まひびとがたり

パン治郎

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東から来た男 その2

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 三日後の夜、セナたちは衛士に守られながら謡舞寮を出発した。
 御堂の邸宅は二条にある。高貴な身分の公家や有力者ほど大内裏に近い場所に住んでいる。大学寮もまた朱雀門の近くにあった。つまりは大内裏から離れた場所が庶民の居住区であり、町はずれは貧民街と言っても過言ではない。
 邸宅では煌々と篝火を灯し、帝を迎える支度が整っていた。貴人を乗せた牛車が続々とやって来る。
 望月が入り口の官人に到着を告げ、案内を待つ。
「うひゃー、すっげーな……」
 りつはキョロキョロとまわりを見渡す。太刀を佩き、炬火を携えた甲冑姿の武士たちが整然と配置につき、見回りの哨戒兵もこれから合戦でもするような装備である。彼らは検非違使とも違う、御堂晴隆の私兵である。
「やめなさいよ、みっともない」
 サギリがりつの脇をひじで突く。
「ああ、悪い。それにしても、この着物は着慣れないなぁ」
 りつたちが着ている装束は綾の舞装束である。いつも着ている麻の練習着と違って作りは精巧で、花の文様の刺繍などが施されている。
 先頭に立つ望月が、後に続くセナたち四人に声をかけた。
「お前たちは生徒だが謡舞寮の代表なのだ。堂々としていなさい」
「は、はい」
 りつは唇を結んであごを引いた。
「あの、望月様」
「どうした静乃」
「私たちが舞うことはあるのでしょうか?」
「さあ、わからぬ。命ぜられねば舞わぬのが宮中の舞人だ。ただ、御前様の舞は見られるはずだ。まばたきはしないほうがよいぞ」
 望月は、ふふっ、と笑った。
 案内の官人がやって来て、セナたちは邸宅の奥に進んだ。謡舞寮に匹敵するほどの広さと大きさである。御堂晴隆の権力がうかがえる。
 セナたちは板張りの大広間の片隅に、身を縮めて座った。本来ならば同席など許されない雲上人たちの集まりである。
 帝を中心に、今回の主賓である水野実真が右隣に、主催者である御堂晴隆が左に座った。そして、帝の斜め後ろに蛾王の巨体が控えている。
 賓客である公卿や公家たちの前には、朱塗りの台盤だいばん(食事用の長机)が置かれ、色とりどりの料理が並んでいる。
「今宵は一万尾に一匹しか獲れぬという鮭児けいじと、南都諸白なんともろはくをご用意いたした。存分に召し上がられよ」
 御堂がみなに向かって言った。
 南都諸白とは、清酒――すなわち透明の酒である。濁り酒しか飲めない庶民には手が出ない高級酒である。鮭児もこれだけの数を入手するのは並大抵ではない。御堂はそれを用意してみせた。
「人がいっぱい……料理がいっぱい……うう、めまいがする」
 りつは場の空気にあてられて青ざめている。去年まで田舎で百姓をやっていた身分だ。場違いこの上ない。さすがのサギリも緊張でひきつっている。
 セナは静乃を盗み見た。少し表情が固いが、ふだんとあまり変わらない。
 それにしても――。
 帝を見ると、楽しげに銀の酒杯をかたむけている。
(なぜ、殺さない……鬼童丸は何を……)
 そして、水野実真を見た。
(あれが今日、私が守る相手……でも、何から守るというの……)
 帝を迎えた宴の席。酒食は進んでいるが、みなどこがぎこちない。公家たちの笑みは引きつり気味で、慎重に言葉を選びながら会話をしている。
 実真は酒杯に手を付けず、無言で食事をしている。
「みなのもの、箸を置け。これより我が師・弓御前に舞を披露してもらう」
 帝がその大きな口を開け、よく通る声で言った。
「古典も良いが、流行り物にも良いモノがある。これへ」
 その言葉を合図に、大広間に楽人たちがササッと入って来た。琵琶、龍笛、鼓などの奏者が配置につくと、その中央に音もなく進み出る一人の舞人。
 金の立烏帽子、白の水干、銀の菊綴きくとじ、紅の長袴、腰には籐巻とうまきの太刀を佩き、手には五本骨の日月扇じつげつせん――。

 それは舞人の一つ、男装の麗人・白拍子しらびょうしだった。

「おお……」
 一同は感嘆の息を漏らした。ただ立っているだけで美しい。
 弓御前はすでに老齢に差し掛かっているはずなのに、年若い乙女に見える。
 楽人の演奏に合わせ、舞がゆるりと始まると、大広間に優しい風が吹いた。
 その足さばきは風に揺れる草のように淀みなく、手のひらは蝶のようにひらひらと、扇に描かれた太陽と月が穏やかな時の流れを感じさせた。
 弓御前の唇がつむぐ言葉が音を纏う――歌である。

 遊びを せんとや 生れけむ 戯れ せんとや 生れけん
 遊ぶ 子供の 声きけば 我が身さえこそ 動がるれ

 (遊ぶために生まれて来たのか。戯れるため生まれて来たのか。遊ぶ子供の声を聴けば、私の身体さえも動いてしまう。)

 その身に宿る生の灯火。
 肉体の躍動と静止の繰り返しの中で、巡り廻る命の螺旋が、セナの目にはっきりと映った。
 衝撃だった。弓御前は、いや、舞とはこんなに美しいモノだったのか――。
 もはやまばたきの仕方を忘れた。息も出来ない。
 ただただ見惚れ、感じ、今この時この場所が春の野になった。
(あれが天女の舞……!)
 前に弓御前が言っていた。これがそうに違いない。セナは強く思った。
(私は……こんなふうに舞えるだろうか……この私が)
 セナは自分で気付かぬうちに拳を固く握っていた。
 舞が終わった。誰もが息を呑み、ぼーっとしていた。
「素晴らしい……! さすが弓御前! さすが我が師よ!」
 帝は感激の涙を流している。激流である。公家たちも次々に感動の言葉を口に出し、何度も大きなため息を吐いた。先ほどまでの凝り固まった雰囲気はどこへやら、一転して場は和やかに、みなの表情もやわらいだ。
「見たか、お前たち」
 望月がセナたちに言った。圧倒されて誰も声に出せなかった。
「私も最初はそうだった。生徒のころに御前様の舞を見て、自分の舞がいかに小手先のモノか思い知ったものだ」
 望月はまだ夢見心地といった様子のセナたちを見て、フフッと笑った。
 そのときである。水野実真が席を立った。
「拙者、少し酒に酔ってしまいました……夜風に当たって参ります」
 実真は帝の返事を待たずに大広間を後にした。興に水を差す実真の行動に公家たちは胆を冷やしたが、意外にも帝は咎めようとはしなかった。
「私も夜風に」セナは実真を追うために席を立つ。
「どうした?」と、望月。
「酒のニオイにあてられて……」
「そうか、行ってきなさい」
 セナはペコリと一礼して実真のあとを追った。
 御堂晴隆の邸宅は謡舞寮よりも広く、自然の草木を模した庭園は見事なものだった。
 池の水面に月光が降り注ぐ。その幻想的な輝きをセナは一瞥する。
(まるで仙境だ……この国にこんなところが)
 日ノ本の支配者――シュウジンは御堂晴隆をそう言っていた。
 今の帝をその座に就けた張本人だという。その時の争いはもう十数年も昔。まだ自分が生まれたかどうかもわからない頃の話だ。
(いけない……今は実真を追わないと)
 セナは疑念を振り払い、夜の闇に溶けて実真の後をつけた。実真は敷地のすみにあった井戸に向かう。水を飲むつもりらしい。
 ふと、セナは井戸のそばの異様な気配に気付いた。
(誰かいる……一人……いや、二人)
 気配を消して隠れているが、かすかに殺気を感じる。
 セナは繁みに隠れつつ、とっさに落ちていた石を拾った。
 実真が井戸に接近した。その瞬間、井戸枠の反対側から、全身黒尽くめの刺客が現れた。ギラリと光る小太刀を実真に向けてまっすぐ突く。
 二人は組み合った。実真は刺客の小太刀を脇でがっしりと封じている。そこを狙ってもう一人の刺客が迫り来る。
 セナは手にした石を鋭く投げ放ち、二人目の刺客の手を撃った。
 刺客は、ぐあっ、と短い悲鳴を上げた。
 実真はその隙を逃さず、一人目の刺客の腕をひねって肩の関節を外し、振り向きざまに後ろ蹴りを放って二人目の刺客の手から太刀を叩き落とす。そして身体を反転させた余勢を利用して、淀みなく刀を抜き放った。
 月光に濡れた刀身は黒く、木目状の模様で覆われていた。
「帰って主に伝えよ――失敗したと」
 無駄のない、流水のような動作だった。
 セナはその美しさに息を呑む。まるで舞でも見ているかのようだ。刺客たちは、落とした武器も拾わずに這う這うの体で逃げて行った。セナは結果的に命令を遂行できてホッとした。
「助かった。礼を言う」
 実真はセナに気付いていた。ギョッとして身を縮めるも、実真ほどの達人から今さら逃れられない。
 セナは観念して月光のもとに姿をさらす。
「お礼? 心にもないことを……」
 実真はセナの姿を認め、かすかに唇を開く。
「いや、嘘じゃない」
「いいえ、私の助けがなくてもあの程度の敵は難なく倒せた」
「ふう……まいったな。まさか、謡舞寮の生徒にたしなめられるとは」
「彼らは何者?」
「君の言ったとおりだ。敵……私の存在を疎ましく思う者。では、今度は私から聞いてもいいかい?」
「ダメ」
 即答するセナ。実真は困ったように笑う。
「はは、ダメか。それなら仕方ない」
「ごめんなさい。私には答えられない」
「そうか。急いで戻ろう。帝は短気だ」
 実真はすれ違いざまにセナの肩に手を置いた。武士の手だった。
「顔色が悪い」セナは見たままを言った。
「ああ、酒が苦手でね……」

          ※

 二人が戻った後も、酒宴は続いていた。給仕の女官たちは慌ただしくお膳を抱えて走り回り、みんなくだけた様子で楽しんでいる。
 帝は晴隆と時おり談笑してはカラカラ笑い、実真はなかなか進まぬ酒杯に目を落として何やら思案にふけっている。
 そのうち、赤ら顔の公家の一人がこんなことを言いだした。
主上しゅじょう(帝のこと)――畏れながら申し上げまする」
「おお、なんだ。申してみよ」
 帝もすっかり頬を上気させ、目がとろけている。
「謡舞寮といえば、主上が手ずからお作りになられた素晴らしき学び舎。その生徒の舞とは如何なるものか、拝見しとうございまする」
 帝は笑みを浮かべ、聞き終わらぬうちに笑いだした。
「カッカッカ――よくぞ申した! 聞いておったな、望月よ」
 望月は背筋をピシャリと伸ばす。
「はっ……まだ未熟なれば、ご不興を買わねばよいのですが……」
「かまわぬ。もし良き舞を披露できれば……そうだのう、いずれワシの舞人にしてやってもよい……演目は……ううむ」
 帝は実真をチラリと見た。
東遊あずまあそびがよい。その昔、駿河国するがのくにに舞い降りた天女を歌ったものだ。はたして、この中に天女となれる者がいればよいが……のう実真よ」
「……は」実真は短く頷く。
 望月はセナたち四人に視線を向ける。いち早く答えたのは静乃だった。
「私、やります! やらせてください!」
 りつとサギリも頷く。セナは望月の目を見つめた。
「……わかった。では、ご披露して差し上げよ」
 セナたち四人は大広間の中央に躍り出て、帝や公家たちが見守る中、それぞれの位置についた。
 東遊は四人以上の舞人で披露する明るく軽やかな調子の舞である。高麗笛こまぶえ篳篥ひちりき、和琴などを用いて演奏され、唱歌の者がつく。
「今宵は、この望月が歌人を務めまする」
 楽人たちの反対側に、望月がついた。
 前奏となる狛調子こまじょうしが楽人たちの手によって奏でられ、望月がスーッと息を吸い込んだ。
 涼やかな歌声が大広間に響き渡る。

 晴れんな 手を調へろな 歌ととのへむな 栄えむの音
 え 我が背子が 今朝の琴手は七つ緒の八つ緒の琴を
 調べたることや 汝を懸山の桂の木や

 一の歌、二の歌が披露され、公家たちは望月の美しい声に魅了された。
 セナたちも舞のために控えながら、その耳で望月の歌唱に驚く。修練で幾度も手本を聞いたのに正式な演目では凄味が違う。セナはいつになく緊張を覚えた。
 望月の独唱が終わり、いよいよ舞人の出番となる。
 セナと静乃、りつとサギリが、それぞれ対称の配置で向かい合う。
 高麗笛と篳篥が、セナたちの足もとを照らすように、そっと流れに導いた。
 公家たちから、おお、という声が上がる。
 出だしの動きから、四人は鏡合わせのように舞った。

 だが――。

(ダメだ……どうしても呼吸がズレる)
 セナは焦りを覚えた。てんでバラバラだ。りつは緊張ですっかり硬くなり、サギリは舞の手順を一つ一つ思い出しているためテンポが少し遅い。
 そして静乃もふだんの精彩を欠き、まったく余裕がない。
(私もダメだ……一人の舞とは全然違う)
 セナは誰かと一緒に舞うことの難しさを実感していた。今までは一人で気ままに自由に舞っていた。どのような身振り手振りでも、笛の音に乗せさえすればカタチになった。でも、これは違う。
 みんなの呼吸と心を一つに合わせなければならない――。
 その瞬間、異変が起こった。
 静乃が一人だけ、動きから大きく離れた。
 りつもサギリも自分の舞に必死で見えていない。セナだけが、静乃の異常な動きに気付いた。

「今こそ天誅を――」

 静乃が帝に向かって突進した。その手には手のひらほどの小刀。まっすぐ帝の胸を狙って、白銀の刃を放った。帝の背後に控えていた蛾王が身を乗り出して拳を静乃に向ける。すべての一瞬が交差した――。
 誰の驚く声もなし。帝は目を丸く剥き、刃の切っ先を見つめていた。
 大広間の人間たち、そしてセナが次に目撃したのは、凍った時間だった。
 中心にいたのは実真である。静乃の放った刃は実真の左手の人差し指と中指に挟まれて、殺意と共に勢いを止められ、蛾王の放った巨大な拳は、大きく開いた右手でガッチリと防がれていた。
「そこまで!」
 水野実真が、帝と静乃の二つの命を守ったのだった。
 あまりに想定外の出来事に、公家たちは腰を抜かし、青ざめ、唇をわなわな震わせている。セナたちも何が起こったのか理解できずに呆然としていた。
「蛾王、娘を殺せ」
 帝は蛾王の巨体の下で汗一つかかず、無感動に言い捨てた。
 蛾王の拳がギリギリと音を立てて小刻みに震える。実真の指の骨も白く浮き上がり、強大な力がせめぎ合っている。一進一退の攻防だった。
「お待ちください」
 そう言った実真の表情と声は澄んでいる。
「この者はワシを殺そうとした。待つ理由がどこにある、実真」
 そこに衛士たちがなだれ込んできた。すぐさま静乃の身柄を拘束し、その場でうつ伏せに押し倒すと頭を抑えつける。静乃は鋭く叫んだ。
「私は先の参議さんぎ高階義明たかしなよしあきが一人娘・しずか! いわれなき汚名を着せられ殺された父の恨みを晴らすべく、ここに来た! 天誅を受けよ! 妖怪め!」
 そこにいつもの静乃はいなかった。穏やかで大人びた雰囲気の、やさしい目をしたあの静乃は。
 セナは心臓の高鳴りを感じた。
 数多の修羅場をくぐって来たにも関わらず、今、とても、怖い――。
「その娘を守るというのですかな――実真殿」
 御堂晴隆が涼しい顔で、酒杯に残っていた酒をあおる。
「それすなわち、帝の命に背くということ」
「いいえ、私はただ、酒宴に水を差すことはないと申している。これ以上は」
 晴隆は目を細め、視線をずらした。その瞳には露骨に嫌悪が浮かんでいる。
 実真は帝に向き直る。
「帝――この娘を私に預けて頂きとう存じます。しっかり吟味したのち、すべての罪を明らかにいたしまする」
「ならぬ。殺せ」
「帝!」
 実真が大きく声を張った。大広間に漂っていた酒気が吹き飛ぶ。
「もう二度と、舞を汚してはなりませぬ」
 帝と実真の視線が真っ向からぶつかる。
 セナはこの凍てついた時間を永遠のように感じた。まるで溶けない氷のように。
 夜空に浮かんだ円い月が、夜の都を皓々と照らしていた。
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