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東から来た男 その1
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その日、愛宕山にある根城に鬼童丸が帰還した。
黒鬼党は遠征と称し、支配下にある近隣の村々を巡回し、上納品を取り立てている。時には他の盗賊団と戦ってこれを壊滅させ、残党を吸収して大きくなり、黒鬼と恐れられるまで五年とかからなかった。
だが――近ごろはどうにも『稼ぎ』が悪い。
馬から降りた鬼童丸をヒザが出迎えた。
「ヒザ、お前の読み通り、西国からの積荷の流れが変わった」
「ほほほ、ということは」
「ああ、いよいよだ。それよりセナはどうだ?」
その問いかけに、一人の男が物陰から答える。
「上手く謡舞寮に入門しました。妖怪の顔も覚えたようです」
「ホオヅキか。よく戻った」
「お久しぶりです、お頭」
陰から出て来たホオヅキは覆面をしていない。頬の傷が剥き出しだった。
「都は満喫できたか?」
鬼童丸はいたずらっぽく口の端を上げて言った。
ホオヅキは勘弁してくれと言うように微笑を浮かべて首を横に振る。
「傷が疼くか」
「まさか。ただ、少し痒いです」
「セナはやらかさなかっただろうな?」
「さすがにセナのヤツ、長けてますね。標的を前にしても冷静でした」
「そうか。謡舞寮はどうだ?」
「セナから見取り図と衛士の配置図を受け取りました。弓御前の屋敷に帝が寝泊りすることがあるようです。ただ、部屋は別なので男女の仲ではないようです。別に帝の部屋があり、そこには白い舞装束があったとか」
「……そうか。よくやった」
「ところでお頭、ソレは何です?」
ホオヅキは鬼童丸の後ろに控えていた手下が持った包みを指差す。鬼童丸は手下に包みを開けさせた。中身は竹の鳥籠。一羽の白い鳥がいた。
「鳥……ですか。身体もクチバシも大きい。それに艶やかだ」
「こいつは鸚鵡だ。人の言葉をしゃべるらしいぞ」
「えっ、人の言葉を……」
ホオヅキはギョッとして籠の中の鸚鵡を覗く。すると鸚鵡はギャアギャア騒いで羽ばたいた。ホオヅキは思わずのけぞった。
「タイカンジチュウ! タイカンジチュウ!」
「うわっ、しゃべった! 変な鳴き声ですね」
「大陸の言葉だ。舶来品だからな、船旅の途中で誰かが教えたんだろう」
「はぁ……それより、コレがここにあるってことは……」
「どこぞのバカが、帝への献上品を積んだ輸送隊を襲いやがった」
「ですよね。で、どうします? 焼いて食っちまいますか?」
「バカ言え、これは吉兆だ。これから都に――嵐が来るぞ」
鬼童丸の不気味な物言いにヒザはニヤリとし、ホオヅキは冷や汗をかいた。
※
京の都の朱雀大路を、整然と歩く武士の一団がいた。
一糸乱れぬ隊列は惚れ惚れするほど勇ましく、凛々しく、街の人々は我先とばかりに沿道に連なって二十人ほどの武士の隊列を見物した。
先頭には、額に白い一点星のある黒い馬が堂々と闊歩している。
その巨大な馬を駆るのは優しそうな顔立ちの一人の武者だった。
なんとも美しい白絲威の大鎧を身にまとい、龍を模した鍬形飾りの星兜をかぶっている。
「おお、あれは……」
その武者の正体に気付いた街の人々が声をもらす。
「水野実真さまだ……」
黒い馬を駆る白い甲冑の武者――水野実真は、朱雀門の前まで来ると手を挙げて隊列を止めた。そして馬から降りて兜を脱ぎ、一人で門をくぐる。
すぐに出迎えの官人が三人で現れた。
「水野実真――御下命を成し遂げ、ただいま復命仕りました」
龍の星兜を右の官人に渡し、太刀を左の官人に預ける。
「帝がお待ちでございます」
中央の官人について次の門を抜けると、南側に広大な庭を有する紫宸殿に到着した。普段、ここで儀式や謁見が行われている。
羅城門や朱雀門に比べて質素な造りだったが、視界に収めるのも難しいほど広く、荘厳で重厚な雰囲気が漂っている。
幅のある階段を上がり、実真は奥へと進んだ。その最奥に、帝の地位を象徴する玉座『高御座』がある。一段高い場所にあり、鳳凰を象った煌びやかな装飾に、高貴な紫色の帳が設えられていた。
実真は膝をつき、畏まった。お側付きの左右の官人が帳を開ける。
そこには豪奢な法衣を身にまとい、四角い頭の帝が座していた。
「水野実真、東国での賊徒征伐の任を終え、帰還いたしました」
「よくぞ戻った――実真。して、どうであった?」
「新たな国司を無事に送り届け、その足で賊軍の将・斎藤義忠を討ち果たして参りました。また、乱を看過した伊豆介・上條常正の任を解き、蟄居(謹慎のこと)処分にいたしております」
「そうではない」
「……はっ……」
「わしが聞いておるのは東国のことじゃ。どんな花が咲いておった? どのような衣を着ておった? 鳥は? 魚は? あちらの月も満ち欠けするか?」
「それは……」
実真が答えあぐねていると、帝はそばに控えていたある男の名を呼んだ。
「晴隆――」
「はっ」
一人の四十がらみの男が、スッと前に出る。蛇のような小さな瞳の、何やら影を感じさせる風貌である。立ち振る舞いは堂々と、大内裏の中にあってもまるで私邸の庭のように落ち着いている。
この男、名を御堂晴隆という――。
時の右大臣であり近衛大将でもある。さらに安芸守として瀬戸内海全域を支配下に置いている。太刀を佩く身でありながら、帝のそばに立つことを許された西国武士の棟梁である。
「実真にこたびの褒美を取らせようと思うが、何がよいかのう……おお、人語を解するという鸚鵡ではどうか? 今、大陸から運ばせておる」
「おうむ? はて、そのような品、献上品の目録にありましたかな」
「ううむ……では晴隆、何がよい?」
「そうですな……実真殿は武士ですから、馬か刀剣がよろしいかと」
「すでに名馬はやった……ならば刀剣か」
「実真殿にふさわしい『名剣』がございましょう」
「剣……おお、アレだ! アレを持て」
帝が命じて持ってこさせたのは、ひと振りの異形の剣だった。
鋭い刃を左右に持ち、黒味がかった刀身には、木目状の模様がびっしりと覆っている。鞘の拵えもまったく飾り気なく、見たこともない動物の革を使った珍しいモノだった。実真は見た目に似つかぬ軽さに驚いていた。
「これは……?」
「ダマスカの剣である」
「だますか……?」
「海を隔てた大陸の、さらに果てなるその場所に、ダマスカという都市がある。そこで作られた異国の剣じゃ。そこではのう実真、サラジィンという王が、都市をまるごと城砦に変えてしまったらしい。まるごとじゃぞ、わかるか? この京の都をまるっと城壁で覆って戦をするということじゃ」
帝の眼はカッと見開かれ、楽しげに大きな口を開く。
「面白い! そう思わぬか? 実真」
実真はゆっくりと首を横に振った。
「難しくてよくわかりませぬ。私には、この剣さえも身に過ぎたる物。本来であれば筆を手に取り下手な歌を詠むのが精々の身ゆえ」
帝はジーッと実真の表情を見つめた。
「よい。近々お主をねぎらう酒宴を催そう。晴隆、支度を」
「は、お任せあれ」
「では実真、久々に都の舞を愛でるがよい」
「……はっ」
実真は小さな声で応えた。
※
セナたちが謡舞寮に入門してから、半年が経過していた。
暑かった都の夏は過ぎ去り、夜には秋の気配がそこここに。
毎朝の歩き走りの修練はすでに何てことのない日課となり、眠たい座学も慣れたもの。
あれから、口紅の引き方や、貝殻をすり潰した白粉の作り方、舞装束の着付けも習得し、さまざまな知識を身に付けた。
彼女たちの肉体は以前よりもしなやかに、そして強靭になり、舞に耐えられるだけの力を獲得しつつあった。
修練場では、筆頭女官・望月の甲高い声がこだまする。
「腰の位置を意識しなさい。身体の芯は丹田にあります」
セナの黒猫の異名はダテではなく、全身の筋肉が若竹のようにしなやかな強さを持っていて、生徒たちの中でもその動きは際立っていた。
それに匹敵するのが静乃である。セナほどのキレはないが、身体にたおやかさが染みついており、みなの手本となった。
「身体を強く動かすときこそ、足は優しく踏み出す。その逆に――身体を優しく動かすときには、足を強く動かす」
望月は舞の足さばきをみなの前で披露してみせる。
「強いと荒いは違う。優しいと弱いは違う。それを意識せよ――」
サギリは、セナや静乃ほどではなかったが、他の生徒たちと同じ程度には習熟し始めていた。だが、可もなく不可もなくといったところである。
そして――。
「ううう……」
りつである。苦々しい顔で、必死に望月の振りについてゆくが、どうしてもぎこちない。肉体は誰より立派にも関わらず、である。
「強い、荒い、優しい、弱い……何がどう違うってんだよ」
ははっ、とサギリが額に汗しながら笑う。
「無いアタマで考えてもダメに決まってるでしょ」
「そういうサギリは出来てるって言えるのか?」
「当たり前でしょ。舞は考えるモノじゃないの、感じるモノなのよ」
得意げに言うサギリに、りつは恨みの視線を向ける。
こうなると、たいてい静乃がなだめ役になる。
「静乃ぉ……サギリがいじめるんだ」
「まあまあ……でも、サギリの言うことも一理あるのよね」
「静乃!」
「フフン」小柄なサギリが、背の高いりつを見下す。
「でも、サギリも出来てない。それを自分でわかってる。でしょ?」
「……むぅ」
「ナハハッ、言われてやんの」
今度はりつがサギリを文字通り見下ろした。
修練ではいつもこんなやり取りを繰り返していた。
そしてセナはというと――。
「りつは歌が得意……」
「ああ、そうだけど……」
「ほんとぉ?」サギリがいぶかしげに眉間に皺を寄せる。
「強く歌う時と優しく歌う時。どう違う?」
セナはサギリを無視して問いかける。りつは腕を組んで天井を見上げた。
「ええっと……どっちもヘソの下に力を込めて声を……あっ、なるほど!」
「何がなるほどよ?」と、サギリ。
「ヘソの下さ」
「ヘソ?」
「力をヘソの下に込めるんだ。そうすると強くも歌えるし優しくも歌える」
サギリの頭の上にたくさん『?』が浮かんでいる。
「その場所を『丹田』と呼ぶの。さっき望月様がおっしゃったことよ」
静乃が補足をした。りつはうんうんと頷き、サギリは首をかしげる。
「セナは身体の芯をとっくに理解してたのね」
「あ、うん……まあ」
丹田に力を込めて――ひと息に相手の急所を突き刺す。そして刃を回して肉をえぐる。確実に仕留めるために。
鬼童丸に最初に教わった暗殺の心得だ、とは言えなかった。
とはいえ、セナはすっかり謡舞寮での生活に馴染んでいた。
あれから帝はたびたび謡舞寮を訪れるものの、生徒たちの前に姿を見せることはなかった。ホオヅキから新たな指令が伝えられることもなく、ひたすら舞人になるための修練に励む日々を送っていた。
そしてもう一つ、日常の一部になったことといえば――。
その日、セナは買い出しに出ていた。班の持ち回りで市場に出る。
米俵や大鍋などの手に余る物は商人が謡舞寮まで届けに来るが、塩や油、針糸や櫛などの日用品や消耗品は自分たちで調達しなければならない。
今では洗濯も掃除も薪割りも、生活のすべてを自分たちで行っていた。
京の都には、国が管理する二つの大きな市場がある。
東市と西市である。半月ごとに交替で開かれていて、それぞれ市司という役所が監督している。この二つの市場は検非違使(警察にあたる)が治安の維持を行っている。
しかし、セナはそのどちらにも行かず、同じ班の静乃たちと離れて別の市場に向かった。そこは東西の市場の中間にある『錦小路』の市場である。
ここでは、東西の市場であまり売られない刀剣や甲冑などがひそかに売られていた。そのぶん怪しげな露天商も多く、治安はけっして良くはない。
そのため、謡舞寮の他の生徒たちは近づけない。
「セナ――」
錦小路を歩くセナを呼び止める少年の声。
「……シュウジン」
あの夜、セナの帝暗殺を止めた大学寮の見習い傀儡師シュウジンだった。シュウジンは木偶人形を糸で操り、セナに向かっておどけた挨拶をしてみせる。
「これ、あげる」
シュウジンは懐からお菓子を取り出した。薄く伸ばした餅の中に、季節の果物を挟んだものである。二人は市場の片隅で並んで食べた。
新たな日常とは、二人きりの会話だった。
「このごろはどう?」
「悪くない。みんな上達してる」
「ははっ、違うよ。暗殺のほうさ」
「あ……」
セナは虚を衝かれた。謡舞寮での暮らしが任務を忘れさせている。一人前の舞人になることは暗殺に必要だ。だから忘れているわけではない――なのに。
「東国から一人の武者が帰って来た。その名は水野実真」
シュウジンはよくわからないことを言った。
「それが何?」
「水野様は東国の乱を鎮めるために何年も都を空けていてね、それが昨日帰って来たんだ。帝は水野様をもてなすために、舞人を集めて酒宴を開く」
「舞人を……?」
何となくシュウジンの言いたいことがわかってきた。シュウジンはこうしていつも暗殺のことを思い出させてくれる。二人で話すようになった今も、シュウジンが何を考えているのかセナにはつかめないでいた。
「近々、御堂晴隆様のお屋敷でそれが行われるらしい」
「御堂晴隆?」
「西国武士の棟梁さ。十年以上前、今の帝がその座に就くために、敵対した弟皇子と戦った――通称『永現の乱』――その勝利の功績が認められて、帝のそばに仕えるようになった。事実上、日ノ本を支配していると言ってもいい」
セナは眉間に皺を寄せる。鬼童丸の話では、帝は恐怖でこの日ノ本を支配しているということだったが――。
「日ノ本を支配しているのは帝……じゃないの?」
「間違いじゃない。でも、帝一人で政治をやるわけではないからね。御堂様はいわば帝の頭脳。だからこそ、お屋敷で酒宴も開く……」
「そう……どうしてシュウジンがそれを?」
「大学寮は優秀な人たちの集まりだからね。それこそ貴族の子供や兄弟もたくさんいるんだ。噂話は売るほどあるよ」
「じゃあ、シュウジンは?」
「僕はみなしごさ。ただの傀儡師見習いだよ」
シュウジンはやさしげに眼を細めて微笑んだ。
だが、セナにはどこか寂しげに感じた。
※
シュウジンの言ったとおり、御堂晴隆の邸宅で酒宴が開かれる。
修練の広間にて筆頭女官・望月の口からそれがみなに伝えられた。
「右大臣ならびに近衛大将・御堂晴隆様のお屋敷には幾人か連れて行く」
生徒たちはざわついた。それもそのはず、生徒の身分で雲上人の屋敷に赴くなどまず考えられない。
雲上人とは、帝の住まいである清涼殿に昇殿することが許された高貴な身分である。この京の都の中でも数えるほどしかいない。
「なあ、右大臣で近衛大将ってどんだけすごいんだ?」
りつが隣のセナに耳打ちする。
「近衛大将って……何?」
セナはサギリに耳打ちする。
「近衛大将って言ったらアレよ、近衛の大将よ」
「じゃあ右大臣は?」
「右の……大臣」
セナもりつも目を細めた呆れ顔でサギリを見た。
「な、何よ……」
「いや、別に。お前ってスゴイよな。たまに感心するよ」
りつの言葉にセナも頷く。すかさず静乃が補足する。
「近衛大将っていうのはね、武官の頂点に立つ人よ。宮中の警固を司る役職だから、ただ偉くてもなれないし、ただ強くてもなれないの」
「じゃあ、日ノ本一の武士ってことか?」と、りつ。
「この国は広いからそれはわからないけど、少なくとも京の都でもっとも武力を持ったお方なのは間違いない」
「西国武士の棟梁……」セナは言った。
「よく知ってるね、セナ。その通りよ」
「何でアンタが知ってんのよ」
セナはサギリの追及の視線をさらりとかわす。シュウジンに聞いたとは言えなかった。シュウジンと出会った経緯など話せるわけがない。
それにしても、帝を暗殺するためには随身の蛾王を突破しなければならないのに、さらに強敵がいようとは。ますます帝との距離を感じてしまう。
はたして、本当に帝を暗殺出来るのか。セナの胸で不安が渦を巻く。
と、そこに弓御前が現れた。望月は自分の場を譲った。
「御堂様のお屋敷には、静乃、セナ――お前たちを連れてゆきます」
生徒たちの視線がいっせいに注がれる。これは納得の人選だった。生徒たちもこの二人の実力が抜きん出ていることは理解している。
「それから、あと二名であるが……」
りつとサギリは示し合わせたわけでもないのに、互いの眼を見て頷いた。
「あたしに行かせてください!」
「わ、わたしも行きます!」
声を張って立ち上った二人に、望月の鋭い視線が向けられる。
「理由を述べよ。美味なる食事にありつけるとは言うまいな」
「学べるからです!」
りつの返答は早かった。すかさずサギリも続く。
「高貴な方のお屋敷なら……い、一流の舞人が集まるはずで……だからその、一流の舞を見て学べるかなぁ……っていう感じです!」
ふむ、と望月は言葉を呑み込み、いかがしますか、と弓御前に問う。
「よいでしょう。謡舞寮の理念は心。此度はその意気を買いましょう」
それから、と弓御前は付け加える。
「酒宴には帝もお見えになる……心せよ」
弓御前はそれだけ言って、望月と共に音もなくその場を去った。
修練の広間は、氷の矢を打ち込まれたように冷え切っていた。
帝が来る。ヘタに機嫌を損ねれば都から追放どころか、命さえ危ういかもしれない。
生徒たちの中には、自分が選ばれなくてホッとする者や、勢いで志願しなくて正解だったと胸を撫で下ろす者がいた。
りつとサギリは顔を合わせ、自分たちの行動が間違いでないと暗示をかけるように何度も何度も頷き合う。が、目は泳ぎがちで唇も小刻みに震えていたが。
セナもまた、思惑の中にいた。恐怖ではない。
ふたたび、帝を暗殺できる絶好の機会が訪れた――その重圧だった。
「セナ……大丈夫?」
静乃がポンッと肩に手を置く。
「ああ、うん。静乃は?」
「平気――ううん、うそ!」
静乃はセナの手を取って自分の胸に当てた。強い鼓動が手のひらを打つ。
「もしかしたら、帝の前で舞を披露出来るかもしれない……そう思ったら」
静乃は緊張した面持ちで、しかし瞳の奥は期待で輝いていた。
この目だ――セナはそう思った。
自分の命を日々一瞬に賭けている。目の前に転がって来た好機を掴むために、毎日の修練を全力でやり抜いて来た人間の目だ。りつもサギリも、自分の意思で謡舞寮に来て、今、勇気を出して手を挙げた。
でも、自分は違う。セナは俯く。自分にこの目は持ち得ない。舞は暗殺の手段だ。それ以上でも以下でもない。そもそも、舞を始めたのも鬼童丸の命令だ。
すべては妖怪を殺すため。そう、そのためだけに――。
その夜、りつが寝静まったのを見計らって、セナは部屋を出た。
敷地の隅にある井戸まで衛士の目を忍んで向かうと、塀の外に向かって小石を投げた。すると外から小石が返ってくる。
セナは身をかがめて塀に背を向けてはり付いた。
「三日後に、近衛大将の屋敷で酒宴が開かれる」
「三日後か。御堂晴隆だな。大物のお出ましだ」
その声はホオヅキだった。定期連絡である。
「酒宴には帝も来る。どうする?」
「それなんだがな、お頭から新たな命令だ――帝は殺すな」
セナは耳を疑った。
「どういうこと? 妖怪を殺せば国が良くなるんじゃ」
「疑問は挟むな。技が鈍る。それから――水野実真を守れ」
「水野を……」
セナは疑問を呑み込んだ。
「それでいい。お前は命令だけを忠実に守っていればいいんだ」
「ホオヅキ」
「何だ?」
「……何でもない」
「いいか、セナ。お前は本当ならガキの時に死んでいた。ここでの暮らしはまやかしなんだ。お前は生きているが、死んでもいる。忘れるな」
黒鬼党は遠征と称し、支配下にある近隣の村々を巡回し、上納品を取り立てている。時には他の盗賊団と戦ってこれを壊滅させ、残党を吸収して大きくなり、黒鬼と恐れられるまで五年とかからなかった。
だが――近ごろはどうにも『稼ぎ』が悪い。
馬から降りた鬼童丸をヒザが出迎えた。
「ヒザ、お前の読み通り、西国からの積荷の流れが変わった」
「ほほほ、ということは」
「ああ、いよいよだ。それよりセナはどうだ?」
その問いかけに、一人の男が物陰から答える。
「上手く謡舞寮に入門しました。妖怪の顔も覚えたようです」
「ホオヅキか。よく戻った」
「お久しぶりです、お頭」
陰から出て来たホオヅキは覆面をしていない。頬の傷が剥き出しだった。
「都は満喫できたか?」
鬼童丸はいたずらっぽく口の端を上げて言った。
ホオヅキは勘弁してくれと言うように微笑を浮かべて首を横に振る。
「傷が疼くか」
「まさか。ただ、少し痒いです」
「セナはやらかさなかっただろうな?」
「さすがにセナのヤツ、長けてますね。標的を前にしても冷静でした」
「そうか。謡舞寮はどうだ?」
「セナから見取り図と衛士の配置図を受け取りました。弓御前の屋敷に帝が寝泊りすることがあるようです。ただ、部屋は別なので男女の仲ではないようです。別に帝の部屋があり、そこには白い舞装束があったとか」
「……そうか。よくやった」
「ところでお頭、ソレは何です?」
ホオヅキは鬼童丸の後ろに控えていた手下が持った包みを指差す。鬼童丸は手下に包みを開けさせた。中身は竹の鳥籠。一羽の白い鳥がいた。
「鳥……ですか。身体もクチバシも大きい。それに艶やかだ」
「こいつは鸚鵡だ。人の言葉をしゃべるらしいぞ」
「えっ、人の言葉を……」
ホオヅキはギョッとして籠の中の鸚鵡を覗く。すると鸚鵡はギャアギャア騒いで羽ばたいた。ホオヅキは思わずのけぞった。
「タイカンジチュウ! タイカンジチュウ!」
「うわっ、しゃべった! 変な鳴き声ですね」
「大陸の言葉だ。舶来品だからな、船旅の途中で誰かが教えたんだろう」
「はぁ……それより、コレがここにあるってことは……」
「どこぞのバカが、帝への献上品を積んだ輸送隊を襲いやがった」
「ですよね。で、どうします? 焼いて食っちまいますか?」
「バカ言え、これは吉兆だ。これから都に――嵐が来るぞ」
鬼童丸の不気味な物言いにヒザはニヤリとし、ホオヅキは冷や汗をかいた。
※
京の都の朱雀大路を、整然と歩く武士の一団がいた。
一糸乱れぬ隊列は惚れ惚れするほど勇ましく、凛々しく、街の人々は我先とばかりに沿道に連なって二十人ほどの武士の隊列を見物した。
先頭には、額に白い一点星のある黒い馬が堂々と闊歩している。
その巨大な馬を駆るのは優しそうな顔立ちの一人の武者だった。
なんとも美しい白絲威の大鎧を身にまとい、龍を模した鍬形飾りの星兜をかぶっている。
「おお、あれは……」
その武者の正体に気付いた街の人々が声をもらす。
「水野実真さまだ……」
黒い馬を駆る白い甲冑の武者――水野実真は、朱雀門の前まで来ると手を挙げて隊列を止めた。そして馬から降りて兜を脱ぎ、一人で門をくぐる。
すぐに出迎えの官人が三人で現れた。
「水野実真――御下命を成し遂げ、ただいま復命仕りました」
龍の星兜を右の官人に渡し、太刀を左の官人に預ける。
「帝がお待ちでございます」
中央の官人について次の門を抜けると、南側に広大な庭を有する紫宸殿に到着した。普段、ここで儀式や謁見が行われている。
羅城門や朱雀門に比べて質素な造りだったが、視界に収めるのも難しいほど広く、荘厳で重厚な雰囲気が漂っている。
幅のある階段を上がり、実真は奥へと進んだ。その最奥に、帝の地位を象徴する玉座『高御座』がある。一段高い場所にあり、鳳凰を象った煌びやかな装飾に、高貴な紫色の帳が設えられていた。
実真は膝をつき、畏まった。お側付きの左右の官人が帳を開ける。
そこには豪奢な法衣を身にまとい、四角い頭の帝が座していた。
「水野実真、東国での賊徒征伐の任を終え、帰還いたしました」
「よくぞ戻った――実真。して、どうであった?」
「新たな国司を無事に送り届け、その足で賊軍の将・斎藤義忠を討ち果たして参りました。また、乱を看過した伊豆介・上條常正の任を解き、蟄居(謹慎のこと)処分にいたしております」
「そうではない」
「……はっ……」
「わしが聞いておるのは東国のことじゃ。どんな花が咲いておった? どのような衣を着ておった? 鳥は? 魚は? あちらの月も満ち欠けするか?」
「それは……」
実真が答えあぐねていると、帝はそばに控えていたある男の名を呼んだ。
「晴隆――」
「はっ」
一人の四十がらみの男が、スッと前に出る。蛇のような小さな瞳の、何やら影を感じさせる風貌である。立ち振る舞いは堂々と、大内裏の中にあってもまるで私邸の庭のように落ち着いている。
この男、名を御堂晴隆という――。
時の右大臣であり近衛大将でもある。さらに安芸守として瀬戸内海全域を支配下に置いている。太刀を佩く身でありながら、帝のそばに立つことを許された西国武士の棟梁である。
「実真にこたびの褒美を取らせようと思うが、何がよいかのう……おお、人語を解するという鸚鵡ではどうか? 今、大陸から運ばせておる」
「おうむ? はて、そのような品、献上品の目録にありましたかな」
「ううむ……では晴隆、何がよい?」
「そうですな……実真殿は武士ですから、馬か刀剣がよろしいかと」
「すでに名馬はやった……ならば刀剣か」
「実真殿にふさわしい『名剣』がございましょう」
「剣……おお、アレだ! アレを持て」
帝が命じて持ってこさせたのは、ひと振りの異形の剣だった。
鋭い刃を左右に持ち、黒味がかった刀身には、木目状の模様がびっしりと覆っている。鞘の拵えもまったく飾り気なく、見たこともない動物の革を使った珍しいモノだった。実真は見た目に似つかぬ軽さに驚いていた。
「これは……?」
「ダマスカの剣である」
「だますか……?」
「海を隔てた大陸の、さらに果てなるその場所に、ダマスカという都市がある。そこで作られた異国の剣じゃ。そこではのう実真、サラジィンという王が、都市をまるごと城砦に変えてしまったらしい。まるごとじゃぞ、わかるか? この京の都をまるっと城壁で覆って戦をするということじゃ」
帝の眼はカッと見開かれ、楽しげに大きな口を開く。
「面白い! そう思わぬか? 実真」
実真はゆっくりと首を横に振った。
「難しくてよくわかりませぬ。私には、この剣さえも身に過ぎたる物。本来であれば筆を手に取り下手な歌を詠むのが精々の身ゆえ」
帝はジーッと実真の表情を見つめた。
「よい。近々お主をねぎらう酒宴を催そう。晴隆、支度を」
「は、お任せあれ」
「では実真、久々に都の舞を愛でるがよい」
「……はっ」
実真は小さな声で応えた。
※
セナたちが謡舞寮に入門してから、半年が経過していた。
暑かった都の夏は過ぎ去り、夜には秋の気配がそこここに。
毎朝の歩き走りの修練はすでに何てことのない日課となり、眠たい座学も慣れたもの。
あれから、口紅の引き方や、貝殻をすり潰した白粉の作り方、舞装束の着付けも習得し、さまざまな知識を身に付けた。
彼女たちの肉体は以前よりもしなやかに、そして強靭になり、舞に耐えられるだけの力を獲得しつつあった。
修練場では、筆頭女官・望月の甲高い声がこだまする。
「腰の位置を意識しなさい。身体の芯は丹田にあります」
セナの黒猫の異名はダテではなく、全身の筋肉が若竹のようにしなやかな強さを持っていて、生徒たちの中でもその動きは際立っていた。
それに匹敵するのが静乃である。セナほどのキレはないが、身体にたおやかさが染みついており、みなの手本となった。
「身体を強く動かすときこそ、足は優しく踏み出す。その逆に――身体を優しく動かすときには、足を強く動かす」
望月は舞の足さばきをみなの前で披露してみせる。
「強いと荒いは違う。優しいと弱いは違う。それを意識せよ――」
サギリは、セナや静乃ほどではなかったが、他の生徒たちと同じ程度には習熟し始めていた。だが、可もなく不可もなくといったところである。
そして――。
「ううう……」
りつである。苦々しい顔で、必死に望月の振りについてゆくが、どうしてもぎこちない。肉体は誰より立派にも関わらず、である。
「強い、荒い、優しい、弱い……何がどう違うってんだよ」
ははっ、とサギリが額に汗しながら笑う。
「無いアタマで考えてもダメに決まってるでしょ」
「そういうサギリは出来てるって言えるのか?」
「当たり前でしょ。舞は考えるモノじゃないの、感じるモノなのよ」
得意げに言うサギリに、りつは恨みの視線を向ける。
こうなると、たいてい静乃がなだめ役になる。
「静乃ぉ……サギリがいじめるんだ」
「まあまあ……でも、サギリの言うことも一理あるのよね」
「静乃!」
「フフン」小柄なサギリが、背の高いりつを見下す。
「でも、サギリも出来てない。それを自分でわかってる。でしょ?」
「……むぅ」
「ナハハッ、言われてやんの」
今度はりつがサギリを文字通り見下ろした。
修練ではいつもこんなやり取りを繰り返していた。
そしてセナはというと――。
「りつは歌が得意……」
「ああ、そうだけど……」
「ほんとぉ?」サギリがいぶかしげに眉間に皺を寄せる。
「強く歌う時と優しく歌う時。どう違う?」
セナはサギリを無視して問いかける。りつは腕を組んで天井を見上げた。
「ええっと……どっちもヘソの下に力を込めて声を……あっ、なるほど!」
「何がなるほどよ?」と、サギリ。
「ヘソの下さ」
「ヘソ?」
「力をヘソの下に込めるんだ。そうすると強くも歌えるし優しくも歌える」
サギリの頭の上にたくさん『?』が浮かんでいる。
「その場所を『丹田』と呼ぶの。さっき望月様がおっしゃったことよ」
静乃が補足をした。りつはうんうんと頷き、サギリは首をかしげる。
「セナは身体の芯をとっくに理解してたのね」
「あ、うん……まあ」
丹田に力を込めて――ひと息に相手の急所を突き刺す。そして刃を回して肉をえぐる。確実に仕留めるために。
鬼童丸に最初に教わった暗殺の心得だ、とは言えなかった。
とはいえ、セナはすっかり謡舞寮での生活に馴染んでいた。
あれから帝はたびたび謡舞寮を訪れるものの、生徒たちの前に姿を見せることはなかった。ホオヅキから新たな指令が伝えられることもなく、ひたすら舞人になるための修練に励む日々を送っていた。
そしてもう一つ、日常の一部になったことといえば――。
その日、セナは買い出しに出ていた。班の持ち回りで市場に出る。
米俵や大鍋などの手に余る物は商人が謡舞寮まで届けに来るが、塩や油、針糸や櫛などの日用品や消耗品は自分たちで調達しなければならない。
今では洗濯も掃除も薪割りも、生活のすべてを自分たちで行っていた。
京の都には、国が管理する二つの大きな市場がある。
東市と西市である。半月ごとに交替で開かれていて、それぞれ市司という役所が監督している。この二つの市場は検非違使(警察にあたる)が治安の維持を行っている。
しかし、セナはそのどちらにも行かず、同じ班の静乃たちと離れて別の市場に向かった。そこは東西の市場の中間にある『錦小路』の市場である。
ここでは、東西の市場であまり売られない刀剣や甲冑などがひそかに売られていた。そのぶん怪しげな露天商も多く、治安はけっして良くはない。
そのため、謡舞寮の他の生徒たちは近づけない。
「セナ――」
錦小路を歩くセナを呼び止める少年の声。
「……シュウジン」
あの夜、セナの帝暗殺を止めた大学寮の見習い傀儡師シュウジンだった。シュウジンは木偶人形を糸で操り、セナに向かっておどけた挨拶をしてみせる。
「これ、あげる」
シュウジンは懐からお菓子を取り出した。薄く伸ばした餅の中に、季節の果物を挟んだものである。二人は市場の片隅で並んで食べた。
新たな日常とは、二人きりの会話だった。
「このごろはどう?」
「悪くない。みんな上達してる」
「ははっ、違うよ。暗殺のほうさ」
「あ……」
セナは虚を衝かれた。謡舞寮での暮らしが任務を忘れさせている。一人前の舞人になることは暗殺に必要だ。だから忘れているわけではない――なのに。
「東国から一人の武者が帰って来た。その名は水野実真」
シュウジンはよくわからないことを言った。
「それが何?」
「水野様は東国の乱を鎮めるために何年も都を空けていてね、それが昨日帰って来たんだ。帝は水野様をもてなすために、舞人を集めて酒宴を開く」
「舞人を……?」
何となくシュウジンの言いたいことがわかってきた。シュウジンはこうしていつも暗殺のことを思い出させてくれる。二人で話すようになった今も、シュウジンが何を考えているのかセナにはつかめないでいた。
「近々、御堂晴隆様のお屋敷でそれが行われるらしい」
「御堂晴隆?」
「西国武士の棟梁さ。十年以上前、今の帝がその座に就くために、敵対した弟皇子と戦った――通称『永現の乱』――その勝利の功績が認められて、帝のそばに仕えるようになった。事実上、日ノ本を支配していると言ってもいい」
セナは眉間に皺を寄せる。鬼童丸の話では、帝は恐怖でこの日ノ本を支配しているということだったが――。
「日ノ本を支配しているのは帝……じゃないの?」
「間違いじゃない。でも、帝一人で政治をやるわけではないからね。御堂様はいわば帝の頭脳。だからこそ、お屋敷で酒宴も開く……」
「そう……どうしてシュウジンがそれを?」
「大学寮は優秀な人たちの集まりだからね。それこそ貴族の子供や兄弟もたくさんいるんだ。噂話は売るほどあるよ」
「じゃあ、シュウジンは?」
「僕はみなしごさ。ただの傀儡師見習いだよ」
シュウジンはやさしげに眼を細めて微笑んだ。
だが、セナにはどこか寂しげに感じた。
※
シュウジンの言ったとおり、御堂晴隆の邸宅で酒宴が開かれる。
修練の広間にて筆頭女官・望月の口からそれがみなに伝えられた。
「右大臣ならびに近衛大将・御堂晴隆様のお屋敷には幾人か連れて行く」
生徒たちはざわついた。それもそのはず、生徒の身分で雲上人の屋敷に赴くなどまず考えられない。
雲上人とは、帝の住まいである清涼殿に昇殿することが許された高貴な身分である。この京の都の中でも数えるほどしかいない。
「なあ、右大臣で近衛大将ってどんだけすごいんだ?」
りつが隣のセナに耳打ちする。
「近衛大将って……何?」
セナはサギリに耳打ちする。
「近衛大将って言ったらアレよ、近衛の大将よ」
「じゃあ右大臣は?」
「右の……大臣」
セナもりつも目を細めた呆れ顔でサギリを見た。
「な、何よ……」
「いや、別に。お前ってスゴイよな。たまに感心するよ」
りつの言葉にセナも頷く。すかさず静乃が補足する。
「近衛大将っていうのはね、武官の頂点に立つ人よ。宮中の警固を司る役職だから、ただ偉くてもなれないし、ただ強くてもなれないの」
「じゃあ、日ノ本一の武士ってことか?」と、りつ。
「この国は広いからそれはわからないけど、少なくとも京の都でもっとも武力を持ったお方なのは間違いない」
「西国武士の棟梁……」セナは言った。
「よく知ってるね、セナ。その通りよ」
「何でアンタが知ってんのよ」
セナはサギリの追及の視線をさらりとかわす。シュウジンに聞いたとは言えなかった。シュウジンと出会った経緯など話せるわけがない。
それにしても、帝を暗殺するためには随身の蛾王を突破しなければならないのに、さらに強敵がいようとは。ますます帝との距離を感じてしまう。
はたして、本当に帝を暗殺出来るのか。セナの胸で不安が渦を巻く。
と、そこに弓御前が現れた。望月は自分の場を譲った。
「御堂様のお屋敷には、静乃、セナ――お前たちを連れてゆきます」
生徒たちの視線がいっせいに注がれる。これは納得の人選だった。生徒たちもこの二人の実力が抜きん出ていることは理解している。
「それから、あと二名であるが……」
りつとサギリは示し合わせたわけでもないのに、互いの眼を見て頷いた。
「あたしに行かせてください!」
「わ、わたしも行きます!」
声を張って立ち上った二人に、望月の鋭い視線が向けられる。
「理由を述べよ。美味なる食事にありつけるとは言うまいな」
「学べるからです!」
りつの返答は早かった。すかさずサギリも続く。
「高貴な方のお屋敷なら……い、一流の舞人が集まるはずで……だからその、一流の舞を見て学べるかなぁ……っていう感じです!」
ふむ、と望月は言葉を呑み込み、いかがしますか、と弓御前に問う。
「よいでしょう。謡舞寮の理念は心。此度はその意気を買いましょう」
それから、と弓御前は付け加える。
「酒宴には帝もお見えになる……心せよ」
弓御前はそれだけ言って、望月と共に音もなくその場を去った。
修練の広間は、氷の矢を打ち込まれたように冷え切っていた。
帝が来る。ヘタに機嫌を損ねれば都から追放どころか、命さえ危ういかもしれない。
生徒たちの中には、自分が選ばれなくてホッとする者や、勢いで志願しなくて正解だったと胸を撫で下ろす者がいた。
りつとサギリは顔を合わせ、自分たちの行動が間違いでないと暗示をかけるように何度も何度も頷き合う。が、目は泳ぎがちで唇も小刻みに震えていたが。
セナもまた、思惑の中にいた。恐怖ではない。
ふたたび、帝を暗殺できる絶好の機会が訪れた――その重圧だった。
「セナ……大丈夫?」
静乃がポンッと肩に手を置く。
「ああ、うん。静乃は?」
「平気――ううん、うそ!」
静乃はセナの手を取って自分の胸に当てた。強い鼓動が手のひらを打つ。
「もしかしたら、帝の前で舞を披露出来るかもしれない……そう思ったら」
静乃は緊張した面持ちで、しかし瞳の奥は期待で輝いていた。
この目だ――セナはそう思った。
自分の命を日々一瞬に賭けている。目の前に転がって来た好機を掴むために、毎日の修練を全力でやり抜いて来た人間の目だ。りつもサギリも、自分の意思で謡舞寮に来て、今、勇気を出して手を挙げた。
でも、自分は違う。セナは俯く。自分にこの目は持ち得ない。舞は暗殺の手段だ。それ以上でも以下でもない。そもそも、舞を始めたのも鬼童丸の命令だ。
すべては妖怪を殺すため。そう、そのためだけに――。
その夜、りつが寝静まったのを見計らって、セナは部屋を出た。
敷地の隅にある井戸まで衛士の目を忍んで向かうと、塀の外に向かって小石を投げた。すると外から小石が返ってくる。
セナは身をかがめて塀に背を向けてはり付いた。
「三日後に、近衛大将の屋敷で酒宴が開かれる」
「三日後か。御堂晴隆だな。大物のお出ましだ」
その声はホオヅキだった。定期連絡である。
「酒宴には帝も来る。どうする?」
「それなんだがな、お頭から新たな命令だ――帝は殺すな」
セナは耳を疑った。
「どういうこと? 妖怪を殺せば国が良くなるんじゃ」
「疑問は挟むな。技が鈍る。それから――水野実真を守れ」
「水野を……」
セナは疑問を呑み込んだ。
「それでいい。お前は命令だけを忠実に守っていればいいんだ」
「ホオヅキ」
「何だ?」
「……何でもない」
「いいか、セナ。お前は本当ならガキの時に死んでいた。ここでの暮らしはまやかしなんだ。お前は生きているが、死んでもいる。忘れるな」
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