小説 祇園精舎の鐘の声

積 緋露雪

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十六

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倉井大輔はプログラミングが愉しくて仕方がなかったのである。例へばある回答を導き出すのにプログラミングは一通りではなく、何通りものプログラムが存在し、それはプログラミングを組む人の数だけ回答が存在するともいへるのであった。それが倉井大輔の論理好きの性質を擽り、倉井大輔がプログラミングの論理から離れられぬ理由の一つでもあった。
 プログラミングは徹底的に論理的である。その論理の一カ所でも間違へれば組んだプログラムは暴走するか、異常終了するか、得たい回答を得ることは不可能なのであった。それ厳格さが倉井大輔を魅了して已まぬのである。論理的に破綻してゐなければコンピュータはどんな論理も受け容れる。その点でプログラムを組むことはとても寛容なのであったが、一カ所でも論理が破綻してゐれば、その不寛容さは厳格極まりない。論理を組む綱渡り感が倉井大輔をしてプログラミングにのめり込ませたのであらう。だからといってそれで倉井大輔は社会の何たるかが解るとも思へず、唯、コンピュータによる文明の統制は綱渡りの論理で成り立ってゐるのではないかとは思へた。論理が論理で厳格に接合されたシステムは複雑怪奇なものになるかもしれぬが、しかし、其処に遊びが全くないので、一度一カ所でも論理破壊が起きるとシステム全体が正常に動かなくなり、システム障害が起きて社会は混乱を来すのである。其処で、サブシステムを構築してゐるのであるが、それは緊急時以外に使用されることがなく、概してサブシステムにはバグが含まれてゐることが多く、緊急時に作動しないこと屡屡であった。
 それでも文明は驀進することを已めぬ。それは何故なのか。文明の驀進から振り落とされる人は数多ゐるといふのにそんなものには全く目もくれず、文明の驀進は已むことがない。それは何故なのか。其処に人間といふものの有様の秘訣が隠匿されてゐると倉井大輔には思へるのであった。倉井大輔が思ふにプログラミングの論理が人間の欲望ととても親和性があり、ジル・ドゥルーズではないが、欲望機械と化した社会システムは、人間の底無しの欲望をコンピュータは受け止めてしまふところに文明の驀進の留まるところを知らぬことで人権の蹂躙がいとも簡単に行われるにも拘はらず、目まぐるしい速さで文明の驀進は已まぬのであらう。しかし、それでは倉井大輔は納得できぬのである。欲望機械の片棒を担ぐ厳格極まりないプログラムを組むといふ論理の世界が社会を支配する中で、不合理は一瞬でも目を潰れるといふ人間の存在論にも通じる深いところでの甘えの構造があるのではないかと倉井大輔は思ふのである。不合理からの逃避は実に居心地がいい筈に違ひなく、それを体現する途轍もなく論理的なプログラムで組み上げられた社会システムは、その中では不合理から解放され、飽くなき欲望を追求できる素地が整へられるといふ、つまり、人間のご都合主義の極みが高度情報化社会の真相なのではないかと倉井大輔は思ふのであった。
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