9 / 31
朝な夕なの霧
しおりを挟む
サギリは昔を思い出していた。
朝から晩まで馬の世話。来る日も来る日も糞のにおい。
子守唄は馬のいななき。さすが馬乳は飲まなかったが。
まったく藁というモノは便利だ。束ねれば馬の毛並みを整える櫛になり、洗いのタワシにもなる。編めば馬の草鞋になり、集めて敷けば寝床になる。火起こしの燃料にもなるし、灰になっても畑の肥料になる。
こんなに役立つモノがこの世にあるだろうか?
だが、便利な藁でさえ、日々の不安は拭ってくれなかった。
一体、いつまでこの生活が続く? 死ぬまで馬小屋にいるのか?
朝も、夜も、不安の霧は絶え間なくサギリの顔を曇らせていた。
サギリの本当の名は『朝霧』という。
夜明け前、霧の深い日に生まれたのでその名をつけたと母は言ったが、その母も幼いころに流行り病で死んだ。
地方貴族の屋敷で働き続けた母は、最期まで父の名前を言わずに死んだ。
朝霧から『あさ』を奪ったのは、その貴族の息子だった。サギリより三つ四つ年上の少年は、サギリにとって、とてもイヤなヤツだった。
「お前にその名は勿体ない。今日からお前は『ギリ』だ」
以来、ギリと呼ばれ続けた。
「ギリ、肩を揉め」
「ギリ、豚の真似をしろ」
「ギリ、馬になれ」
少年は四つん這いになったサギリの上に乗り、盛大に尻を叩いた。
屈辱とは思わなかった。これが普通だった。物心ついた時から少年はサギリにとって絶対的な主人であり、王であり、すべてだった。
屈辱とは思わなかった。思わないはずなのに、何故だか涙が出た。
馬糞にまみれ、少年に罵られ、母のいなくなった襤褸家で一人、朝が来るのに怯える日々を過ごした。
そして、サギリが京の都に上る三日前――いつものように馬小屋で馬草を準備しているサギリのもとに少年がやって来た。
その日は普段と様子が違った。いつもなら汚い言葉を投げるか、後ろから蹴飛ばしてくる少年が、物言わずにすぐ背後に立ったのだ。
サギリが恐怖を感じたのと同時に、背中から抱きつかれた。
「おやめください!」
身をよじって抵抗すると羽交い絞めにされ、その場に組み敷かれる。
少年は馬乗りになり、サギリの両手を封じた。荒い鼻息が顔にかかる。足をバタバタと振っても、大人に近い少年の身体を動かすことは出来なかった。
「ギリ、声を出すなよ」
少年はサギリの着物の前を乱暴に開く。胸があらわになった。
「ひ、人を呼びますよ!」
「声を出すなと言っただろ」
少年はその場にあった藁を掴み、握り固めてサギリの口に押し込む。そして酷く興奮した様子でサギリの首筋に唇を這わせた。
「お前を見てると何だかイライラするんだよ。いいからおとなしくしろ」
馬小屋の天井がぼやけていく。意識が遠のき、少年の鼻息も遠ざかる。
ああ、藁にはこんな使い方もあったのか――。
そんなことを思った瞬間、サギリの中でカッと火花が散った。
屈辱だ――!
サギリは少年の股間を蹴り上げた。きゅうっ、と悲鳴を上げて身悶える少年。
脱ぎ捨てられた絹の着物を拾い上げ、サギリは貴族の屋敷から逃げ出した。
とにかく走った。道などわからぬ。前へ前へとひた走る。
やがて日が暮れ、川辺で夜を明かした。もうあそこには戻らない。そう決めた時、心を覆っていた不安の霧が晴れた。だが、それもつかの間、進んでいるはずの前を見ても、また黒い霧が覆っている。
そのとき、一人の行商人に出会った。奪って来た少年の高価な着物をお金に替えていると、こんなことを言われた。
「娘が一人で何処へ行く?」
「それがわかってたら苦労しない……」
「ここに居ても、鬼どもにさらわれるだけだぞ」
「鬼か……それもいいわ、どうでもいい」
「どうでもいいなら都に行け。謡舞寮という所がある。そこでは帝が娘を集めて舞人を育てている。むろん、合格すればの話だが」
「謡舞寮……?」
「帝はわしら行商人にある御触れを出した。旅商いの先々で、才ある娘がいれば謡舞寮に来るよう勧めること」
「私には才能がある?」
「知らん。それを確かめに行ってみるのもいいだろう」
行商人から路銀を受け取り、京の都に向かって走った。
目の前に広がっていた黒い霧が晴れ、何だか光が差している。身も心も軽い。
謡舞寮に到着し、受付で名前を書く段になって、サギリは躊躇した。
朝霧――と、何故だか素直に書けない。
「お前にその名は勿体ない」
少年の言葉が脳裏に響く。波のように何度も何度も。
私はもうギリではない。でも朝霧でもない。
だからこう書いた――サギリ。
眠った才能を開花させ、帝の舞人となり、みじめな人生とはおさらばだ。
そう心に決めると、黒い霧は光る風に吹き飛ばされ、世界は晴れ渡った。
そして現在――霧は再びサギリの心を真っ黒にしていた。
謡舞寮は帝が作った場所。その生徒が帝に刃を向けたのだ。もしこのまま謡舞寮が潰されることになったら、自分はどこに行けというのか。
「才能か……」
静乃のいなくなった部屋で、ぼーっと天井を眺めた。
自分に才能がないのは百も承知だ。
才能とは、セナや静乃のように、一挙手一投足からにじみ出るものだ。頭でわかっていることでも、実際に出来るかというとまた別の話だ。
りつにも才能があると思えないが、いつも自信ありげで疑うことを知らない。手足もすらりと伸びて、背も高いからそうなるのだろうか。チンチクリンの自分には見えない世界がりつには見えているのか。
サギリは部屋で日がな一日ゴロゴロしていた。
「私の得意なことなんて、何もない……せいぜい馬の世話ぐらい」
ハッとして、サギリは跳ね起きる。
「ぼやぼやしてられない!」
サギリは謡舞寮を飛び出して、都大路を駆け抜けた。あの汚い襤褸家に戻るのだけは死んでも嫌だ。
もう二度と、ギリと呼ばれてなるものか――。
向かった先は水野実真の邸宅である。再び無断で屋敷に入り込む。安長という癇癪持ちの老人もいないらしい。今の謡舞寮以上に屋敷は静かだった。
サギリは辺りを見回してから、厩舎に入った。
「アンタが……夕霧」
薄暗い馬房で横たわる巨大な影。サギリはあまりの迫力に唾を飲む。
長らく馬の世話をしてきたが、こんな馬は見たことがない。雌だが雄々しく、気高く、誰に媚びへつらうこともない。だから、美しい――。
夕霧はサギリの姿を認め、ぶるると鳴いて立ち上がった。
「あんた夕霧でしょ? たいそうな名前よね。おいで、お世話してあげる」
サギリは夕霧の頭を撫でようと手をかざす。すると夕霧はサギリの手を噛もうとした。驚いて手を引っ込めるサギリ。
「こらっ、おとなしくなさいよ! 馬のくせに!」
そこに、所用から戻って来た安長が現れる。
「夕霧、何事だ――む、お前は……」
サギリは安長の姿を認めると、すぐさまその場に跪いた。
「謡舞寮の生徒・サギリです! 安長様! お願いがあります!」
「な、なんだいきなり」
「どうか私を雇ってください! 私にこの馬の世話をさせてください!」
何とか事情を呑み込んだ安長は、白いヒゲを指でしごく。
「ともかく表に出よ。ここでは話も出来ぬ」
二人は縁側に並んで腰を下ろした。サギリが訥々と語ったことは――謡舞寮が無くなれば天涯孤独の自分は野垂れ死に確実。そこで馬の世話をここでやらせてもらえないか――という、つまりは仕事探しだった。
「なるほどのう……」
安長は気の毒そうにサギリを見た。
「私どうしたらいいか……セナはいなくなっちゃうし、りつとも話せないし……お願いです! ここで働かせてください。でないと私……」
「ううむ、とはゆうても、人手は十分足りておるからのう。それに、謡舞寮が無くなると決まったわけでもないのであろう?」
「そうですけど……あんなことが起こった後だから。あの、私、物心つく前から馬の世話をやっていて、とても得意なんです!」
安長は、ふむ、と言ってヒゲをしごく。
「わしはてっきり、静乃を助けてくれと頼みに来たかと」
サギリは視線を逸らし、俯く。
「自分が……わかりません。ほんとは静乃が憎いはずなのに、どうしても憎み切れない……いっそ憎めたらどんなに楽か」
「馬の世話が得意と言ったな」
「は、はい!」
「だが、馬の世話が得意だからとて、あの夕霧の世話が出来るか――いや、そもそも馬という馬がこの世におると思うかね?」
サギリは首をかしげた。安長はゆったりとした口調で続ける。
「夕霧はな、もともと帝の馬だった」
「帝の……」
「あるとき、帝が主催した大きな巻狩りがあった。巻狩りとは、武士たちを集めて行う狩り比べのことだ。弓の名手である実真様も招かれた。結果は実真様の一人勝ち。むろん巧みな腕前もあったが、そのとき帝より貸し与えられた夕霧が素晴らしい働きをしたのだ。帝はたいそう驚いた。あの駄馬が――と」
「駄馬……? 夕霧が?」
「そうだ。夕霧は誰にも懐かず、教えも身につかず、大内裏の厩舎で食っては寝るだけの厄介者だった。体躯こそ立派だが、中身はどうしようもない駄馬だと思われていたのだ。それが、まさに稀代の名馬だった」
安長は、夕霧よ、と厩舎に呼びかける。すると、なんと夕霧が小屋の中から出て来た。馬房には柵がかかっていたはずである。
「ど、どうやって……」
「夕霧は賢い。柵などただの飾りだ。夕霧は自分の意思で大内裏の大きな厩舎を出て、この小さな馬小屋に、実真様のもとにやって来たのだ」
「自分の意思で?」
「巻狩りが終わった後、帝は夕霧の真の力を知り、手元に戻そうとした。しかし夕霧は実真様のおそばを少しも離れようとしなかった。その頑固さにあの帝も根負けし、巻狩りの褒美として実真様に夕霧を下賜されたのだ」
「そんなことが……」
「もう一度問う。馬という馬がこの世におると思うかね?」
サギリは安長の問いを正面から受けた。そして夕霧の目を見る。黒く澄んだ大きな瞳である。巨体に似合わず、長い睫毛がとても愛らしい。
「夕霧……」
サギリは夕霧に近づき、ごく自然に手を伸ばして顔を撫でた。夕霧は先ほどとは違い、サギリの手を受け入れた。
夕霧は夕霧だ。たしかに馬だが『馬』じゃない。もし、所詮は馬だという気持ちで接していたならば、噛み殺されていたかもしれない。
ずっと馬の世話は得意だと思っていた。これは才能でも何でもない。ただやらされていたから出来るようになったに過ぎない。
じゃあ、自分からやろうと決めたことは?
そうだ、舞だ。謡舞寮に行くと決心したのだ。朝霧でもなく、ギリでもない、このサギリが――だから、才能の有無なんて些末なこと。
自分で自分の居場所を決めた――夕霧のように!
サギリは夕霧の顔を抱き締めた。夕霧は少し居心地が悪そうだったが、おとなしくしている。
「夕霧……アンタすごいわ。でも、私だって……」
そうして、サギリは安長に深々とお辞儀をして帰っていた。
むろん帰る場所は謡舞寮である。その表情は晴れ晴れとしていた。
安長はサギリの去った方を見て、やれやれと息を吐く。
「厄介払いが済んだわい。まったく若には女難の相が……」
安長はその背に鋭い視線を感じて寒気を覚えた。
ハッとして振り返ると夕霧がじーっと見ている。
「わ、わかったわかった! 撤回する! すまん!」
西の空では日が沈みかかっていた。
朝から晩まで馬の世話。来る日も来る日も糞のにおい。
子守唄は馬のいななき。さすが馬乳は飲まなかったが。
まったく藁というモノは便利だ。束ねれば馬の毛並みを整える櫛になり、洗いのタワシにもなる。編めば馬の草鞋になり、集めて敷けば寝床になる。火起こしの燃料にもなるし、灰になっても畑の肥料になる。
こんなに役立つモノがこの世にあるだろうか?
だが、便利な藁でさえ、日々の不安は拭ってくれなかった。
一体、いつまでこの生活が続く? 死ぬまで馬小屋にいるのか?
朝も、夜も、不安の霧は絶え間なくサギリの顔を曇らせていた。
サギリの本当の名は『朝霧』という。
夜明け前、霧の深い日に生まれたのでその名をつけたと母は言ったが、その母も幼いころに流行り病で死んだ。
地方貴族の屋敷で働き続けた母は、最期まで父の名前を言わずに死んだ。
朝霧から『あさ』を奪ったのは、その貴族の息子だった。サギリより三つ四つ年上の少年は、サギリにとって、とてもイヤなヤツだった。
「お前にその名は勿体ない。今日からお前は『ギリ』だ」
以来、ギリと呼ばれ続けた。
「ギリ、肩を揉め」
「ギリ、豚の真似をしろ」
「ギリ、馬になれ」
少年は四つん這いになったサギリの上に乗り、盛大に尻を叩いた。
屈辱とは思わなかった。これが普通だった。物心ついた時から少年はサギリにとって絶対的な主人であり、王であり、すべてだった。
屈辱とは思わなかった。思わないはずなのに、何故だか涙が出た。
馬糞にまみれ、少年に罵られ、母のいなくなった襤褸家で一人、朝が来るのに怯える日々を過ごした。
そして、サギリが京の都に上る三日前――いつものように馬小屋で馬草を準備しているサギリのもとに少年がやって来た。
その日は普段と様子が違った。いつもなら汚い言葉を投げるか、後ろから蹴飛ばしてくる少年が、物言わずにすぐ背後に立ったのだ。
サギリが恐怖を感じたのと同時に、背中から抱きつかれた。
「おやめください!」
身をよじって抵抗すると羽交い絞めにされ、その場に組み敷かれる。
少年は馬乗りになり、サギリの両手を封じた。荒い鼻息が顔にかかる。足をバタバタと振っても、大人に近い少年の身体を動かすことは出来なかった。
「ギリ、声を出すなよ」
少年はサギリの着物の前を乱暴に開く。胸があらわになった。
「ひ、人を呼びますよ!」
「声を出すなと言っただろ」
少年はその場にあった藁を掴み、握り固めてサギリの口に押し込む。そして酷く興奮した様子でサギリの首筋に唇を這わせた。
「お前を見てると何だかイライラするんだよ。いいからおとなしくしろ」
馬小屋の天井がぼやけていく。意識が遠のき、少年の鼻息も遠ざかる。
ああ、藁にはこんな使い方もあったのか――。
そんなことを思った瞬間、サギリの中でカッと火花が散った。
屈辱だ――!
サギリは少年の股間を蹴り上げた。きゅうっ、と悲鳴を上げて身悶える少年。
脱ぎ捨てられた絹の着物を拾い上げ、サギリは貴族の屋敷から逃げ出した。
とにかく走った。道などわからぬ。前へ前へとひた走る。
やがて日が暮れ、川辺で夜を明かした。もうあそこには戻らない。そう決めた時、心を覆っていた不安の霧が晴れた。だが、それもつかの間、進んでいるはずの前を見ても、また黒い霧が覆っている。
そのとき、一人の行商人に出会った。奪って来た少年の高価な着物をお金に替えていると、こんなことを言われた。
「娘が一人で何処へ行く?」
「それがわかってたら苦労しない……」
「ここに居ても、鬼どもにさらわれるだけだぞ」
「鬼か……それもいいわ、どうでもいい」
「どうでもいいなら都に行け。謡舞寮という所がある。そこでは帝が娘を集めて舞人を育てている。むろん、合格すればの話だが」
「謡舞寮……?」
「帝はわしら行商人にある御触れを出した。旅商いの先々で、才ある娘がいれば謡舞寮に来るよう勧めること」
「私には才能がある?」
「知らん。それを確かめに行ってみるのもいいだろう」
行商人から路銀を受け取り、京の都に向かって走った。
目の前に広がっていた黒い霧が晴れ、何だか光が差している。身も心も軽い。
謡舞寮に到着し、受付で名前を書く段になって、サギリは躊躇した。
朝霧――と、何故だか素直に書けない。
「お前にその名は勿体ない」
少年の言葉が脳裏に響く。波のように何度も何度も。
私はもうギリではない。でも朝霧でもない。
だからこう書いた――サギリ。
眠った才能を開花させ、帝の舞人となり、みじめな人生とはおさらばだ。
そう心に決めると、黒い霧は光る風に吹き飛ばされ、世界は晴れ渡った。
そして現在――霧は再びサギリの心を真っ黒にしていた。
謡舞寮は帝が作った場所。その生徒が帝に刃を向けたのだ。もしこのまま謡舞寮が潰されることになったら、自分はどこに行けというのか。
「才能か……」
静乃のいなくなった部屋で、ぼーっと天井を眺めた。
自分に才能がないのは百も承知だ。
才能とは、セナや静乃のように、一挙手一投足からにじみ出るものだ。頭でわかっていることでも、実際に出来るかというとまた別の話だ。
りつにも才能があると思えないが、いつも自信ありげで疑うことを知らない。手足もすらりと伸びて、背も高いからそうなるのだろうか。チンチクリンの自分には見えない世界がりつには見えているのか。
サギリは部屋で日がな一日ゴロゴロしていた。
「私の得意なことなんて、何もない……せいぜい馬の世話ぐらい」
ハッとして、サギリは跳ね起きる。
「ぼやぼやしてられない!」
サギリは謡舞寮を飛び出して、都大路を駆け抜けた。あの汚い襤褸家に戻るのだけは死んでも嫌だ。
もう二度と、ギリと呼ばれてなるものか――。
向かった先は水野実真の邸宅である。再び無断で屋敷に入り込む。安長という癇癪持ちの老人もいないらしい。今の謡舞寮以上に屋敷は静かだった。
サギリは辺りを見回してから、厩舎に入った。
「アンタが……夕霧」
薄暗い馬房で横たわる巨大な影。サギリはあまりの迫力に唾を飲む。
長らく馬の世話をしてきたが、こんな馬は見たことがない。雌だが雄々しく、気高く、誰に媚びへつらうこともない。だから、美しい――。
夕霧はサギリの姿を認め、ぶるると鳴いて立ち上がった。
「あんた夕霧でしょ? たいそうな名前よね。おいで、お世話してあげる」
サギリは夕霧の頭を撫でようと手をかざす。すると夕霧はサギリの手を噛もうとした。驚いて手を引っ込めるサギリ。
「こらっ、おとなしくなさいよ! 馬のくせに!」
そこに、所用から戻って来た安長が現れる。
「夕霧、何事だ――む、お前は……」
サギリは安長の姿を認めると、すぐさまその場に跪いた。
「謡舞寮の生徒・サギリです! 安長様! お願いがあります!」
「な、なんだいきなり」
「どうか私を雇ってください! 私にこの馬の世話をさせてください!」
何とか事情を呑み込んだ安長は、白いヒゲを指でしごく。
「ともかく表に出よ。ここでは話も出来ぬ」
二人は縁側に並んで腰を下ろした。サギリが訥々と語ったことは――謡舞寮が無くなれば天涯孤独の自分は野垂れ死に確実。そこで馬の世話をここでやらせてもらえないか――という、つまりは仕事探しだった。
「なるほどのう……」
安長は気の毒そうにサギリを見た。
「私どうしたらいいか……セナはいなくなっちゃうし、りつとも話せないし……お願いです! ここで働かせてください。でないと私……」
「ううむ、とはゆうても、人手は十分足りておるからのう。それに、謡舞寮が無くなると決まったわけでもないのであろう?」
「そうですけど……あんなことが起こった後だから。あの、私、物心つく前から馬の世話をやっていて、とても得意なんです!」
安長は、ふむ、と言ってヒゲをしごく。
「わしはてっきり、静乃を助けてくれと頼みに来たかと」
サギリは視線を逸らし、俯く。
「自分が……わかりません。ほんとは静乃が憎いはずなのに、どうしても憎み切れない……いっそ憎めたらどんなに楽か」
「馬の世話が得意と言ったな」
「は、はい!」
「だが、馬の世話が得意だからとて、あの夕霧の世話が出来るか――いや、そもそも馬という馬がこの世におると思うかね?」
サギリは首をかしげた。安長はゆったりとした口調で続ける。
「夕霧はな、もともと帝の馬だった」
「帝の……」
「あるとき、帝が主催した大きな巻狩りがあった。巻狩りとは、武士たちを集めて行う狩り比べのことだ。弓の名手である実真様も招かれた。結果は実真様の一人勝ち。むろん巧みな腕前もあったが、そのとき帝より貸し与えられた夕霧が素晴らしい働きをしたのだ。帝はたいそう驚いた。あの駄馬が――と」
「駄馬……? 夕霧が?」
「そうだ。夕霧は誰にも懐かず、教えも身につかず、大内裏の厩舎で食っては寝るだけの厄介者だった。体躯こそ立派だが、中身はどうしようもない駄馬だと思われていたのだ。それが、まさに稀代の名馬だった」
安長は、夕霧よ、と厩舎に呼びかける。すると、なんと夕霧が小屋の中から出て来た。馬房には柵がかかっていたはずである。
「ど、どうやって……」
「夕霧は賢い。柵などただの飾りだ。夕霧は自分の意思で大内裏の大きな厩舎を出て、この小さな馬小屋に、実真様のもとにやって来たのだ」
「自分の意思で?」
「巻狩りが終わった後、帝は夕霧の真の力を知り、手元に戻そうとした。しかし夕霧は実真様のおそばを少しも離れようとしなかった。その頑固さにあの帝も根負けし、巻狩りの褒美として実真様に夕霧を下賜されたのだ」
「そんなことが……」
「もう一度問う。馬という馬がこの世におると思うかね?」
サギリは安長の問いを正面から受けた。そして夕霧の目を見る。黒く澄んだ大きな瞳である。巨体に似合わず、長い睫毛がとても愛らしい。
「夕霧……」
サギリは夕霧に近づき、ごく自然に手を伸ばして顔を撫でた。夕霧は先ほどとは違い、サギリの手を受け入れた。
夕霧は夕霧だ。たしかに馬だが『馬』じゃない。もし、所詮は馬だという気持ちで接していたならば、噛み殺されていたかもしれない。
ずっと馬の世話は得意だと思っていた。これは才能でも何でもない。ただやらされていたから出来るようになったに過ぎない。
じゃあ、自分からやろうと決めたことは?
そうだ、舞だ。謡舞寮に行くと決心したのだ。朝霧でもなく、ギリでもない、このサギリが――だから、才能の有無なんて些末なこと。
自分で自分の居場所を決めた――夕霧のように!
サギリは夕霧の顔を抱き締めた。夕霧は少し居心地が悪そうだったが、おとなしくしている。
「夕霧……アンタすごいわ。でも、私だって……」
そうして、サギリは安長に深々とお辞儀をして帰っていた。
むろん帰る場所は謡舞寮である。その表情は晴れ晴れとしていた。
安長はサギリの去った方を見て、やれやれと息を吐く。
「厄介払いが済んだわい。まったく若には女難の相が……」
安長はその背に鋭い視線を感じて寒気を覚えた。
ハッとして振り返ると夕霧がじーっと見ている。
「わ、わかったわかった! 撤回する! すまん!」
西の空では日が沈みかかっていた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
妖刀 益荒男
地辻夜行
歴史・時代
東西南北老若男女
お集まりいただきました皆様に
本日お聞きいただきますのは
一人の男の人生を狂わせた妖刀の話か
はたまた一本の妖刀の剣生を狂わせた男の話か
蓋をあけて見なけりゃわからない
妖気に魅入られた少女にのっぺらぼう
からかい上手の女に皮肉な忍び
個性豊かな面子に振り回され
妖刀は己の求める鞘に会えるのか
男は己の尊厳を取り戻せるのか
一人と一刀の冒険活劇
いまここに開幕、か~い~ま~く~
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
葉桜よ、もう一度 【完結】
五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。
謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。
人情落語家いろは節
朝賀 悠月
歴史・時代
浅草は浅草寺の程近くに、煮売茶屋がある。
そこの次男坊である弥平は、幼き頃より噺家になることを夢見ていた。
十五の歳、近くの神社で催された祭りに寄せ場が作られた。
素人寄席ながらも賑わいを見せるその中に、『鈴乃屋小蔵』と名乗る弥平が高座に上がる。
そこへ偶然居合わせた旗本の三男坊、田丸惣右衛門は鈴乃屋小蔵の人情噺をその目で見て、心の臓が打ち震えた。終演後に声を掛け、以来二人は友人関係を結ぶ。
半端物の弥平と惣右衛門。家柄は違えど互いを唯一無二と慕った。
しかし、惣右衛門にはどうしても解せないことがあった。
寄せ場に上がる弥平が、心の臓を射抜いた人情噺をやらなくなってしまったのだ……
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
【完結】女神は推考する
仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。
直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。
強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。
まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。
今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。
これは、大王となる私の守る為の物語。
額田部姫(ヌカタベヒメ)
主人公。母が蘇我一族。皇女。
穴穂部皇子(アナホベノミコ)
主人公の従弟。
他田皇子(オサダノオオジ)
皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。
広姫(ヒロヒメ)
他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。
彦人皇子(ヒコヒトノミコ)
他田大王と広姫の嫡子。
大兄皇子(オオエノミコ)
主人公の同母兄。
厩戸皇子(ウマヤドノミコ)
大兄皇子の嫡子。主人公の甥。
※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。
※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。
※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。)
※史実や事実と異なる表現があります。
※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる