばれ続けた。
「ギリ、肩を揉め」
「ギリ、豚の真似をしろ」
「ギリ、馬になれ」
少年は四つん這いになったサギリの上に乗り、盛大に尻を叩いた。
屈辱とは思わなかった。これが普通だった。物心ついた時から少年はサギリにとって絶対的な主人であり、王であり、すべてだった。
屈辱とは思わなかった。思わないはずなのに、何故だか涙が出た。
馬糞にまみれ、少年に罵られ、母のいなくなった襤褸家で一人、朝が来るのに怯える日々を過ごした。
そして、サギリが京の都に上る三日前――いつものように馬小屋で馬草を準備しているサギリのもとに少年がやって来た。
その日は普段と様子が違った。いつもなら汚い言葉を投げるか、後ろから蹴飛ばしてくる少年が、物言わずにすぐ背後に立ったのだ。
サギリが恐怖を感じたのと同時に、背中から抱きつかれた。
「おやめください!」
身をよじって抵抗すると羽交い絞めにされ、その場に組み敷かれる。
少年は馬乗りになり、サギリの両手を封じた。荒い鼻息が顔にかかる。足をバタバタと振っても、大人に近い少年の身体を動かすことは出来なかった。
「ギリ、声を出すなよ」
少年はサギリの着物の前を乱暴に開く。胸があらわになった。
「ひ、人を呼びますよ!」
「声を出すなと言っただろ」
少年はその場にあった藁を掴み、握り固めてサギリの口に押し込む。そして酷く興奮した様子でサギリの首筋に唇を這わせた。
「お前を見てると何だかイライラするんだよ。いいからおとなしくしろ」
馬小屋の天井がぼやけていく。意識が遠のき、少年の鼻息も遠ざかる。
ああ、藁にはこんな使い方もあったのか――。
そんなことを思った瞬間、サギリの中でカッと火花が散った。
屈辱だ――!
サギリは少年の股間を蹴り上げた。きゅうっ、と悲鳴を上げて身悶える少年。
脱ぎ捨てられた絹の着物を拾い上げ、サギリは貴族の屋敷から逃げ出した。
とにかく走った。道などわからぬ。前へ前へとひた走る。
やがて日が暮れ、川辺で夜を明かした。もうあそこには戻らない。そう決めた時、心を覆っていた不安の霧が晴れた。だが、それもつかの間、進んでいるはずの前を見ても、また黒い霧が覆っている。
そのとき、一人の行商人に出会った。奪って来た少年の高価な着物をお金に替えていると、こんなことを言われた。
「娘が一人で何処へ行く?」
「それがわかってたら苦労しない……」
「ここに居ても、鬼どもにさらわれるだけだぞ」
「鬼か……それもいいわ、どうでもいい」
「どうでもいいなら都に行け。謡舞寮という所がある。そこでは帝が娘を集めて舞人を育てている。むろん、合格すればの話だが」
「謡舞寮……?」
「帝はわしら行商人にある御触れを出した。旅商いの先々で、才ある娘がいれば謡舞寮に来るよう勧めること」
「私には才能がある?」
「知らん。それを確かめに行ってみるのもいいだろう」
行商人から路銀を受け取り、京の都に向かって走った。
目の前に広がっていた黒い霧が晴れ、何だか光が差している。身も心も軽い。
謡舞寮に到着し、受付で名前を書く段になって、サギリは躊躇した。
朝霧――と、何故だか素直に書けない。
「お前にその名は勿体ない」
少年の言葉が脳裏に響く。波のように何度も何度も。
私はもうギリではない。でも朝霧でもない。
だからこう書いた――サギリ。
眠った才能を開花させ、帝の舞人となり、みじめな人生とはおさらばだ。
そう心に決めると、黒い霧は光る風に吹き飛ばされ、世界は晴れ渡った。
そして現在――霧は再びサギリの心を真っ黒にしていた。
謡舞寮は帝が作った場所。その生徒が帝に刃を向けたのだ。もしこのまま謡舞寮が潰されることになったら、自分はどこに行けというのか。
「才能か……」
静乃のいなくなった部屋で、ぼーっと天井を眺めた。
自分に才能がないのは百も承知だ。
才能とは、セナや静乃のように、一挙手一投足からにじみ出るものだ。頭でわかっていることでも、実際に出来るかというとまた別の話だ。
りつにも才能があると思えないが、いつも自信ありげで疑うことを知らない。手足もすらりと伸びて、背も高いからそうなるのだろうか。チンチクリンの自分には見えない世界がりつには見えているのか。
サギリは部屋で日がな一日ゴロゴロしていた。
「私の得意なことなんて、何もない……せいぜい馬の世話ぐらい」
ハッとして、サギリは跳ね起きる。
「ぼやぼやしてられない!」
サギリは謡舞寮を飛び出して、都大路を駆け抜けた。あの汚い襤褸家に戻るのだけは死んでも嫌だ。
もう二度と、ギリと呼ばれてなるものか――。
向かった先は水野実真の邸宅である。再び無断で屋敷に入り込む。安長という癇癪持ちの老人もいないらしい。今の謡舞寮以上に屋敷は静かだった。
サギリは辺りを見回してから、厩舎に入った。
「アンタが……夕霧」
薄暗い馬房で横たわる巨大な影。サギリはあまりの迫力に唾を飲む。
長らく馬の世話をしてきたが、こんな馬は見たことがない。雌だが雄々しく、気高く、誰に媚びへつらうこともない。だから、美しい――。
夕霧はサギリの姿を認め、ぶるると鳴いて立ち上がった。
「あんた夕霧でしょ? たいそうな名前よね。おいで、お世話してあげる」
サギリは夕霧の頭を撫でようと手をかざす。すると夕霧はサギリの手を噛もうとした。驚いて手を引っ込めるサギリ。
「こらっ、おとなしくなさいよ! 馬のくせに!」
そこに、所用から戻って来た安長が現れる。
「夕霧、何事だ――む、お前は……」
サギリは安長の姿を認めると、すぐさまその場に跪いた。
「謡舞寮の生徒・サギリです! 安長様! お願いがあります!」
「な、なんだいきなり」
「どうか私を雇ってください! 私にこの馬の世話をさせてください!」
何とか事情を呑み込んだ安長は、白いヒゲを指でしごく。
「ともかく表に出よ。ここでは話も出来ぬ」
二人は縁側に並んで腰を下ろした。サギリが訥々と語ったことは――謡舞寮が無くなれば天涯孤独の自分は野垂れ死に確実。そこで馬の世話をここでやらせてもらえないか――という、つまりは仕事探しだった。
「なるほどのう……」
安長は気の毒そうにサギリを見た。
「私どうしたらいいか……セナはいなくなっちゃうし、りつとも話せないし……お願いです! ここで働かせてください。でないと私……」
「ううむ、とはゆうても、人手は十分足りておるからのう。それに、謡舞寮が無くなると決まったわけでもないのであろう?」
「そうですけど……あんなことが起こった後だから。あの、私、物心つく前から馬の世話をやっていて、とても得意なんです!」
安長は、ふむ、と言ってヒゲをしごく。
「わしはてっきり、静乃を助けてくれと頼みに来たかと」
サギリは視線を逸らし、俯く。
「自分が……わかりません。ほんとは静乃が憎いはずなのに、どうしても憎み切れない……いっそ憎めたらどんなに楽か」
「馬の世話が得意と言ったな」
「は、はい!」
「だが、馬の世話が得意だからとて、あの夕霧の世話が出来るか――いや、そもそも馬という馬がこの世におると思うかね?」
サギリは首をかしげた。安長はゆったりとした口調で続ける。
「夕霧はな、もともと帝の馬だった」
「帝の……」
「あるとき、帝が主催した大きな巻狩りがあった。巻狩りとは、武士たちを集めて行う狩り比べのことだ。弓の名手である実真様も招かれた。結果は実真様の一人勝ち。むろん巧みな腕前もあったが、そのとき帝より貸し与えられた夕霧が素晴らしい働きをしたのだ。帝はたいそう驚いた。あの駄馬が――と」
「駄馬……? 夕霧が?」
「そうだ。夕霧は誰にも懐かず、教えも身につかず、大内裏の厩舎で食っては寝るだけの厄介者だった。体躯こそ立派だが、中身はどうしようもない駄馬だと思われていたのだ。それが、まさに稀代の名馬だった」
安長は、夕霧よ、と厩舎に呼びかける。すると、なんと夕霧が小屋の中から出て来た。馬房には柵がかかっていたはずである。
「ど、どうやって……」
「夕霧は賢い。柵などただの飾りだ。夕霧は自分の意思で大内裏の大きな厩舎を出て、この小さな馬小屋に、実真様のもとにやって来たのだ」
「自分の意思で?」
「巻狩りが終わった後、帝は夕霧の真の力を知り、手元に戻そうとした。しかし夕霧は実真様のおそばを少しも離れようとしなかった。その頑固さにあの帝も根負けし、巻狩りの褒美として実真様に夕霧を下賜されたのだ」
「そんなことが……」
「もう一度問う。馬という馬がこの世におると思うかね?」
サギリは安長の問いを正面から受けた。そして夕霧の目を見る。黒く澄んだ大きな瞳である。巨体に似合わず、長い睫毛がとても愛らしい。
「夕霧……」
サギリは夕霧に近づき、ごく自然に手を伸ばして顔を撫でた。夕霧は先ほどとは違い、サギリの手を受け入れた。
夕霧は夕霧だ。たしかに馬だが『馬』じゃない。もし、所詮は馬だという気持ちで接していたならば、噛み殺されていたかもしれない。
ずっと馬の世話は得意だと思っていた。これは才能でも何でもない。ただやらされていたから出来るようになったに過ぎない。
じゃあ、自分からやろうと決めたことは?
そうだ、舞だ。謡舞寮に行くと決心したのだ。朝霧でもなく、ギリでもない、このサギリが――だから、才能の有無なんて些末なこと。
自分で自分の居場所を決めた――夕霧のように!
サギリは夕霧の顔を抱き締めた。夕霧は少し居心地が悪そうだったが、おとなしくしている。
「夕霧……アンタすごいわ。でも、私だって……」
そうして、サギリは安長に深々とお辞儀をして帰っていた。
むろん帰る場所は謡舞寮である。その表情は晴れ晴れとしていた。
安長はサギリの去った方を見て、やれやれと息を吐く。
「厄介払いが済んだわい。まったく若には女難の相が……」
安長はその背に鋭い視線を感じて寒気を覚えた。
ハッとして振り返ると夕霧がじーっと見ている。
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西の空では日が沈みかかっていた。
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※史実や事実と異なる表現があります。
※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。
加藤虎之助(後の清正、15歳)、姉さん女房をもらいました!
野松 彦秋
歴史・時代
加藤虎之助15歳、山崎シノ17歳
一族の出世頭、又従弟秀吉に翻弄(祝福?)されながら、
二人は夫婦としてやっていけるのか、身分が違う二人が真の夫婦になるまでの物語。
若い虎之助とシノの新婚生活を温かく包む羽柴家の人々。しかし身分違いの二人の祝言が、織田信長の耳に入り、まさかの展開に。少年加藤虎之助が加藤清正になるまでのモノカタリである。
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