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愛宕の黒猫
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天
私は空を飛べるはずだった。
翼なんてないのに、たしかにそう信じていたのだ。
風に乗り、白い雲のすきまを抜けて、遠い海の向こうの知らない街まで。
そこで私は舞い続ける。愛しいあの人を想いながら。
ああ、迦陵頻――私はあなたに――。
『愛宕の黒猫』
大地が震えた。
遠くで砂煙が立ち上り、巨大な黒い塊が地を這うように迫ってくる。臓腑にまで届く地響きが止み、風が吹いた。
砂塵が晴れると馬に乗った男の姿があらわになった。
鷹のように眼光鋭く、精悍な顔立ちである。狼の毛皮を身にまとい、身幅の広い太刀を肩に担いでいる。
特に目立つのが、束ね上げた髪に何本もの黒い笄(二十センチほどの細いナイフ状のくし)を挿したその出で立ちだった。
背後には数多くの手下たち。その人影が黒い塊に見えたのだ。
男は不敵に笑い、馬上で声高に叫んだ。
「俺の名は鬼童丸! 今日からここは黒鬼党の縄張りだ!」
鷹の目の男――鬼童丸は、馬上で太刀をすらりと抜き放った。
「やれッ!」
号令とともに、手下たちが雄叫びあげて駆けだした。その手には太刀、鉈、まさかりなど、思い思いの武器を持っている。
彼らの標的は平和な村――ではなく、村を襲っていた別の盗賊団である。
盗賊たちが家屋を打ち壊し、馬と女をさらい、それを守るべく刃向った村の男たちを一刀のもとに斬り殺そうとしたところで、黒い一団はあらわれた。
「き、鬼童丸だと……何でここに」
盗賊たちは鬼童丸の名前に怯え、散り散りに逃げだした。が、馬に乗った鬼童丸の手下たちに囲まれ、盗賊団の首領を含めた全員が武器を捨てた。
「た、頼む……! 命だけは助けてくれ!」
馬上の鬼童丸の眼下で、首領は額を地面にこすりつける。
「ヒザ、どう思う?」
鬼童丸は、樫の杖をついた歯抜けの老人に声をかけた。
このヒザという男、鬼童丸の腹心として長く仕えている。身長は低く、相貌も醜く、背中も曲がっていて、右足の膝から先がない。
「所詮この世は力と金。生き延びたければ我らと戦うか、命に見合う金を差し出すか……でしょうなぁ」
「だ、そうだ。どうする?」
首領は懐からありったけの金品を地面に並べた。ついさっき村で奪った物も含まれている。
鬼童丸は馬上でそれら眺める。
「これで全部か?」
「あ、ああ……」
「じゃあ死ね」
「ま、待て! 根城に戻れば山ほどある。同じ鬼のよしみじゃねえか。な?」
鬼童丸は、ふん、と鼻から短く息を吐いた。
「残念だが、お前の根城はなくなった。大事な大事な青磁の壷もな」
「え、どうしてそれを……まさか!」
「お前の命に価値はねえな?」
「くっ……鬼の貴様が、どうして同じ鬼を襲う!」
「ああ? それはだな」
返答を考える鬼童丸の視線が首領から外れた。
「うっ、うおおお!」
首領は好機とばかりに太刀を抜いて鬼童丸に飛び掛かった。
その瞬間、首領のノドから短刀が生えた――ように見えた。
何者かが首領の背後から短刀を投げ、鋭い切っ先でノドを貫いたのだ。
鮮血で紅に染まった泡を吹き散らし、首領は転倒した。びゅうびゅうと濁った呼吸でひっくり返った亀のようにもがいている。
「コッチのほうが稼げるからだ――って、もう聴こえてねえか」
首領は自らの血の池に溺れ、ゆっくり息絶えた。
「腕を上げたな、セナ」
鬼童丸が視線を送った先にいたのは一人の少女である。
短刀を放ったのも誰あろうこの少女――セナだった。
吸い込まれそうなほど黒い瞳に黒い髪、そして黒い衣をまとい、顔は土埃で黒くすすけて汚れている。裸足の裏も真っ黒である。
その様子から、彼女はいつしかこう呼ばれていた。
「愛宕の黒猫……名に恥じねえ働きだ」
鬼童丸は、散々に打ちのめされた村人たちに向き直る。
「見ての通りだ! 俺たち黒鬼党がこの村を守ってやる。そのかわり、お前らの命に見合うモノを差し出せ! いいか!」
村人たちは複雑な表情を浮かべ、頭を垂れた。
命を脅かす暴力を打ち砕いたのは、さらに大きな暴力だった。
※
京の都が眼下に広がる愛宕山。前鬼、後鬼という二匹の夫婦鬼を従えた伝説の修験者が、神社を創建したのも数百年前のこと。
今はすっかり荒れ果てて、いつしか一匹の強大な悪鬼が支配する山となった。
悪鬼は周辺の鬼たちを従え、村々をも支配した。
その名を『愛宕の黒鬼』――。
鬼童丸を恐れた人々が、髪の毛に挿した何本もの黒い笄を角に見立てて彼に付けた異名である。
黒鬼は、むやみに人を殺さない。他の盗賊たちと違って略奪もしない。
ただ淡々と、粛々と、支配をする。
黒鬼がその手を血で汚す時。それは力を示す時である。あまりに凄惨な光景を目の当たりにした人々から、百鬼の王――と呼ばれることもあった。
そんな黒鬼のかたわらには、いつも一人の少女がいた。
黒鬼の影にひそみ、漆黒の隙間から敵の命を狙う。鋭い一撃は人間の肉を絹のように引き裂く獣の爪。寒々しいほどの静寂をまとい、笑わず、話さず、ほのかに殺気を漂わせている。
ただただ黒鬼の命を守り、その命令にのみ従う忠実なしもべだった。
黒猫には、殺しの他にも一つだけ特技があった――。
遠征を終えて、鬼童丸たちは愛宕山の根城に帰って来た。
他の盗賊から奪った財宝と、支配した村から納められた食料を並べ、戦利品を酒の肴に大宴会がもよおされる。
盗賊たちのどんちゃん騒ぎ。裸踊りに殺しの真似事、だみ声混じりのヘタクソ唱歌。肩を組み、ひっくり返って、ゲラゲラ笑う男たち。
鬼童丸はそんな様子を静かに眺め、ゆっくり酒杯をかたむける。
「こたびも良い収穫でございました。あの連中、ずっと見られていたとはつゆにも思ってませなんだ」
酒杯を片手にヒザが言った。歯抜けの間から酒を流し込む。
「セナの諜者(スパイのこと)ぶりには、天神様でも気づきませぬ」
「ああ……ありゃあ天賦の才だ」
「そろそろ頃合いでは?」
「そう思うか? お前も」
「もう春は目の前」
鬼童丸は酒をグッと飲み干すと、腰巻に差していた篠笛を手に取った。
「おい、セナ! ひと差し見せてやれ」
根城の広間の片隅で、置き物のように両膝を抱えていたセナは、サッと立ち上がった。すると手下たちはいっせいに沸いた。手を叩いてはやし立てる。ピーピーと指笛が鳴る。
「よっ! 黒猫の舞! 待ってました!」
「大将! 絶世の音色を聞かせてくだせえ!」
鬼童丸が篠笛に息を吹き込むと、歓声がピタッとおさまった。
絹糸のような始まりの音が、しだいに張り詰めて鋼鉄の糸になる。その変化に合わせるように、セナは這うような姿勢のまま、加速度的に躍り出た。
黒い風が吹いた。すると、次の瞬間には渦を巻く。
かがり火に照らされてもなお純粋な漆黒のかたまりが、人々の視線をかいくぐるように予測不能の拍子で飛び跳ねる。
セナは鞠のように地面から足を離し、時おり黒衣の隙間から覗く白い太ももや二の腕が、キラリと輝いて見える。
笛の調子が雷のようにギザギザになった。
セナの舞がそれに合わせて激しさを増した。
ヒザが抜き身の短刀を高く放り投げる。くるくる回転しながら放物線を描いた短刀を、セナは高く跳ねて素手でつかみ、すぐさま刃をくわえた。
舞はさらに変化し、剣舞になった。柳のように柔らかく躍動する肢体に見惚れていると次の瞬間には目の前に現れる。そして、鋭い切っ先を突き付けられ、黒い瞳の放つ冷たい殺気に『今、殺された』――と感じる。
何度も見ているはずの手下たちでさえ、見るたびにいっそうゾッとした。
しかし、なぜだか目が離せない。魅了されてたまらない。
背筋がゾクゾクする感覚に痺れ、思わず唾を飲み込む。
鬼童丸が笛から唇を離した。
セナはパタッと舞を止め、何事もなかったかのように広間の隅に戻って、また両膝を抱えて置き物になった。
はたと我に返った手下たちは、少し遅れてまた沸いた。
鬼童丸とヒザは目を合わせ、互いに頷き合った。
翌日、鬼童丸の居室にセナは呼ばれた。戸を開けて中に入るとヒザもいた。
鬼童丸は巨大なヒグマの毛皮の上に座り、片膝を立てていた。
「おう、座れ」
セナは鬼童丸の正面で膝を折った。うつむき加減に視線を下げる。
いつもこのようにして命令を受ける。標的の盗賊団の根城や、その数、その狙いなどの情報を集めて、鬼童丸に報告するのである。時には夜闇にまぎれ、獣の皮をかぶり、盗み、騙し、誘い、そして、殺した。
「お前、ここに来て何年だ?」
「数えてない」セナはぼそりと答える。
「幼いお前を拾って九、十……いやもっと多く冬を越したな。お前も大きくなった。胸もすっかりふくらんだな?」
「……うん」
いつもと雰囲気が違う。セナは気付いていた。
「俺はお前に、舞と殺しの両方を教えた。何のためかわかるか?」
「鬼童丸のため」
「違うな」
「……?」
「今、この日ノ本を支配しているのは誰だ?」
セナは小さく首を振った。わからない。殺し以外のことは何も知らない。この世界のことも、何もかも。疑問に思わなかった。不思議と思う感覚も、生まれつき持っていたのか覚えていない。
「日ノ本を支配しているのは、京の都の大内裏に住まう帝だ。この帝ってヤツは今までに何人もいた。だが、今の帝はちょっと違う――『妖怪』だ」
「妖怪……」
「物のたとえだ。だがな、ヤツの恐ろしさに日ノ本は震えあがっている。武士どもはその命令で戦に明け暮れ、村々は干上がった。俺たちの仕事がやりにくくなったのも、ぜんぶ妖怪のせいだ。だから、ヤツをお前に殺してもらう」
鬼童丸はハッキリ言った。セナはゆっくり視線を上げた。
「妖怪を……殺す?」
ヒザ、と鬼童丸は短く言って、後の説明を任せた。
「かの妖怪――時の帝は、若きころから芸事を好んでおってな、昼夜を問わず芸人たちに技を披露させるほどだ。その中でも、特に『舞人』を愛しておる。歌と舞を披露する女人のことだ。わかるな?」
セナは目で頷く。
「帝は芸事に没頭するあまり、自分で歌を作るどころか、舞人を育てるための学び舎を作ってしまった。それが『謡舞寮』だ」
「謡舞寮……」
「謡舞寮では毎年の春、国中の娘たちが集う。それも歌舞の才能ありと帝の遣いに見込まれた者や、我こそはと志願する者。生まれも育ちも関係なくだ。みごと謡舞寮に入門し、舞人になることが叶えば、帝に近づくことができる」
ヒザの説明が終わり、鬼童丸が言った。
「その謡舞寮に、これから潜入してもらう」
「私が……?」
「そのために今日まで育ててきた。セナ、お前の舞はかなりのもんだ。舞人になって妖怪を殺して来い――いいな?」
「――わかった」
セナは疑問を抱かなかった。これが自分に与えられた使命だ。命令どおり謡舞寮に入門し、舞人となり、帝を殺す。それだけだ――。
それからしばらく経ち、いよいよ出立の朝。
湯で身を清め、新しい黒の衣に身を包み、長く伸びた髪の毛にも櫛を通した。まだ香りの残る新しい草鞋に足を入れると慣れない感触に戸惑った。
ヒザから路銀の入ったなめし革の巾着を渡された。
「それから、コレも持って行け」
鬼童丸は束ねた髪から、黒鬼の象徴でもある黒い笄を一本抜いた。
手のひらと同じ長さ。先端が鋭くとがり、身の部分も小刀さながらに砥いでいる。持ち手には蝶をかたどった彫刻が施されていて、とても美しい。
「髪を整えろってワケじゃねえ。コレなら謡舞寮に持ち込める」
セナは気付いた。コレは妖怪を殺すための武器だ。
「どういうモノかわかっているな?」
「蠱毒の武器……」
蠱毒――蛇を含めたすべての毒虫を一つの壺に入れ、生き残った毒虫をさらに集めて殺し合わせ、最後に残った虫から取り出した最強の毒である。
普通は武器に塗って使う。かすり傷だけで相手は地獄の苦しみに襲われ、三日三晩悪夢にうなされたあと、この世でもっとも大きな痛みが訪れ、死ぬ。
黒い笄は、鉄を鍛える時に蠱毒を使用している。毒虫、毒茸、毒草などあらゆる毒を燃やした黒い炎で熱し、蠱毒を混ぜた黒い水で冷却する。そうして何度も何度も叩いて鍛え、刃そのものが毒と化した武器がこれだった。
蠱毒の武器を鍛えた鍛冶師の身体は毒に蝕まれ、長くない命を終える。
セナはあらためてこの使命の重さを感じた。毒の知識は鬼童丸からひと通り教わった。だが、使ったことは一度もない。その必要がなかったからだ。
つまり、失敗は許されない――ということ。
「肌身離さず持っておけ。指なんて切るんじゃねえぞ」
「うん」
セナは黒い笄を髪に挿し、鬼童丸に向かって頭を下げる。
京の都を眼下に望む愛宕山。緑が芽吹き、風薫るころ。
この日、一匹の『黒猫』が山を下りた。
私は空を飛べるはずだった。
翼なんてないのに、たしかにそう信じていたのだ。
風に乗り、白い雲のすきまを抜けて、遠い海の向こうの知らない街まで。
そこで私は舞い続ける。愛しいあの人を想いながら。
ああ、迦陵頻――私はあなたに――。
『愛宕の黒猫』
大地が震えた。
遠くで砂煙が立ち上り、巨大な黒い塊が地を這うように迫ってくる。臓腑にまで届く地響きが止み、風が吹いた。
砂塵が晴れると馬に乗った男の姿があらわになった。
鷹のように眼光鋭く、精悍な顔立ちである。狼の毛皮を身にまとい、身幅の広い太刀を肩に担いでいる。
特に目立つのが、束ね上げた髪に何本もの黒い笄(二十センチほどの細いナイフ状のくし)を挿したその出で立ちだった。
背後には数多くの手下たち。その人影が黒い塊に見えたのだ。
男は不敵に笑い、馬上で声高に叫んだ。
「俺の名は鬼童丸! 今日からここは黒鬼党の縄張りだ!」
鷹の目の男――鬼童丸は、馬上で太刀をすらりと抜き放った。
「やれッ!」
号令とともに、手下たちが雄叫びあげて駆けだした。その手には太刀、鉈、まさかりなど、思い思いの武器を持っている。
彼らの標的は平和な村――ではなく、村を襲っていた別の盗賊団である。
盗賊たちが家屋を打ち壊し、馬と女をさらい、それを守るべく刃向った村の男たちを一刀のもとに斬り殺そうとしたところで、黒い一団はあらわれた。
「き、鬼童丸だと……何でここに」
盗賊たちは鬼童丸の名前に怯え、散り散りに逃げだした。が、馬に乗った鬼童丸の手下たちに囲まれ、盗賊団の首領を含めた全員が武器を捨てた。
「た、頼む……! 命だけは助けてくれ!」
馬上の鬼童丸の眼下で、首領は額を地面にこすりつける。
「ヒザ、どう思う?」
鬼童丸は、樫の杖をついた歯抜けの老人に声をかけた。
このヒザという男、鬼童丸の腹心として長く仕えている。身長は低く、相貌も醜く、背中も曲がっていて、右足の膝から先がない。
「所詮この世は力と金。生き延びたければ我らと戦うか、命に見合う金を差し出すか……でしょうなぁ」
「だ、そうだ。どうする?」
首領は懐からありったけの金品を地面に並べた。ついさっき村で奪った物も含まれている。
鬼童丸は馬上でそれら眺める。
「これで全部か?」
「あ、ああ……」
「じゃあ死ね」
「ま、待て! 根城に戻れば山ほどある。同じ鬼のよしみじゃねえか。な?」
鬼童丸は、ふん、と鼻から短く息を吐いた。
「残念だが、お前の根城はなくなった。大事な大事な青磁の壷もな」
「え、どうしてそれを……まさか!」
「お前の命に価値はねえな?」
「くっ……鬼の貴様が、どうして同じ鬼を襲う!」
「ああ? それはだな」
返答を考える鬼童丸の視線が首領から外れた。
「うっ、うおおお!」
首領は好機とばかりに太刀を抜いて鬼童丸に飛び掛かった。
その瞬間、首領のノドから短刀が生えた――ように見えた。
何者かが首領の背後から短刀を投げ、鋭い切っ先でノドを貫いたのだ。
鮮血で紅に染まった泡を吹き散らし、首領は転倒した。びゅうびゅうと濁った呼吸でひっくり返った亀のようにもがいている。
「コッチのほうが稼げるからだ――って、もう聴こえてねえか」
首領は自らの血の池に溺れ、ゆっくり息絶えた。
「腕を上げたな、セナ」
鬼童丸が視線を送った先にいたのは一人の少女である。
短刀を放ったのも誰あろうこの少女――セナだった。
吸い込まれそうなほど黒い瞳に黒い髪、そして黒い衣をまとい、顔は土埃で黒くすすけて汚れている。裸足の裏も真っ黒である。
その様子から、彼女はいつしかこう呼ばれていた。
「愛宕の黒猫……名に恥じねえ働きだ」
鬼童丸は、散々に打ちのめされた村人たちに向き直る。
「見ての通りだ! 俺たち黒鬼党がこの村を守ってやる。そのかわり、お前らの命に見合うモノを差し出せ! いいか!」
村人たちは複雑な表情を浮かべ、頭を垂れた。
命を脅かす暴力を打ち砕いたのは、さらに大きな暴力だった。
※
京の都が眼下に広がる愛宕山。前鬼、後鬼という二匹の夫婦鬼を従えた伝説の修験者が、神社を創建したのも数百年前のこと。
今はすっかり荒れ果てて、いつしか一匹の強大な悪鬼が支配する山となった。
悪鬼は周辺の鬼たちを従え、村々をも支配した。
その名を『愛宕の黒鬼』――。
鬼童丸を恐れた人々が、髪の毛に挿した何本もの黒い笄を角に見立てて彼に付けた異名である。
黒鬼は、むやみに人を殺さない。他の盗賊たちと違って略奪もしない。
ただ淡々と、粛々と、支配をする。
黒鬼がその手を血で汚す時。それは力を示す時である。あまりに凄惨な光景を目の当たりにした人々から、百鬼の王――と呼ばれることもあった。
そんな黒鬼のかたわらには、いつも一人の少女がいた。
黒鬼の影にひそみ、漆黒の隙間から敵の命を狙う。鋭い一撃は人間の肉を絹のように引き裂く獣の爪。寒々しいほどの静寂をまとい、笑わず、話さず、ほのかに殺気を漂わせている。
ただただ黒鬼の命を守り、その命令にのみ従う忠実なしもべだった。
黒猫には、殺しの他にも一つだけ特技があった――。
遠征を終えて、鬼童丸たちは愛宕山の根城に帰って来た。
他の盗賊から奪った財宝と、支配した村から納められた食料を並べ、戦利品を酒の肴に大宴会がもよおされる。
盗賊たちのどんちゃん騒ぎ。裸踊りに殺しの真似事、だみ声混じりのヘタクソ唱歌。肩を組み、ひっくり返って、ゲラゲラ笑う男たち。
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「こたびも良い収穫でございました。あの連中、ずっと見られていたとはつゆにも思ってませなんだ」
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「セナの諜者(スパイのこと)ぶりには、天神様でも気づきませぬ」
「ああ……ありゃあ天賦の才だ」
「そろそろ頃合いでは?」
「そう思うか? お前も」
「もう春は目の前」
鬼童丸は酒をグッと飲み干すと、腰巻に差していた篠笛を手に取った。
「おい、セナ! ひと差し見せてやれ」
根城の広間の片隅で、置き物のように両膝を抱えていたセナは、サッと立ち上がった。すると手下たちはいっせいに沸いた。手を叩いてはやし立てる。ピーピーと指笛が鳴る。
「よっ! 黒猫の舞! 待ってました!」
「大将! 絶世の音色を聞かせてくだせえ!」
鬼童丸が篠笛に息を吹き込むと、歓声がピタッとおさまった。
絹糸のような始まりの音が、しだいに張り詰めて鋼鉄の糸になる。その変化に合わせるように、セナは這うような姿勢のまま、加速度的に躍り出た。
黒い風が吹いた。すると、次の瞬間には渦を巻く。
かがり火に照らされてもなお純粋な漆黒のかたまりが、人々の視線をかいくぐるように予測不能の拍子で飛び跳ねる。
セナは鞠のように地面から足を離し、時おり黒衣の隙間から覗く白い太ももや二の腕が、キラリと輝いて見える。
笛の調子が雷のようにギザギザになった。
セナの舞がそれに合わせて激しさを増した。
ヒザが抜き身の短刀を高く放り投げる。くるくる回転しながら放物線を描いた短刀を、セナは高く跳ねて素手でつかみ、すぐさま刃をくわえた。
舞はさらに変化し、剣舞になった。柳のように柔らかく躍動する肢体に見惚れていると次の瞬間には目の前に現れる。そして、鋭い切っ先を突き付けられ、黒い瞳の放つ冷たい殺気に『今、殺された』――と感じる。
何度も見ているはずの手下たちでさえ、見るたびにいっそうゾッとした。
しかし、なぜだか目が離せない。魅了されてたまらない。
背筋がゾクゾクする感覚に痺れ、思わず唾を飲み込む。
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セナはパタッと舞を止め、何事もなかったかのように広間の隅に戻って、また両膝を抱えて置き物になった。
はたと我に返った手下たちは、少し遅れてまた沸いた。
鬼童丸とヒザは目を合わせ、互いに頷き合った。
翌日、鬼童丸の居室にセナは呼ばれた。戸を開けて中に入るとヒザもいた。
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「おう、座れ」
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「……うん」
いつもと雰囲気が違う。セナは気付いていた。
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「違うな」
「……?」
「今、この日ノ本を支配しているのは誰だ?」
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「妖怪……」
「物のたとえだ。だがな、ヤツの恐ろしさに日ノ本は震えあがっている。武士どもはその命令で戦に明け暮れ、村々は干上がった。俺たちの仕事がやりにくくなったのも、ぜんぶ妖怪のせいだ。だから、ヤツをお前に殺してもらう」
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「妖怪を……殺す?」
ヒザ、と鬼童丸は短く言って、後の説明を任せた。
「かの妖怪――時の帝は、若きころから芸事を好んでおってな、昼夜を問わず芸人たちに技を披露させるほどだ。その中でも、特に『舞人』を愛しておる。歌と舞を披露する女人のことだ。わかるな?」
セナは目で頷く。
「帝は芸事に没頭するあまり、自分で歌を作るどころか、舞人を育てるための学び舎を作ってしまった。それが『謡舞寮』だ」
「謡舞寮……」
「謡舞寮では毎年の春、国中の娘たちが集う。それも歌舞の才能ありと帝の遣いに見込まれた者や、我こそはと志願する者。生まれも育ちも関係なくだ。みごと謡舞寮に入門し、舞人になることが叶えば、帝に近づくことができる」
ヒザの説明が終わり、鬼童丸が言った。
「その謡舞寮に、これから潜入してもらう」
「私が……?」
「そのために今日まで育ててきた。セナ、お前の舞はかなりのもんだ。舞人になって妖怪を殺して来い――いいな?」
「――わかった」
セナは疑問を抱かなかった。これが自分に与えられた使命だ。命令どおり謡舞寮に入門し、舞人となり、帝を殺す。それだけだ――。
それからしばらく経ち、いよいよ出立の朝。
湯で身を清め、新しい黒の衣に身を包み、長く伸びた髪の毛にも櫛を通した。まだ香りの残る新しい草鞋に足を入れると慣れない感触に戸惑った。
ヒザから路銀の入ったなめし革の巾着を渡された。
「それから、コレも持って行け」
鬼童丸は束ねた髪から、黒鬼の象徴でもある黒い笄を一本抜いた。
手のひらと同じ長さ。先端が鋭くとがり、身の部分も小刀さながらに砥いでいる。持ち手には蝶をかたどった彫刻が施されていて、とても美しい。
「髪を整えろってワケじゃねえ。コレなら謡舞寮に持ち込める」
セナは気付いた。コレは妖怪を殺すための武器だ。
「どういうモノかわかっているな?」
「蠱毒の武器……」
蠱毒――蛇を含めたすべての毒虫を一つの壺に入れ、生き残った毒虫をさらに集めて殺し合わせ、最後に残った虫から取り出した最強の毒である。
普通は武器に塗って使う。かすり傷だけで相手は地獄の苦しみに襲われ、三日三晩悪夢にうなされたあと、この世でもっとも大きな痛みが訪れ、死ぬ。
黒い笄は、鉄を鍛える時に蠱毒を使用している。毒虫、毒茸、毒草などあらゆる毒を燃やした黒い炎で熱し、蠱毒を混ぜた黒い水で冷却する。そうして何度も何度も叩いて鍛え、刃そのものが毒と化した武器がこれだった。
蠱毒の武器を鍛えた鍛冶師の身体は毒に蝕まれ、長くない命を終える。
セナはあらためてこの使命の重さを感じた。毒の知識は鬼童丸からひと通り教わった。だが、使ったことは一度もない。その必要がなかったからだ。
つまり、失敗は許されない――ということ。
「肌身離さず持っておけ。指なんて切るんじゃねえぞ」
「うん」
セナは黒い笄を髪に挿し、鬼童丸に向かって頭を下げる。
京の都を眼下に望む愛宕山。緑が芽吹き、風薫るころ。
この日、一匹の『黒猫』が山を下りた。
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御所では、信頼出来る御付きの女官・勾当内侍、帝の中宮・藤壺の宮と出会い、次第に、女性だらけの後宮生活に慣れて行った。ところがそのうち、中宮付きの乳母・藤小路から様々な嫌がらせを受けるなど、徐々に波乱な後宮生活を迎える事になって行く。
※ずいぶん前に書いた小説です。稚拙な文章で申し訳ございませんが、初心の頃を忘れないために修正を加えるつもりも無いことをご了承ください。
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【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
加藤虎之助(後の清正、15歳)、姉さん女房をもらいました!
野松 彦秋
歴史・時代
加藤虎之助15歳、山崎シノ17歳
一族の出世頭、又従弟秀吉に翻弄(祝福?)されながら、
二人は夫婦としてやっていけるのか、身分が違う二人が真の夫婦になるまでの物語。
若い虎之助とシノの新婚生活を温かく包む羽柴家の人々。しかし身分違いの二人の祝言が、織田信長の耳に入り、まさかの展開に。少年加藤虎之助が加藤清正になるまでのモノカタリである。
霜降に紅く
小曽根 委論(おぞね いろん)
歴史・時代
常陸国に仕える仲田家の次男坊宗兵衛は、殺された父親の仇を探す放浪の旅に出ていた。ある日宗兵衛は、仇討ちを恐れる者が多数逃げ込むと言われている、その名も『仇討山』の存在を知り、足を運ぶ。そこで出会った虚無僧・宮浦から情報を聞き出そうとする宗兵衛。果たして彼は宿敵を討ち果たすことが出来るのか。
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葉桜よ、もう一度 【完結】
五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。
謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。
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