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#4

怪物を倒すもの

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悲鳴が聞こえた。
暗い、暗い闇が見えた。
闇だけが、僕を包んでいた。
寒い。寒くて、体が震えだす。
怪物が、目の前に迫っている。
見たことのない怒りの形相に歪んだ顔を僕に向ける、それは……
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
唇が勝手に動いて、同じ呟きを繰り返す。
あの人は、きっと許してくれない。
だから、僕はずっとここにいる。
逃げられない。
怪物の口が見えた。
恐ろしい鋭い牙がびっしりと並んでいた。
その中でもひときわ大きく鋭い二本の牙が、ぬらぬらと光っている。
それに噛まれたら終わりだ、という知識だけが頭の中に呼び起された。
でも、僕は動けない。
(もし、これが本当の終わりなら、僕はもう、一人ぼっちじゃなくなるかな?)
その時感じていたのは、恐怖の先にある、安息への期待。
涙が、頬を伝っていった。
(これで、許してくれるよね? 母さん)
大きく口を開いた怪物かあさんの牙が、僕の喉めがけて―――

バジリスクに襲われた者の末路は悲惨だ。
すぐに治療をできたなら良いが、全身に回った毒の治療は非常に長く苦痛を伴う。
万が一巣に連れ去られてしまったら、暗い巣穴の中で身動き一つ出来ず、声を上げることも出来ず、同じように連れ去られた人や動物がすぐ近くで生きたまま食われる様を見続けることを強要される。
自分が食われるその時まで。
それは、人の心を壊すには十分すぎる地獄。
(許さない許さない許さないッ!!)
思考がはじけて、頭も体も炎の中に投げ込まれたように熱かった。
(そいつに手を出すことだけは絶対に許さない!!)
燃え盛る怒りだけが体の全てを支配している。
体の動きが遅い。遅すぎる。
もっと速く動けるはずだ。
怒りに焼かれた足が、信じられない瞬発力を生み出す。
重たい体が邪魔だ。
鈍重な自分の体の全てに腹が立ち、全身が怒りに焼かれていくのを感じた。
一瞬。
たった一瞬で、俺はバジリスククソトカゲに追いついて、その横腹を山刀で振り払っていた。
体が、信じられないほど軽い。

それはきっと、いつも見る夢だ。
でもそのときからその夢は、違うものになっていた。
暗い部屋に響く女の人の悲鳴。
僕がベッドで震えていると、ついに姿を現したトカゲの怪物が、とうとう僕を食べようと鋭い牙を持つ口を大きく開く。
僕が食べられちゃうんだって諦めたとき、突然黒い狼さんが現れて、怪物を一発で蹴り飛ばすんだ。
「グェゲェッ!」
泥を絞り出したような、汚い怪物の声。
それが、怪物の本当の声なんだって思った。
狼さんは吹き飛んだ怪物にとどめを刺すと、怪物は四本の足と尻尾をバタバタッと痙攣させて、動かなくなる。
怪物が倒されると、狼さんはゆっくり僕のほうを振り向いた。
(せん、せい……?)
一瞬考えてしまうけど、全然違う。
つやつやとした漆黒の毛並みに、二つの小さなお月様。
その色は、先生の毛並みと目の色と同じだ。
でもその姿は、先生よりずっと力強くて堂々としている。
僕は、その目を見たことがあった。
その毛並みを見たことがあった。
(あなたは、だれ……?)
怪物を倒してしまったあなたは、だれなの?
あなたは、僕を助けてくれるの?
狼さんがゆっくりと近づいてくる。
優しい声。何を言っているのだろう。
優しい目。僕をじっと見つめている。
いつの間にか、あたりは明るくなっていた。
狼さんが包んでくれるから、寒さも感じない。
それは、母さんがくれなかった、せんせいがくれたのと同じ、あたたかさ。
僕はすがるように、そのひとに手をのばしていた。
やわらかいけなみがぼくのてにふれて、ぼくをつつんでくれた。
ぼくは―――

「ハリム! ハリム!」
「あ……」
小さな体を揺すっていると、ぼんやりと虚ろだったハリムの目がやっと俺を捉える。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
「う、うん……」
「そうか」
ハリムの無事を確認すると、俺は感情のままに彼を抱きしめていた。
「良かった。本当に良かった」
彼を危険にさらした己のふがいなさと、彼が無事だったことの安堵と、彼がここにいる喜びと、様々な感情が入り乱れて、自然と涙が溢れる。
腕の中に収まる小さな体温が、何より愛おしい。
こんな感情は初めてだ。
こんな……こんなにも満たされる感情を、俺は知らない。
ずっとこうやってこの子を抱きしめていたいとさえ思えた。
「あ、あの……」
腕の中で、困惑した声が上がる。
ハッと我に返って、俺は彼を解放した。
「す、すまん。苦しかったか?」
「あの、えっと、その……」
「?」
ハリムは俺の顔や体をジロジロ見て、不思議そうな顔をしている。
俺は首を傾げた。
ハリムは他人行儀に一礼し、
「助けていただいて、ありがとうございました」
「? なにを――」
「おーい! 大丈夫かー? 何があったー!」
俺の言葉をさえぎって、教師の声が聞こえてきた。
いまさらの登場に、俺は顔をしかめる。

明るくて、あたたかい場所……?
そんなの当たり前だ。
まだ日も高いし、季節は夏。
あたたかいどころか蒸し暑い森の中にいる。
なんでそんな当たり前のことを今、気がついたんだろう?
半分夢見心地だった僕の目の前に、いつの間にか知らない人が立っていた。
おおかみおとこ……じゃない。狼族のαの人だ。
バジリスクから僕を助けてくれたその人はフサフサの毛並みで僕を抱きしめてくれて、初対面なのに、なんだかすごく距離が近い。
でも、嫌な感じはない。
むしろずっと前から知っているみたいな、いい匂いがして、すごく落ち着く感じがする。
ちょっと変な言い方だけど、その人の第一印象は『素敵な人だな』って思った。
ふわふわの毛並みに抱きしめられるのが気持ちよくって、助けてもらったのにお礼すら言っていないことを思い出して、慌てて僕は頭を下げる。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「? なにを――」
「おーい! 大丈夫かー? 何があったー!」
先生の声が聞こえた。
僕はほっと安堵したけど、目の前の彼は嫌そうな顔をする。
(……?)
この表情、見たことがあるような……
狼男さんは僕を解放すると、やってきた先生に向きなおった。
「魔獣が出ました。バジリスクの、幼体です」
「お、おう……ってバジリスク!? どこだ!? 逃げたのか!?」
「そこに」
狼男さんが示した場所には、緑色の血だまりとその中央で白い腹を見せているバジリスクの死骸、その首に刺さったままの山刀がある。
生々しい生物の死体に、僕は思わず目を背けた。
先生は血に触れないよう注意深く観察して、
「……本物だな。まさか、うむ、だがこれは……」
いつも明るい先生がすごく深刻な顔で、馬そっくりの顔の口元に手を当てながらぶつぶつ言っている。
「なるほど、助かった。こちらとしてもこの件は厳重に調査しよう。協力感謝する」
「……」
先生は握手をするみたいに手を出したけど、狼男さんはそれを見てまた嫌そうに顔を歪めた。
やっぱり、顔は全然違うけど、このしかめっ面は彼にそっくりだ。
でも、まさか?
そんなことあるわけない。
僕は周囲を見渡した。でも、彼の姿を見つけることはできなかった。

「協力感謝する」
「……」
そう言って差し出された手を、俺は睨むように見つめていた。
俺が手を出さないと、冗談が滑った教師は大仰におどけてその手を頭の後ろに持って行く。
「ところで、もう一人生徒を見なかったか? ペアで行動するよう指示していたんだが」
「……冗談もそこまで行くと趣味が悪いですよ?」
「うん?」
腕を組み、大げさに首をひねり、体で『言ってる意味がわからない』を表現する。
やはりこの教師とは水が合わないと感じた。
ハリムが小さい事を茶化すような冗談も気に障る。
「ハリムならここにいます」
「……いや」
「クライヴくん……?」
ハリムが不安そうな声を上げるので、俺はすぐさま彼を見た。
……?
気のせいだろうか、今日のハリムは一段と小さく見える。
「どうかしたか?」
「え……本当に?」
「? 本当とは?」
言葉の意味がわからない。
すると、
「お前、クライヴか!?」
またいちいち声の大きい教師が騒ぎ立てる。
そんなもの見ればわかるだろうに。
「どうしたんだその恰好」
「どうしたって」
どうもしていない。
そう言いかけたが、ハリムも同じような目で俺を見ている。
(なんだ?)
バジリスクの返り血でも浴びただろうか?
もしそうだとしても容姿が極端に変わるようなことはない、はず……
「な……」
二人の視線に促され、改めて自分の姿を見ると、腕がびっしりと毛並みに覆われていた。
上半身も、顔も、触った場所全部が毛並みに覆われいる。
しかも、なんだか体が締め付けられて苦しいと思えば、着ていたはずの運動着がパツパツに広がり、内側から裂けてボロボロになってしまっていた。
「なんじゃこりゃあああああああ!?」
俺の渾身の叫び声は遠く森の中にこだまして、消えていった。
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